わたしの乳がん体験記 その1

     加藤 万里子 (天文学者)

ことのはじまり

そろそろ婦人科の健康診断に行こうか。ここ数年やってなかったし。と 思い立って検査に行ったのが去年の12月。数日後に病院から電話で、精密検査に 来いという。またか、と思って(注:このへんの事情は「その2」をみてね)、今回は 何も考えずに検査に行く。石灰化した部分の他に、黒いとがったものが網状に 広がっているから、8、9割がた乳がんでしょうとのこと。マンモグラフィーと 超音波のほか、細い針を差して生検。新年になり、生検の結果が出て、この確率は 99%に上がる。ただし初期なので、いますぐ死ぬということはない。ショックでは なかったが、これまで私は、ペチャパイの長所は、しこりがあればすぐわかることだと 思ってきた。よく1センチのシコリなどと言うが、そんなに大きなものがあれば、 私ならすぐわかる。それなのにシコリのないタイプもあるのだという。 「乳がんの自己検診をしましょう」というポスターは何だったのだ! 「どの病院がいいですか?」「えーと、家の近くがいいです」検診センターの 先生にあちこち問い合わせてもらい、翌日、紹介状をもらった病院へ行く。 ここでさらにマンモ、超音波、生検(今度は太くてどーんと音がする)。 「乳腺にそって細かい点がたくさん一列になっているので、癌でしょう」 と確定した。癌についてはとりたてて何も感じなかったが、翌週のMRIとCT検査の 日までが嫌だった。だいたい、この癌で死ぬことはないと言われているのに、 造影剤使用の説明には、「副作用で死ぬ確率がこれこれあります」とあり、 同意書に署名しなければならないのだ。癌で死なないのに検査で死んでどうする! 検査の日は朝からやたらドキドキしていたが、病院へ行くのは午後。午前中に 定期試験の監督をやっているうちに気がまぎれる。何にせよ仕事があるのは良いことだ。 MRI検査では、うつぶせの状態でトンネルに入ったまま30分じっとしている。 そういえば、某大学の強磁場実験装置の中に、いろいろな生物をいれて、 生きていられるか調べた実験について読んだことがあったなあ。 何年も前に宇宙生物学会ができたけど、学問はどのくらい進展しているの だろうか。中性子星の磁場は10の12乗ガウスというとんでもない磁場だけど、 白色矮星の磁場はもっと弱く、10の6乗くらいだ(MRIは1万ガウスくらいなので それより少し弱いくらいか。注:地球の磁場は1ガウス弱)。 トンネルの中にいると機械の音がうるさい。磁場の形がどうなっているのかは わからないけど、白色矮星の表面から双極磁場がつきでている中にいるって こんな感じ?(注:あとから考えるとぜんぜん違う)いままで私の論文では磁場を 無視していたけど、この中に30分も入っていれば、新星爆発の時にガスがどう 動くか何かアイディアが浮かぶかも?? そう思ったけれど、うとうとして、何も思いつかないままに検査は終った。 (後で夫にこの話をしたら、磁場の立体構造を考えるのはキミには無理と言われた。 私は1次元計算しかやる気がないが、夫は3次元形状の計算も得意。) その日の午後に結果が出て、転移はなさそう、治療方針は部分切除+放射線ときまる。

入院前

こういうわけで、手術することにはなったが、春は忙しい。もともと期末試験の 採点が終ったら花粉をさけて沖縄へ行き、戻って大学入試が終ったらスペインへ 出張の予定だった。自覚症状はなく、だるいとかつらいということも全くない ので、病人の自覚もない。「癌は安静にしていれば直るという病気じゃないから」 と手術の合間に全国を飛び回っていた物理学者もいたと思い出す。 お医者さん二人の診断で、緊急手術が必要な段階ではないことは理解した。 それで手術は2ヵ月後に出張から帰った後にしてもらう。 ざっとwebをサーチして、乳がんについて調べる。乳がんになる人は多いようで、 いろいろな治療方法や、手術の流れの説明もわかりやすく出ている。 手術直後に病室に戻ってきた時には、あなたの体にはいろんな管がささっていて こんな感じです、でもすぐ取れて動きまわれます、というリアルな絵もあった。 私のように初期の段階だと、なんだか、はい次、はい次、とごく簡単にことが 進むような印象を受けて、ちょっと安心する。 この頃、偶然立ち読みした雑誌に、ある作家の乳がん闘病記がのっていた。 この方の乳がんは左右両方にあり、私より進行しているのに、杖をついて全国を 飛び回っている。癌ではすぐには死にません、みなさんも元気を出して、という 強いメッセージがオーラを放つ。(実はこれが、この文章を書くことにした動機 でもある。私はぴんぴんしています。大丈夫ですよ。みなさん乳がん検診に 行きましょう。) こうして私は自分の癌についてしばらく考えないことにした。考えても直るわけじゃ ない。とにかく外国出張から帰るまで何も考えない。自覚症状がないので、これは わりと簡単だった。 沖縄 国際通り ちゅら海水族館の前 (そうは見えないでしょうが)ホテルで論文書きしてました。花粉がなく快適です。 マドリッドにあるスペインの王宮 (研究に飽きると夫とよくここまで散歩に行った。夕日がきれい) (マドリッドについてはパドヴァ滞在記(9月)もみてね)

