わたしの乳がん体験記 その2

     加藤 万里子 (天文学者)

癌の告知

わたしの子ども時代、癌は死の病気と受け止められていた。告知するとショックが 大きすぎるため、家族は病人に病名を偽った。癌が直る病気になってくるに従い、 本人に病名も告知されるようになる。 ジャーナリストの千葉敦子さん(1940-1987)は、乳がんになった経験を 『私の乳房再建』という本に書いた。まだ癌の告知もセカンドオピニオンも 乳房再建も一般的ではなかったころの話である。その後、ジャーナリストとしての 仕事の幅を広げ、また自分で選んだ最良の癌治療を受けるためにアメリカに移り住む。 自分のことは自分で決める、しかも仕事も人生も女であることも妥協しないという 強い主張は、若いころの私に鮮烈な印象を残した。英語と日本語を駆使して 活躍する姿もカッコイイと思ったし、いよいよ最後という時まで新聞連載を続けた 『死への準備日記』も衝撃的だった。乳がんとの戦いは、ひとりの女性が自分で 人生を切り開き、よりよく生きるための戦いであることを示した。

わたしの場合

今を遡ること30年、いつもどおり婦人科の定期健康診断をすませた私に通知が届いた。 『あなたは病気(子宮癌)の疑いがあります。二次検査を受けて下さい。XX癌センター』 えっ、わたしが子宮ガン!大きなショックを受けた私は、体ガンの死亡率の高さを調べては おののき、ガンで死ぬのは嫌だ!と次の日から、文字通り泣き暮らした。そのころの私は 若手天文学者として、新星の理論を確立し、これからいろんな新星への応用にとりくもうと していたところ。これはどうしても急いで書きかけの論文を完成させ、私の新星風理論の レビュー論文も書き、家族あてには長い長い手紙をかく。この3つは死ぬまでにやりとげ なければと泣きながら計画した。そして2日たち、はっと気がつく。検査をうけたのは 子宮頚部ガン。生理不順だったのでアンケートの「不定期な出血あり」に丸をつけた。 だから単に子宮体ガンの検査を受けなさいという意味なんだ!とたんに涙が止まる。実際 その通りで、結果はシロだった。いまとなっては笑い話だが、これを他の人に話すと 似たような経験をした人もいた。 それから15年後、夫がガンになる。健康診断のエコーで腎臓ガンがみつかった。 検査の時に「あー、何かできてますね」でと言われ、告知も何もあったものではない。 この時は二次検査をへて即入院だった。入院はしたものの手術まで何日もあったので、 本人はパソコンで長い論文を猛烈な勢いで書いていたっけ。そのときは本人以上に恐くて 心配だった。そのころ私はセクハラ被害で心身の健康を害し、勤務先の大学を10ヵ月間 休職して他大学に逃げていた時だった。夫がいなくなったら、わたしはどうしたら いいんだろうと、ひどく動揺した。 それから数年して、私のおっぱいに小さなシコリを2つみつける。マンモグラフィーでも ひっかかり、生検(太いピストル5回)を受けた。このときも少し落ち込んだ。経過を みたが数年たっても変わらず、もういいでしょう、と検査から解放される。今後は健康 診断ではなく自分で別の病院へ行ってください、という。めんどうになった私は当分 検査はいいやと行かなかったのだ。そして数年たつ。(その1の冒頭へ続く)。

2度目の手術?!

