一昨日の Voicy heldio にて「#974. 1年間の「英語史」の講義を終えて --- 2023年度版」と題して,慶應義塾大学文学部英米文学専攻で私が開講している「英語史」講義の履修者から回収した感想をいくつか紹介しました.毎年この時期に hellog や heldio にて報告する慣習ができ,恒例のイベントとなってきた感があります.今年度のものを含めこれまでの「英語史」講義への感想のリンクを以下にまとめておきます.
・ heldio 「#974. 1年間の「英語史」の講義を終えて --- 2023年度版」 (2024/01/30)
・ helwa (有料配信)「【英語史の輪 #87】1年間の「英語史」の講義を終えて(続編)」 (2024/01/30)
・ heldio 「#607. 1年間の「英語史」の講義を終えて」 (2023/01/28)
・ hellog 「#5020. 2022年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2023-01-24-1])
・ hellog 「#4661. 2021年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2022-01-30-1])
・ hellog 「#3922. 2019年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2020-01-22-1])
・ hellog 「#3566. 2018年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2019-01-31-1])
・ hellog 「#2470. 2015年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2016-01-31-1])
冒頭に掲げた heldio 配信回では,ほんの数名の履修者のコメントしか紹介できませんでした.手元には読み上げきれないほどの分量があり,どれもこれも紹介したいところですが,以下にいくつか選んだ感想を掲載します.文章は中略したり軽微な編集を加えているところはありますが,基本的には履修生から寄せられてきた原文のままで公表しています.なお,感想を募った際の文言は「今期あるいは今年度の英語史の授業を通じて学んだ(広い意味で「学んだ」)事柄のうち,あなたにとって最も価値あるものは何ですか.自由に記述してください.」でした.
植民による支配の歴史の中で世界中に広まり,現在はグローバルな言語として定着した英語そのものが,その言語史の中で被支配を受けてだんだん変化し,独自性を取得しながら今ある形になったのだということ.特に「中英語は方言の時代であった」の部分,音声と綴字の不一致について学んだパートはとても興味深いものだった.他のヨーロッパ諸語と比べても,単純で明瞭に思える英語が古い形から,そうした周囲の複雑な言語にもまれて,今の形に変わっていく過程を追うことで,何気ない英語の「当たり前」にも歴史的意義を問う姿勢が,学び始めと比較して身についたと思う(heldio で紹介されていた「変なアルファベット表」の完成も楽しみである).この授業とは別に,語学科目としてフランス語とラテン語を受講していたが,どちらも英語種に深く関わる言語であったため,それぞれ学んだ内容が線で繋がる感覚が面白く,多角的に勉強することの意義を再確認できたと思う.
私の中での英訳の捉え方が変ったことです.英語史をやるまでは,世界は英語とその他言語で構成されているように見えていて,日本語を英訳するというと,マイノリティ言語からマジョリティ言語に翻訳するというふうに捉えていました.この概念において,マジョリティーは英語一強であり,残りがマイノリティという関係図が脳内には住んでいました.ですが,英語史において借用について学んだことで変わりました.借用語が山ほどあるといったことはもちろんですが,例えばラテン語は英語の復権時に語彙の欠乏をカバーする最も効率的な方法として流入した,ということや,聖書の英訳時には語彙の欠乏に悩みを抱えてラテン語を流入した等です.これを聞いて英語も英語を確立するまでの基盤を作るための手法として英訳をしたんだということに気付き,英訳という概念は決してグローバル化のためだけのものではなく,多角的に捉えられるものだし,かつ英語そのものの成長にも関わる方法なのだと気づかされました.
一つの授業でも抜けると分からなくなるくらい繋がりがあり,一本のストーリーラインがあるなと強く感じた.途中から『進撃の巨人』を読んでも,伏線回収や一つの行動選択の影響の余波なんて想像できないだろう,それと同じような心持ちになった.古ノルド語と出会っていなければ,ノルマンコンクェストがなければ,はたまたウィリアム一世がフランス語に統一していたら,そんな「what if」がいくつも思いつき,そのような英語を変えてしまうような分岐点が英語史にはいくつもあると感じられる.言語と人々,文化は密接に関わっているというのは自明のことだが,つまり今自分が何を話したか,何を書いたかということすら,英語史の一つの選択なのではないだろうか.人それぞれの生き方も映し出してしまう歴史,それが言語史だなと思う.