入院の準備

3月中旬にスペインから帰国。会議や研究会にも出席し、いよいよ入院準備。 保険の書類を請求したり、衣類をそろえたり。 薬は持ち込めるので、花粉症の薬をもらいに、いつも通っている近所の内科へ。 「乳がんがみつかったので今度入院して手術します」といちおう先生に報告すると、 そっけなく「それはたいへんですね」とまったくのひとごと発言。そりゃ内科の お仕事ではないですからねぇ。一般の人には天文学と気象学を混同されることが 多いが、「このごろ天気予報があたりませんね」と苦情を言われても、 「それは気象の人に言ってください」と全く動じないのと同じか。いっぽう昔からの かかりつけの歯医者さんは、最近奥様をガンでなくされたので同情的だった。 お医者さんの職業意識がよくわかる。(注:苦情をいっているのではありません) 入院のための準備は簡単だった。リストにあるわずかの品をのぞき、基本的には 旅行用品なので、出張帰りの荷物を詰め替えればいいだけ。パジャマやタオルの レンタルもできるし、宅配も可能だ。お菓子はどれ、漫画は何を持って行くと、 緊張感もなく、わずかに遠足気分がただよう。

そして入院、手術

夫が着替えや本を持ち、私はパソコンと論文の束を持つ。ふたりで電車に乗っていると、 いつもの出張と変わらない。そういえば入院した経験は30年前のお産だけ。 あの時は6人部屋で、新生児が母親の隣にいて、夜昼かまわず交替で泣いてたっけ。 新生児もそれぞれ泣き声が違うので、自分のこどもが泣いた時だけ目がさめた。 今度は個室でシャワーとトイレつき。ロッカーの荷物を置くスペースも十分で、 へたなビジネスホテルよりずっと良い。小さい机にパソコンを置いて仕事もできる。 しめしめ。インターネットはないが、もしあったら絶対に無理するから 無い方が良い(後にネットのない世界は自由ですばらしいと感じることになる)。 翌日。手術の時がやってきた。友達のお見舞カード(開くと紙の帆船が立ち上がる 凝ったもの)と夫と娘が持ってきたお花を枕もとにかざり、いざ手術室へ。テレビで おなじみの緊急シーン(ベッドに横たわった病人を緊迫した雰囲気で運ぶ)は無い。 乳がん患者は元気なので、自分で手術用ガウンに着替え、自分で歩いて手術室へ行く。 隣を歩く夫が、「鴨が葱しょって。。。」とつぶやいたように思うが、もしかしたら 「注文の多い料理店。。。」だったかもしれない。 『手術室』の前で家族と別れて、いざ手術台へ。私が7年前に滞在したイタリアの パドヴァには、ガリレオが講義したことで有名なパドヴァ大学がある。そこは世界で たしか2番目に人体解剖が行われたところだ (詳しくはパドヴァ滞在記「パドヴァの解剖学教室」の2番目の写真です) 現代の手術台も似たような大きさだなと思いつつ、自分で台に上がる。 わたしは全身麻酔が恐かった。前の日に、麻酔の先生に「目が醒めないことはあり ますか?」と質問したくらいだ。現在の麻酔薬は入れるのをやめると5秒で目が さめると聞いてちょっと安心。次の関心は、麻酔ではどのように意識が遠ざかるか、 だった。私は毎朝目が醒めるとき、とつぜん意識が戻り、あの論文のどこをどう直そう とか、今日は講義でプリントのあの部分を追加説明しなきゃ、と非常に具体的な 予定が頭にうかぶ。寝る前はそんなこと考えていないのに。だから麻酔から目が さめる時に、いったい頭に何が浮かぶのか楽しみだった (ひょっとしたら画期的な アイディアを思いつくかも?)。 心電図の機械がセットされると、ぴっぴっぴっと規則的な音が響く。点滴がはじまると ぴっぴっの間隔は変わらないのに、頭の上で飛びかう会話がスローになっていく。 