以前の記事で取り上げた「#1980. 主観化」 ([2014-09-28-1]) と「#1981. 間主観化」 ([2014-09-29-1]) について,補足する.トラウゴットによる主観化の定義を,高田ほか (32) により示そう.
語の意味が,[客観的な]事柄や状況ではなく,談話というコミュニケーションにおける話し手(書き手)の[主観的な]視点・態度を,時間の経過のなかで,記号化・明示化するようになるメカニズム (Traugott 2003: 126)
一方,トラウゴットによる間主観化の定義は,同じく高田ほか (32--33) によると,
「話し手(書き手)が,聞き手(読み手)の「自己」へ向けた注意が明確に表現されること」 (Traugott 2003: 128) と定義できる。ここでいう「注意」とは,「発話で言われている内容に対する,聞き手(読み手)の態度に向けられる注意」と「聞き手(読み手)の面子と,聞き手(読み手)が維持しようとするイメージに対する注意」のことである。間主観化は,「意味が,より聞き手に焦点を置いたものになるメカニズム」であり,「話し手(書き手)が聞き手(読み手)の『自己』へ向けた注意から生じた含意が,時間を経て,記号化・明示化するプロセス(ここでの話し手の注意は,認識的・社会的両方の関心を指す)と定義することができる。したがって,間主観化とは,「歴史的に,主観化よりあとに起こり」,「主観化を基盤として生じる」ものを指すことになるのである (Traugott 2003: 129--130)
端的に表現すれば,話し手の態度(主観性)がコード化されるのが主観化,話し手の聞き手への配慮(間主観性)がコード化されるのが間主観化といえる.
主観化と間主観化のプロセスについて歴史言語学の観点から理論的に最も重要な点は,"non-subjective > subjective > intersubjective" という一方向性の仮説が提起されていることだ.この仮説は通言語的に多くの事例により支持されており,同じように一方向性が唱えられている文法化 (grammaticalisation) との相互関係についても議論が交わされている.これらの一方向性の仮説には異論もあるが,いずれにせよ意味変化への語用論の貢献は近年いちじるしい.
日本語からの主観化と間主観化の例として,丁寧語「?ございます」の発達が挙げられる.もともと室町時代において客観的に「貴人の座がある」を意味していた「御座(名詞)+ある(動詞)」という表現が,16世紀末に音韻的に「ござる」とつづまるとともに意味が素材敬語(話題としている人物を高める敬語)に用いられるようになった.敬語の使用は話者の主観的な判断に関わるのだから,敬語化とは主観化の例にほかならない.後に「ござる」は「?ございます」と形を変え,現在では対者敬語(聞き手を高める敬語)として間主観的に機能している.
・ 高田 博行・椎名 美智・小野寺 典子(編著) 『歴史語用論入門 過去のコミュニケーションを復元する』 大修館,2011年.
・ Traugott, Elizabeth Closs. "From Subjectification to Intersubjectification." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 124--39.
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