大学の後期の授業も後半に入ってきて,英語史の授業で扱う内容も徐々に現代英語へと近づいてきた.これまで英語が経てきた数々の言語変化を振り返ってみれば,言語変化とはどこでもいつの世でも起こるものだということが予測できるだろうと思いきや,多くの学生から次のような質問が出される.現在も英語は変化しているのか,これからも変化するのか.この質問の背景には,英語がすでに世界語として固定した(あるいは少なくとも固定しつつある)のではないかという前提があるか,あるいは言語変化が何か劇的な事件であるかのように捉えているということがあるのかもしれない.
確かにラテン語語彙の大量借用だとか大母音推移だとかを話題にしていると,言語変化は劇的なもののように思われるかもしれないが,後から振り返ってみれば大規模に思えるこれらの言語変化も,日々生活のなかで言語を用いている話者にとっては天候の変化のように自然のことである.それ以上に,意識的に言語を観察している少数の者以外は,言語変化が起こっていることすら気づかないだろう.大多数の言語変化は人々の意識にのぼらないくらい密かに始まり,ゆっくりと進むものであり,数十年後,言われてみれば変わったなと気づく程度のものである.
この感覚を味わうには,現在日本語で起こっている変化(あるいは変化の兆しと考えられるもの)を例に挙げるのがよいだろうと思い,先日たまたま耳にした日本語表現を例に取って授業で説明を試みたところ,言語変化の感覚がよく分かったという反応が多かったので,ここに掲載する.
先日,朝,テレビで天気予報を見ていた.お天気お姉さんが「今日のチェックポイント」で午後から雨が降るので折りたたみ傘をもって家を出ましょうと,そのチェックポイントの書かれたフリップを掲げて言った.そのとき,お天気お姉さんは「おりたたみかさ」と発音しており,フリップにも「おりたたみカサ」と書かれていた.「おりたたみがさ」と濁っていないことに違和感を感じてすぐに一人突っ込みを入れ,家族にもその突っ込みの正しさの確認を取った.その日の100人強の学生の集まる授業でもアンケートを採ったら,正確に数えたわけではないが「おりたたみかさ」を通常の発音とする学生も数名いたが,圧倒的多数が「おりたたみがさ」だった.
「かさ」のような語が複合語を形成するときに「おりたたみがさ」と濁音化する現象は日本語学では連濁として知られている.連濁の規則は完全には定式化できず語彙論的な問題とされているが,複合語の両要素の音韻的,文法的,意味的な関係によりおよその傾向は指摘されている.傘の場合には連濁を起こす「こうもり傘」「相合い傘」に対して清音を残す「唐傘」があるが,それぞれとしては連濁の有無は揺れていないだろう.しかし,「おりたたみかさ」と発音する話者が少ないながらも存在するということは,「折りたたみ傘」の連濁については揺れ始めているということかもしれない.「おりたたみかさ」が今後勢力を伸ばしてゆく可能性も否定できず,もしかすると今は言語変化の最初期ということになるのかもしれない.
もしこれを言語変化の可能性の兆しと呼んでよいのであれば,言語変化とはこれほどに小さく他愛のないものである.日々の生活に支障がないどころか,注意して意識していない限りそもそも誰も気づかないのが普通である.しかし,もし数十年後に皆が「おりたたみかさ」と発音するようになっていれば,振り返って,あのとき変化が起こり始めていたのだなと思うことだろう.
「世界語」たる英語も例外ではない.他愛もない,誰の関心も惹かない小さな小さな変化の種が常に蒔かれている.しかし,英語が1500年という長い時のあいだに経てきた変化は,振り返ってみればさすがに関心に値する規模の変化に見える.「おりたたみかさ」のような塵が積もって,いずれ山となる.
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