「あー、私の意識は変わらないのに、会話の認識はスローになるんだ」と 思っていたら、「麻酔が入ります」との声がスローで聞こえ、意識がなくなった。 (後で聞いたら、麻酔薬は臭いので、はじめに別の薬を点滴にまぜるらしい) 「終りました」という先生の声が聞こえて、手術室の天井が見えた。目をつぶって いたらゴロゴロ動く音がして、目を開けたら病室で、夫と娘の顔がどアップで見えた。 画期的なアイディアは何も思いうかばなかった。後で聞いたら、麻酔をかけると脳の 働きが落ちるので、何も考えないらしい。何だそうか。 病室のベッドにいても、点滴やら酸素マスクやら管がいろいろついているが、 傷口は痛くない。3時間すると酸素マスクがとれるはずだが、看護士さんが 来ないので思わず遊ぶ。「ハァー、ハァー、私はもうだめー」と息たえだえの私。 「おかあさん!私を置いていかないでー!!!」とただちに叫ぶムスメ。 (ノリが良い親子です) 今から思えば、ここでふたりでピースしている写真をとっておけばよかった (酸素マスクはすぐに片付けられてしまう)。 3時間後、ベッドをあげて頭をおこし、ジュースを飲む。頭ははっきりして いるので、日経サイエンスなどを読んで過ごす。1日目の夜はいろんな管がささって いたり、足にマッサージ器がついているしで、眠りにくいので睡眠薬をもらう。 翌朝にはすべての管がとれて、食事も再開し、気分も上々。縫った傷口には透明な テープが張ってあるだけで、そのままシャワーもできる。自由に歩いてよいし、包帯も ない。縫った糸はそのうち自然に溶けるので、抜糸なし。乳がんの手術ってこんなに 楽だったのか。。。私の癌は非侵潤でリンパ転移もなかったので、手術は、たとえて いうなら「あんまん」の横をちょっと切って、なかの餡を1/5くらい切り出した感じ。 胸の脂肪がなくなっただけで、消化器も筋肉も骨もそのままだから、食事はできるし 歩けるし、仕事もできる。 入院期間は6泊7日。自由な時間(たっぷりある)には論文を読んだり、パソコンで 数値計算をして過ごす。もともとツイッターはやらないし、急ぐような仕事のメールも ないので、インターネットがなくても不自由はない。夜は軽めの小説や漫画を読んだ。 週末、お医者さんから許可をもらい外出。外出届けに「観光」と書いたが、正しい書き方は 「試験外出」だったらしい。家族でおいしい中華料理を食べ、スケルトンの観覧車に 乗ったりして楽しかった。帰りはだるくなったのでタクシーで病院へ戻る。 それにしても、ぜんぜん痛くないのは不思議だ。看護士さんに聞くと、痛みの感じ方は 人それぞれですという。先生に聞くと、皮膚の下にある神経もいっしょに取ったので 痛みを感じないそうだ。痛かったのは1度だけ。手術後3時間たって、始めてベッドで 起き上がったとき、傷口が地球の重力で引っ張られてチクチクした。痛み止めは 入院中だけだったが、退院後もぜんぜん痛くなかった。

退院その後

思ったより手術は軽くすみ、元気で退院する。気分も上々。日ごとに疲れがとれ 体力もついてくる。我が家では家事は夫と半々でやってきたが、何も言わなくても夫が ぜんぶやってくれるのが、ちょっと可笑しい。 私は乳がんがみつかったが、初期だったし転移はないし、運がよい。さあ、これから 放射線治療25回が待っている。がんばろう。病院を変えてもいいので、もっと家の 近くにするか、それとも寄り道が楽しい場所にするか。などと考えているうちに 診察日が来た。ところが細胞診の結果が出て、事態は思わぬ方向にいくのであった。 2015.5.1 (「その2」へつづく)

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