言語変化を予測することの意味については,[2011-08-18-1]の記事「#843. 言語変化の予言の根拠」や[2011-08-19-1]の記事「#844. 言語変化を予想することは危険か否か」で議論した.今回は,この問題についてもう少し議論を続けたい.
言語変化の予測,予想,予言については,言語研究者のあいだでも考え方が分かれている.言語学を自然科学のようなものとしてみる向きの強い研究者は予測を是としているようであり,そうでない研究者は言語学の目指すところではないとさっぱり切り捨てる.ただし,後者でも,学問の対象としての言語変化予測は切り捨てるとしても,関心がないということではないだろう.むしろ,おおいに関心があるのではないだろうか.この点で,言語を記述する研究者が,しばしば言語の規範にも並々ならぬ関心を抱いているのと似ているように思う.
予測を是とする者と非とする者の言葉を1つずつ引用しよう.私が読んでいて直接出会ったものである.まずは,賛成意見として,アメリカの著名な英語学者 Algeo (4) より.[2010-06-16-1]の記事「#415. All linguistic varieties are fictions」で取り上げた,言語の variety とはすべてフィクションだという趣旨の論文からの引用.
Without such fictions there can be no linguistics, nor any science. To describe, to explain, and to predict requires that we suppose there are stable things behind our discourse.
Algeo の考え方はこうだろう.言語研究は言語を抽象化したところに成り立つものであり,抽象化した限りにおいてであったとしても,言語変化の予測が可能とならなければ,言語学はまだまだ記述力も説明力も足りない段階にあるのだ,と.なお,Algeo のこの発言については,Lilles (3) が ". . . the role of predicting language change hardly seems an essential component of linguistics." と返している.
次に,反対意見として,日本語学者の小松 (17--18) を引く.
しかし、将来、どれほど研究が進歩しても、可能なのは、特定の限られた事柄についての短期予測だけであって、日本語の将来の状態を予測することは原理的に不可能である。/今から100年前(明治末期ごろ)、50年前(いわゆる戦後の時期)のデータに基づいて現在の日本語の状態を予測したとしても、その結果が現実と一致することはありえない。言語は社会の変化に連動して変化するが、社会の変動を具体的に予測することはできないし、社会の変動が言語にどのように具体的に反映されるかは、必ずしも一定ではない。また、予測が可能だと仮定しても、人口動態や自然災害などと違って、変化にそなえて対策を立てる必要はないから、役に立たないことに変わりはない。
小松の要点は,言語変化の予測が (1) そもそも原理的に不可能であるという点と,(2) 役に立たないという点だ.しかし,(1) について,ある言語体系全体の予測は確かに原理的に不可能だろうが,限られた範囲での近い未来の予測であれば,それなりの精度が得られるかもしれない.次に,(2) について,なるほど言語変化の予測は役には立たないかもしれないが,予測への関心は,役立つかどうかというよりは,純粋な好奇心に根ざしているものであり,見返りを求めるものではない.
言語変化の予測には捨てがたい魅力がある.ただし,その前にすべきことは,たくさん残っている.予測が可能かどうかの議論は別として,まず過去と現在の言語の動態を記述することが先決だろう.
・ Algeo, John. "A Meditation of the Varieties of English." English Today 27 (July 1991): 3--6.
・ Lilles, Jaan. "The Myth of Canadian English." English Today 62 (April 2000): 3--9, 17.
・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.
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