大学一年生までで私は英語を7年間ほど勉強していたことになるが,そこでは英語という言語そのものの語彙,文法,そして英語に関するスキルを身につけることばかりが学びの中心で,英語の歴史,いわゆる英語を縦軸で見るという視点は一切なかった.だからこそ,英語史の時間は私にとって興味深いことの連続でしかなかった.〔中略〕この一年間は改めて自分が自分の人生において英語に深く関わることができてよかったと心の底からそう感じられる有意義な時間であった.
一年を通して英語史について学んだことで,最も価値のあるものは学ぶ姿勢を改めて学ぶことができたことだ.私は春学期の英語史の初回の授業を鮮明に覚えている.初回の内容は,英語に関する素朴な疑問を私たちが自由に送って,堀田先生がそれに答えるというものだったが,私は全くと言っていいほど質問が浮かばなかった.今思うと,それは今までの義務教育の中で「これはこういうものだから」とただ受動的に学習してきたからであろう.私はその授業で寄せられた質問に一々感動し「確かに」と思った.それまで「なぜ?」という問いを掘り下げていくのは効率が悪いと思い込んでいたが,こういった姿勢こそが真の学習であることを知った.そして楽しいと思った.英語の授業はもちろん,英語の歴史を学んだが,私にとって最も価値があったのは学ぶということはどういうことかを学ぶことができたことである.一見するとなんてことはないものでも「なぜ?」という問いは無限に生まれる.学びは受動的に生まれるものではなく,能動的に自ら探して行くものなのだと学ぶことができた.これは私の残りの大学生活のみならず,今後の人生にも役立つ学びであると感じる.
私は今期学んだ英語史の授業を通して,言語はコミュニケーションだけでなく,ある国の歴史を表すようなエビデンスとしての存在であることに気づいた.それは非常に価値のある学びとなった.英語の地位の復権やフランス語,ラテン語の流入など,言語にそのまま痕跡を残している.それをもとに,言語は表現としてであっても,歴史の記録としてであっても,人類において非常に重要な存在であるということに気づいた.ある特定的な内容より全般的な内容から得られた学びがあった.
私にとって英語に対する見方が大きく変わったことが最も価値あるものであると考えています.英語が今のように世界的言語になったのは,世界の歴史の活動によるものであり,長きにわたる人類の活動によるものだと,この授業でよく理解しました.なぜ発音と綴り字に大きなギャップがあるのか?なぜ不規則な文法がたくさんあるのか?など,歴史の中に原因を見出すことがとても面白いし,意味のあることだと思っています.英語のルールを今までただ暗記して覚えていた私にとっては,英語史を学ぶことは大きな転換だったし,歴史など考えたこともあまりなかった私にとって歴史から英語の謎を解くということを意識するようになったことも,私にとっては価値のあるものです.英語史は英語の本質を教えてくれるもので,英語はどういうものかを一層理解できるものにしてくれると思います.発音と綴り字の乖離についての「変なアルファベット表」に参加するのもとても楽しかったし,英語史に関する新聞や先生のラジオとブログを見ることもとても楽しかったです.今後も英語を学んでいくとは思いますが,授業で触れていなかったたくさんの話題がまだまだあると思いますし,それを見て聞いて理解するとともに,英語に関する素朴な疑問など英語史の観点から説明できるようになるまで頑張りたいと思います.
英語史の授業を通じて学んだことの中で最も価値があったのは常識を疑うことである.〔中略〕現代の社会を見ていると,シェークスピアやメルヴィルのような英語で書かれた文学は広く知れ渡っており,ビジネス,学問,芸能などあらゆる分野で英語は重要なポジションにある.どうしてもそれが当たり前だと思ってしまっており,詳しく英語の歴史について考えたりしたことはなかったので,一田舎の言語にすぎなかったという話は衝撃的だった.私はこの学びの体験をして,学問において常識を疑うことを大切にしたいと思う.そして,歴史を知ろうとすることは,本質を見極め,常識にとらわれないようにするための一つの手段として必要不可欠であると考える.
