「#2459. 森有礼とホイットニー」 ([2016-01-20-1]),「#2460. William Dwight Whitney」 ([2016-01-21-1]) で,森有礼による日本の英語化についての議論を取り上げた.この森有礼の急進的な英語国語化論に敢然と対抗した一人の知識人がいた.馬場辰猪 (1850--88) である.
馬場は,高知藩士の子として生まれ.福沢諭吉のもと慶応義塾に学び,後にイギリスへ留学し,法学を修めた.その堪能な英語力を駆使して日本を国際的に認知させることを目指すとともに,日本には留学中に学んだ近代思想を導入しようと尽力した.後にアメリカに渡り,フィラデルフィアで肺を病んで客死する.
馬場は,一般にはそれほど知られていないことだが,明治の日本語文法史において注目すべき An Elementary Grammar of the Japanese Language (通称『日本語文典初歩』)を1873年に著わしている.森有礼が日本の英語化の持論をアメリカで発表したのに対し,馬場はこの著書をロンドンで刊行することによってそれに反論し,のちに山田孝雄をして「国語擁護論の大恩人」と言わせしめた.
馬場 (212--23) は,その序論において,森有礼の唱える日本の英語化は,(1) 無駄な時間を費やすことになる,(2) 階級間格差が広がり国民の一体性が失われる,の2点において深刻な問題があり,採るわけにはいかないと力説する.もともとは英語で書かれたものだが,西田訳により引用しよう.
英語は現代語のなかでもっともむずかしい言語のひとつであり,わが国の言葉とはまったく異質のものですから,国民多数がそれを自分のものとするにはたいへん長い時間を要し,多くの貴重な時間が無駄に費やされるでしょう。歴史を繙いてみますと,ある国が他の国から言語を採り入れた例が多く見つかるのは事実です。しかし,たいていの場合は,国が征服された結果,否応なしにそうしたのであって,自らのためにすすんで採り入れたのではありません。ですから,森氏やその他の庶民が日本で行おうと提唱しているものとは,事情がまったく異なります。たとえある国が征服者の威力に屈して言語の採用を余儀なくされる場合でも,その国が,何百年のあいだ使い慣れ,それゆえもっとも便利である母国語を廃棄することはなかったのです。このことは,ウェールズ,アイルランド,スコットランドの国民に見られます。これらの国では,現在,事実二か国語を学んでおり,貴重な時間を無駄にしています。これで,提案の国語置換論の実施はたいへん困難であることがおわかりになるでしょう。
当然のことですが,富裕階級の国民は,貧しい国民層がたえず拘束されている日常の仕事から解放されていますから,その結果,前者は後者より多くの時間を言語の学習にあてることができます。もし,国事が,さらに社交すべてが英語で行われることになれば,下層階級は国全体にかかわる重要問題から閉め出されるでしょう。それは,古代ローマの貴族が jus sacrum (神法),Comitia (民会)等から平民を排斥したのと同じことなのです。その結果,上層階級と下層階級は完全に分離し,両階級のあいだには共通する感情がなくなってしまいます。こうして,国民は一体として行動することを妨げられ,統一体という利点はまったく失われてしまうでしょう。
この序論の結びとして,馬場 (214) は次のように断言する.
すでにわれわれの掌中にあり,それゆえわれわれすべてが知っているものを豊かで完全なものにすべく努めるほうが,それを捨てさり大きな危険を冒してまったく異質の見知らぬものを採用するよりも望ましい,とわれわれも考えるのであります。
馬場の論拠は,これ以上なく妥当なものである.「#2458. 施光恒(著)『英語化は愚民化』と土着語化のすゝめ」 ([2016-01-19-1]) で取り上げた施も,馬場の見解が「現代の目から見ても非常に説得力のあるもの」 (p. 78) であり,「現代の英語化推進派への反駁としても十二分に通用する本質的な指摘である」 (p. 79) としている.
・ 馬場 辰猪,西田 長寿(訳) 「『日本語文典』序文」 『馬場辰猪全集 第1巻』 岩波書店,1987年.209--14頁.
・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.
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