人々の言葉に関する俗説や神話の類いは非常に根強く,言語学系の概説的な授業では,これらを一つひとつ解きほぐしていくことが課題となる.言語学の概説書にも,そのような趣旨のものが少なくない.例えば,お勧めの読み物としては西江,黒田,ヤグェーロの著書,英語では Bauer and Trudgill が読みやすい.ヤグェーロ(3) によると,発話者の言語に対する態度には3種類が認められるという.
言語に対して発話者がもつ態度は、次の3つに分類できる。
1) 『説明的』態度――合理化とか、理論化の試みにつながるもので、たとえば文法的性と自然の性の一致とか、単語や限語の起源とかについて、そういった試みが向けられる。
2) 『鑑定的』態度――あれこれの言語の美しさ、論理性、明晰さ、単純さなどに対する判断の形で示される。
3) 『規範的』態度――どんな形にしろ言語の「退廃」にはすべて反対という形で示される。
こういった話者と言語の関係の様々のあり方を明らかにしてくれる、既成概念のカタログを、本書でこれからお見せしようというのである。
こういう素朴な概念に対し、科学性という名のもとに対決しても、効果はない。話者は誰でも、結局は自分の幻想を育む権利をもっているのである。
言語学者である私から見ると、このような「自然発生的言語学」は、そこに見られる偏見、単純化、謬見などが、イデオロギー的な危険を示したり、他者の理解を妨げたり、あらゆる形の人種差別に論拠を与えたり、反啓蒙主義に肩入れしたりする場合に限り、うちこわすべきものである。
実は,言語学者は,原則として上の3種類の態度のいずれでもない態度――『記述的』態度――を採用している.言語に対する記述的な態度は,先の3つとは対置されるものであり,むしろその3つの態度から生じるあらゆる種類の俗説や神話を矯正しようとする傾向がある.俗説や神話にはある言語や方言の社会的評価に関わるものが少なくないため,とりわけ社会言語学者は記述主義的な立場からそれらを是正しようとする向きが強い.しかし,「記述的」は「客観的」を含意するようにみえるものの,実際には(社会)言語学者といえども一個の言語使用者であり,完全に客観的な記述性を確保することは難しい.気をつけていないとミイラ取りがミイラになってしまう可能性が常にあるのだ.
ヤグェーロからの上の引用には感心させられる点がある.なるほど伝統的に言語学者の伝道者としての立場はあるかもしれないが,言語使用者の一人ひとりに「幻想を育む権利」があるというのは,確かにそうである.その上で言語学者が意識的に声を上げるべきは「イデオロギー的な危険を示したり,他者の理解を妨げたり,あらゆる形の人種差別に論拠を与えたり,反啓蒙主義に肩入れしたりする場合に限」ってであると,ヤグェーロは主張する.
しかし,である.その「場合」の特定が難しい.特にイデオロギー,他者の理解,反啓蒙主義というのは,それ自体が多分に私的な信念であり,それが犯されているか否かの判断もまた私的なものである.「解放の学」としての社会言語学を実践するある社会言語学者が正義のために立ち上がる場合,問題によっては,その社会言語学者にとっての正義にすぎないのではないかと疑われるような微妙なケースがあるかもしれない.他の社会言語学者から行き過ぎと判断されれば "interventionist" と刻印を押されるだろうし,よりいっそう活動的な社会言語学者からは手ぬるいと評価されるかもしれない.
ヤグェーロは言語学者によるいわば限定的な介入主義を説いているのだが,限定的とは具体的にどこからどこまでのことなのかが明確にされない以上,介入のしすぎ,あるいはしなさすぎという問題が繰り返し生じてしまうのではないか.私は,(社会)言語学(者)は多かれ少なかれ介入主義的なものとならざるを得ないものと考えている.それ自体が良い,あるいは悪いということではなく,言語がその本質として社会的なものである以上,必然的にそうならざるを得ないと考えている.
関連する議論として「#1381. "interventionist" sociolinguistics」 ([2013-02-06-1]) も参照されたい.
・ 西江 雅之 『新「ことば」の課外授業』 白水社,2012年.
・ 黒田 龍之助 『はじめての言語学』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.
・ マリナ・ヤグェーロ(著),伊藤 晃・田辺 保子(訳) 『間違いだらけの言語論―言語偏見カタログ―』 エディシヨン・フランセーズ,1994年.
・ Bauer, Laurie and Peter Trudgill, eds. Language Myths. London: Penguin, 1998.
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