(その1から続く)経過は順調ですよと言われて退院。しばらくして細胞診の結果が出る。 グレードI、非侵潤癌なのでこれで死ぬことはないです。だたし、、、と言って先生は 手術で切り取った部分の画像を示す。ここが石灰化した部分で、ここが手術前の検査で 癌細胞があるとわかっていた部分、この周囲を大きめに切り取ったが、切片を調べると 癌細胞が下端ぎりぎりまであり、上の方にも独立に癌細胞が広がっていた。ということは もっと広い部分にも癌細胞があるかもしれない(し、ないかもしれない)。 さて、どうするか。先生はいろいろ数字をあげて説明してくれるが、動揺してすんなり 頭にはいらない。てっきり、放射線治療25回をやれば治療は終り、おっぱいもこのまま ほとんど形がかわらないと思いこんでいたので、これは予想外だった。がーん、 放射線治療をしても乳腺が残っていれば癌は再発するかも。残りの人生を心おきなく 研究に集中したい。答えはひとつ。動揺しつつ「全摘」を選んだ。 次のチョイスは、乳房再建をするかしないか。 ちらっと千葉敦子さんの本「私の乳房再建」を思い出す(彼女は若くて40代だった)。 私はもう61歳ですが?と言うと、先生はまじめな顔で「あと28年あります。長いですよ」と 言う。時代は変わったなあ、と思いながら、こんなペチャパイだからやらなくても、 と言うと、先生は私の無事な方のおっぱいをちょっと見て、なんと、「平均より少し 大きい程度です」とまじめな顔で言ったのだ。 えぇぇぇぇ!? このセリフ60過ぎて始めて聞いた!私は若いころから小さな胸がコンプレックスで 胸がえぐれた夢をみたほどだ。なのに、この歳で、しかも全摘するという段になって 言われてもぉ!? 「もっと若いころに言ってよ!」「私の青春を返せー!?」と 意味不明のフレーズが頭のなかをぐるぐる回る。 後日談:この話をすると、 娘「いまの若い人はすごく痩せているからじゃない?」 同年代の親しい同僚「中年になって脂肪がついたんじゃない?」 3日後、治療方針をあらためて確認する。今度は先生の説明が頭に入る。チョイスは3つ。 (1)放射線治療のみ(2)放射線治療+ホルモン治療:この場合は取ってない方の乳房の 癌予防にもなる (3)急ぐことはないが、いずれ乳腺を全部とる(全摘):これが最も安全。 放射線治療をした場合の効果はこれこれで何%、放射線治療をした後で再発した場合は 侵潤癌である割合が何%と、先生はすらすらと数字を並べていく。全摘するなら乳頭を 残すか残さないかの選択もしなければならない。 直後に形成外科の先生の話も聞く。乳房再建がふつうのオプションになっている。 再建はあとでもできること。シリコンを入れる場合、劣化するので10年ごとに取り換える 必要あり。自分の体から作る場合は、背中の筋肉+脂肪+皮膚を血管がつながったまま 切り取って前へもってくる。うーん。どちらも私の自然観というか生物観というか 人生観と合わないな。で、結局、乳房再建はやらないことに決めた。 私は「アンチエイジング」があまり好きではない。国際会議で日本人は若くみられる。 30代のとき、ある国際会議でポスターの前にいたら、イギリス人の若いおにいちゃん から、「オマエは大学院生か?」ときかれ、むっとして「あんた、私の理論を知らない の?」と喧嘩腰になったことがある。それ以来、白髪が2、3本もあれば大切にして、 目立つように前髪の上側に出した。振りかえってみると20代より30代、30代より50代の 方が自分の人生を圧倒的に楽しんでいる。でも歳をとれば、体の何箇所か不具合ができる のはあたりまえ。歳を取るってそういうことではないかと思う。 私は強運だ。60過ぎて乳がんがみつかったけど初期がんで転移はないし、4月から 1年間講義をしなくてよいのだ(大学の教員はサバティカル(特別研究期間)といって、 講義や会議がなく研究に専念しなさい、という制度がある)。だから治療のために 講義を休まなくてすむ。 さて、形成の先生の話を聞いた後で主治医(乳腺外科)の先生のところに戻り、 時間のゆとりのある今年度中に全摘したいと申し出る。夏は研究で外国へ行くから 手術は春か秋。(手術の傷がまだじくじくしているのでどうせなら)早い方がいいです。 先生の手術スケジュールは2ヵ月先まで埋まっていたが、ピンポイントでこの時間だけ 空いているという日を探してくれた。あさって入院で次の日手術ですが、大丈夫ですか? はいお願いします。というわけで急きょ入院となった。 帰りの電車の中で小説を読みながら、意識の片側で少し迷った。全摘でいいのか? 乳首を残さなくても?迷っても自分の結論は変わらないと自分でわかっているのに、 感情の方はちょっと違う。