英語とかかわりのある言語を学ぶ際に合わせて英語史を学ぶことに意義があるということ.ヨーロッパの言語であれば,その言語から英語への借用語(意味借用なども含む)があったり.古く元をたどれば,同根であったりする単語が多くあるのだということを知った.言語を学び習得しようとする際には,そこにばかりフォーカスし,時間を割きがちであるが,もう少し視野を広げ,自分が既に知っている英語という言語,そしてそれらの関わりとしての英語史を学ぶことで,その言語の学習に役立つのみならず.新たな発見や疑問が得られたりするという楽しみが生まれる.また,これは逆から見れば英語史を学ぶことの楽しみや意義の一つと言うこともでき,互いの学習が相乗効果的に大きなな力を生むことになる.この視野の持ち方・広げ方は言語習得に限った話ではないように思う.ある一つの物事に集中しすぎることなく,少しで良いので視野を広げ,周りとの関連や別の見方を得ることで日々の活動を豊かにしていけるのではないかと考える.
私は教員を目指しているため.綴字と発音の乖離について学べたことに最も価値を感じている.〔中略〕教壇に立ち,英語を教える上で綴字と発音は避けて通れないテーマである.これらの乖離をそういうものとして教えると,生徒にとって英語は単なる暗記科目になってしまう.しかし,もし doubt という単語の <b> を読まないことを暗記事項としてだけでなく.学者が昔の言葉に憧れて,発音にはない文字を入れてしまったと説明することができれば,英語をより人間味のある面白い言語として感じてくれる生徒が出てくるのではないか.私が大学一年生のとき,堀田先生の授業を聞いて味わった「腹落ち感」を誰かに伝える立場になりたい.しかし,このような英語の知識は生徒全員にとって有効かというと,そうとも言えないのが実情である.したがって私が教員になったらこの知識をなりふりかまわず披露するのではなく,蘊蓄や背景知識に興味のある生徒を見極めて,生徒本人のために話したい.また,もしも英語史の知見を教壇で使わないとしても,教えている綴字と発音のギャップに対する「なぜ」の答えを知っているのといないのとでは,生徒の前に立つときの自信の大きさが明らかに異なる.堂々と生徒の前に立っていられるよう3月に大学を卒業してからも英語史ブログを読み続ける.
現代英語に対する素朴な疑問を問い,それを英語の歴史を見ていく中で解決し,理解するという営み.そしてそれによって得た知識こそが,私にとって最も価値のあるものであると思う.私は将来中学校の英語科教師になりたいと思い,教職課程を履修する中で,前期と後期この授業を受けた.今まで英語を学ぶ中で,綴字と発音のギャップやその他の様々なことについて疑問を抱いていたことを自覚し,将来教師になり,生徒に疑問を呈された時に答えられないのはいかがなものかと思い,熱心に授業に臨むと「これはそういう決まりだから」で済まされてきた英語の特徴が,その歴史を遡ればしっかりと論理的に説明できるのだと知った.これにより,英語という言語の奥深さを知ると同時に,必要な教養を身につけることができた.
私が一年間かけて学んだのは,英語をよりクリティカルに見るということだ.英語というと,さまざまなイメージがある.例えば優越言語である,純粋な言語であるなど.そのような世界英語が世の中にあるなかで英語を学び,それらの多くのステレオタイプを破壊し始めることができたと感じる.例えば今学期では英語が実は二つの言語の下にあったこと,そして300年もの間,英語話者以外の人に支配されてきたことを考えると,将来英語はどのような地位へとシフトしているのか考えさせられる.今や英語話者で生まれないこと,日本人で生まれることがまるで disadvantage であるかのような社会風潮がある中,英語の優越性は変化するかもしれない,そして本質的な優越性ではないということを踏まえることで,言語や人々の偏見も少なくなるきっかけになるのではと思う.そしてアメリカこそが多様性の国というが,その影にイングランド,そして英語自体が本質的に多様である,雑種であるという事実も,今現在の多様な世界諸英語に対してよりインクルーシブな意識で受け入れることに繋がっているのではないかと思いました.よく日本では発音を矯正する教育などがあります.そのような方法も英語史の学びによって変化する可能性があると思います.
英語史を学ぶことはとても難しく,つまらないものだと講義を受ける前は考えていたが.今使用している英語がどのように作られてきたのか,どういった出来事で変化してきたのかについて,堀田先生のわかりやすく楽しい講義でよく理解できたと感じる.最初の講義で「この講義を受け終えたら英語の見方が180度変わる」とおっしゃっていたことが今とてもよくわかった.これからも英語史に関心を持ち続けていきたいと思う.
義務教育によって,現在では小学校五年生から英語を教科として誰もが学ぶ時代だ.そんな中で英語という言語に潜む「なぜ?」という疑問の数数に,納得のいく答えをもたらしてくれ,また新たな視点を与えてくれるのが英語史的知見だった.
今期の英語史を通じて,私が学んだことはどんなに小さな事柄であっても調べてみるという癖をつけることの大切さである.〔中略〕身の回りにあるちょっとしたものに目を向け考えることで,大きな歴史の流れやたくさんの教養を学べることを知る良い機会となった.
英語史で学んだこととして,最も自分に価値のあったことは「固定観念にとらわれず,多角的に物事を分析・観察することで新たな学びや発見に出会える」ということだ.春学期最初の授業の an apple の話は忘れない.母音の前の a は an になるという考えは歴史的には誤りで,正しくは最初はみんな an (one) だったが,子音連続を避けるため a pineapple のようになったということ.固定観念にとらわれるのは本当に良くないと実感した.
抽象的に言えば,当たり前の知識やシステムに疑いの目を持ち続けることにより,新しい学びや発見が得られるということだ.印象に残っているのは,英語が様々な言語から語彙を借用してきたことで英語が構成されていると理解した時の衝撃だ.英語は一つの言語の英語という枠組みでのみ捉えていたので,古英語→中英語→近代英語と時代が区分される,それぞれの過程で他言語からの影響を受けていることを知り,物事を一つの枠組み,固定観念として捉えてしまうことは,人生の面白さを半減させると気づきました.また,もっとも衝撃を受けたのは,Voicy の through が500通り以上あるという放送で,現在言語が標準化されていることが,そもそも当たり前ではない,through の方言の中でスルーという発音により近いスペリングを持つ単語があったはずだ.というお話.最初は疑問に思ったスルーの発音をいつの間にか当たり前に感じ,through のスペリングが多数あったことに驚いたことには,自分でも情けなさすら感じた.抱いた疑問は忘れず解決する,当たり前のことにも疑問の目を持ち続ける姿勢が重要だと感じた.英語の世界を広げるだけでなく,日常生活における物の見方を考え方をに影響を与えてしまう英語史の授業の面白さを痛感しています.新しい世界を開いてくださった堀田先生にはすごく感謝しています.
それまで当たり前だと認識して疑わなかった事象を一歩引いて客観視する方法や姿勢を学んだことです.英語においてその方法は,例えば言語(英語)の変化を言語内的要因だけでなく,言語外的要因で考えることでした.換言すれば,一つの事象を内面史と外面史の視座においてアプローチすることでしょう.片方の方法だけでは解決しえない問題がこれにより,時にエレガントに解けることを身をもって体感することができました.この時に得られるアハ体験は,今後の自身の学術研究活動におけるおーいなるモチベーション,インスピレーションになりました.ありがとうございます.今後も「よりによって!」「ちなみに!」といった素朴な疑問を積極的に持ち,それに今述べた姿勢で当たって,英語史,英語学,言語学の大海原でたくさん遊ぶつもりです.
以上です.皆さんの英語史の学びのお役に立てば.
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