ふたたび入院

入院も2回目ともなると少し余裕も出てくる。前日の夜に手術を担当する乳腺 外科の先生3人が挨拶にみえる。3番目の先生は前回とは違い女性の先生になった。 何であれ専門職についた若い女性と話すときには、つい「がんばってください」と 言ってしまうのが私の癖だが、(いまの場合、がんばるのはわたし)と思い直して 言葉を飲み込む。 手術の時がきた。今度は「麻酔効いていますか?」「いいえ」で意識がすとんとなくなり、 「終りました」で目がさめた。部屋にもどっても麻酔がなかなかぬけなくて、だるさが 続く。前回はなかったドレーン(傷口から出る液をうける管)が胸に入っていて、そこが 少し痛む。夫が帰ってから朝になるまで長い長い夜だった。絶食時間が長かったので、 おなかが空いて胃のあたりが締めつけられる感じでつらい。食べものの夢をみた。 むかしお産で入院した時のことや、娘が小さくてかわいかった時のことを考えると、 自然に笑みがうかんで気分がまぎれる。次の日もまだだるく、あれほど空腹感があったのに 食欲がない。さすがに切った部分が広いと違うのか。だるいのでベッドで本を読んだり 眠ったり。夜、娘がきて、ふたりで恐る恐る傷口をみる。言われていた通り、胸は平らで 横一文字に縫い目があり、透明なテープが張ってある。例によってシャワーも歩行もできる。 2日たつと楽になり、回りを観察したり、先生や看護士さんとおしゃべりする余裕もできた。 夜は窓から夜景を見たり本を読んだり。ぜんぜん痛くなくなった。今回はドレーンが ついているので、歩くときは液をうけるバッグを下げる。私は血の色を見るのが大嫌い なので、バッグをネッカチーフで包み、セカンドバッグのようにして歩いた(ドレーンは 退院前にぬけた)。 自覚がないが、私は昔から集中すると恐い顔になるらしい。ベッドの上に論文や 資料を広げ、これから書く一連の論文の作戦(ようするに世界戦略)を考えたりした。 病室は個室だが、人の出入りは頻繁にある。体温測定、血圧、ドレーンのチェック、 食事の上げ下げ、そうじ、先生の診察など。そのうち部屋に来る人くる人が 「お仕事中すみません」と断って入るようになった。ひょっとしてわたし、恐い顔を していたか?まずい。ここは研究室ではなく病室、治療をしてもらうんだから、 営業用スマイルとまではいかなくても、普通の顔でいなくては。 (注:職業は大学教員なので、この場合の営業用スマイルとは学生むけの笑顔のこと。 つまりどんな基本的な質問にも笑顔で答えるための心がまえ)。 手術がおわり、片方の乳房を全摘(乳腺をすべて摘出)したので、癌細胞はなくなった。 全摘したので基本的にすべて終り、放射線治療もないのが嬉しい。私はもう癌患者ではなく、 ただの怪我人なのだ。下手人はお医者さん(ただし合法的)。自覚症状がなかったので、 乳がん患者という実感もないまま、治療は終った。 乳がんの手術は乳腺外来で診察を担当している二人(ここでは敬称略で「お医者さんその1」と 「お医者さんその2」としよう)が行うそうだ。二人とも手術ができるように準備しておき、 実際にはその場で決めるそうだ。飛行機の操縦を機長と副操縦士で分担するようなものか。 私の主治医は「お医者さんその1」。数字がすらすら出てくる優等生タイプ。 「お医者さんその2」は私の見るところ、学術派というよりは行動派のようだ。 あらためて考えてみると関係者全員が少女漫画にでてくるタイプで、少年漫画に よくいる筋肉隆々でこわもてお兄さんタイプはみかけない。乳腺外科や形成外科の 先生はもちろん、男性の看護士さんも女性に抵抗感のないタイプで、傷口をチェック するときも「女性の看護士を呼びましょうか」と気遣いする。先生まで傷口の 腫れのチェックを下着の上からさわっただけで済まそうとする。男の人に胸を 見せるのが抵抗ある人にはありがたいだろう。 退院後、よく考えると「先生その1」と「先生その2」のコンビは絶妙だ。少女漫画の 定番は、ヒロインをめぐる2人のイケメン少年の物語。一人は優等生タイプの おぼっちゃん、2人目はやんちゃで何か特色をもつ男の子というのがおきまりだ。 そういえば、乳腺の先生は目立たないがヒロインに要所でアドバイスするおじいちゃん タイプに相当するな。そう考えると、先生方のコンビネーションは少女漫画の黄金率に なっているではないか。 ところで私は血をみるのが大の苦手。料理でちょっと指を切ると、顔から血が引き、 ソファに倒れ込む。バンドエイドを巻いた指を上げて見せ、「わたし怪我人〜もう 料理できない〜」と倒れていると、夫が苦笑いして料理を続けてくれる。 高校生の時、生物学の実験で、自分の血液型を調べるというのがあった。針で指先を つついて血を1滴とり、それを分析するのだ。ところがわたしが指を針でつつこうと 思うと、ぜんぶの指先が真っ白(たぶん顔も真っ白)。けっきょく針でつついても血が 出なくて、自分の血では実験ができなかった。 そのくらいだから、これまで私が「外科医」と縁がなかったのは幸いだ。 「先生その2」と話していて驚いたのは、なんと手術が大好きらしい。ええーっ? じゃあ、あの温厚でまじめそうな「先生その1」も手術が大好きなのか!? (その時、メスについた血をみてメガネがキラリ、嬉しそうに笑う恐い顔が見えた。 注:これはわたしの脳内妄想です) 考えてみれば、1日に何回も手術するんだから、 手術が嫌いだったら外科医は勤まらない。退院の前日、手術を担当した先生方が 全員で挨拶にみえた。狭い私の病室に、4人が勢ぞろい。うわー。このひとたち、 みんな手術大好き人間なのか!頭の中が白くなり、お礼の言葉がろくに出てこなかった。 ごめんなさい。

退院後

いつものだぶだぶ服では全摘しても目立たないが、いっそこの機会にイメチェン してみようかしら。ブラに入れるパッドはいろいろ売っているが、みな肌色で、 胸のふくらみが自然に再現できるよう、あくまで「目立たないように隠す」コンセプト。 いまどきィ?なぜ隠す?パラリンピック選手のかっこいい義足を見よ。車椅子にも 羨ましくなるシャープなデザインだってあるし、杖もカラフルな花模様が一般的だ。 なぜ乳がんだけ日陰の存在?この国の乳がん文化(あるのか?)は貧しいぞ。 まず考えたのは、アシンメトリーを生かしたファッション。片方だけ胸が平らで ないと、とても着こなせないドレスとか。たとえば片胸だけフリルひらひらな服、 あるいは逆に片方だけスレンダーにして胸が両方豊かな人には似合わない服。 どーだ、うらやましいだろって思わせるような服はないのか?娘にその話をしたら、 「おかあさんの非対称はそこまでじゃないから」と却下された。 次に思いついたのは空きスペースの有効利用。ブラと胸の間にすき間がある ので、そこを隠しポケットにするのだ。外国へ行くことが多いので、貴重品の 隠し場所があると便利。一番大切なのはパスポートだが、形と大きさが合わない なぁ。パスポートを丸く切ったら無効になるだろうし。それに取り出す時に困る。 退院してから、やけに胸の片側だけ寒い。厚い脂肪がなくなったので無理もないか。 ブラの中にあんかをいれる人もいると聞いた。低温やけどに気をつければ、それも いいかも。男の人はこんな寒い思いをしているのか?と思うとかわいそう。 そういえばドーバー海峡を泳いで往復した人は女性ばかり。女性の生命力は男の比 じゃない。おっぱいが片方なくなったくらいで女であることはゆらぎなく、 生命力は落ちないのだ。

それにしても

石灰化乳房って、かわいくないネーミング。そりゃカルシウムがたまるからでしょうが、 できれば他の名前に変えてもらえませんかねぇ。だって石灰化乳房でわたしが連想するのは これ "石膏化"乳房?

女であることは社会的存在

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いたのはボーヴォアール (いまはサルトルと一緒のお墓にいます:パドヴァ滞在記パリ観光編3の最後の写真)。 わたしはこれまでの人生で、女であることに全エネルギーの半分を使い、研究むきとは 言えなかった職場(今は違うが昔は研究しない先生だらけだった)にいて、研究をする というだけのことに残りの半分のエネルギーを使い、その残り、つまり全エネルギーの 1/4くらいで研究を続けてきた。私が選挙権を得た20歳ころには、女が仕事をするなんて 生意気だという雰囲気が社会を満たしていて、政府の政策もそれに沿っていた。その頃の 公正公明をうたうある議員の選挙フレーズは「女性が働かないですむ社会をつくります」 だった。そんな中で、しかも女がマイナーな理系社会で生きていくのはとても大変。 私が女でなかったら、もっとエネルギーを研究にそそげるのに、と何度思っただろうか。 そんなこんなで切りぬけてきて、子育てもすみ、研究者としても確立し、やっと研究に めいっぱいエネルギーを注げる時に、オンナの病気、乳がんになった(注:男性もまれに かかります)。こればっかりは生物である以上しかたないか。 わたしの理想の人生は「くそばばあ」。いろいろあったが、順調に理想に近づいて いるようで嬉しい。 2015.5.8 (完) 後記:その後も変わらず元気でくらしています。天文学の講義をするかたわら専門の論文を書き、 定年になった夫と散歩に行き(彼氏は論文を書く時間がふえて喜んでいる)、ときどき 夫と外国の天文学者のところに行きます。友達と温泉旅行にも行きました。再建しなくても不便なし。2018.6月。

わたしの乳がん体験記 その1へ戻る
辛口批評(子育てエッセイほか)へ行く
加藤万里子のトップページへ行く
Copyright: Mariko KATO, 2015