現代英語の特徴の一つとして,慣用表現 (idiomatic expression,イディオム) の多さが挙げられることがある.英語史概説の老舗である Baugh, Albert C. and Thomas Cable. ( A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.) で言及されているので,広く知られている.
イディオムのない言語は存在しないので程度の問題だと思うのだが,果たして本当に英語は他言語に比べてイディオムが多いのだろうか.このテーマでの比較研究についてはよく知らないので,何とも言えない.直感的には他のヨーロッパ語に比べれば多いのかなという印象はあるが,実際のところはどうなのだろうか.また「イディオム」をどのように定義するかによっても,数え方は変わってくるように思える.今回はイディオムの性質について考え,英語史に結びつけてみたい.
典型的なイディオムの例として,現代英語の put up with を挙げよう.このイディオムを構成する3単語 put, up, with についてそれぞれの意味は分かるが,それが組み合わさってできる put up with ( = endure ) の意味は,3語の意味の和ではない.このゲシュタルト的な性質こそが,イディオムの最大の特徴である.
このことを,語 ( word ),形態素 ( morpheme ),語彙素 ( lexeme ) という異なる三つの観点から考えてみる.put up with を例に取ると,このイディオムは3語から成っている.各単語はそれぞれ1形態素から成っているので全体として形態素の数も3である.また,put up with は全体で一つの意味をなすので語彙素としては1と数える.したがって,このイディオムは三つの観点から記述すると,「3単語,3形態素,1語彙素」となる.
語彙素 ( lexeme ) という単位はあまり聞き慣れないかもしれないが,辞書に載っていないと困る単位と考えればよい.put up with の意味を知りたいときに,辞書で put や up や with を辞書でひいたとしても望む意味にはたどりつかない.是非とも,辞書には put up with 全体として見出しを立てて意味を記してもらいたいわけである.
この語彙素という視点からイディオムを定義すれば,「複数の語が集まって,全体として一つの語彙素に対応する形態」ということになる.
ここで注意したいのは,語と形態素は別物だということだ.put,up,withの場合,語がそのまま形態素に一対一で対応しているが,語が複数の形態素から成るケースもある.例えば,understand は明らかに一語だが,under + stand という二つの形態素から成っている.そして,語としての意味は,二つの形態素の意味の和ではない.語全体として「理解する」という意味に対応する.ここで,understand を三つの観点から記述すると,「1単語,2形態素,1語彙素」ということになる.
上に述べたイディオムの定義を拡張して,「複数の形態素が集まって,全体として一つの語彙素に対応する形態」とすれば,understand もイディオム,いわば「小さなイディオム」ということができる.一般的な理解では understand はイディオムと言わないだろうが,ここで指摘したいことは,put up with も understand も,その意味が,分解される複数の部分の意味の和とはなっていない点で共通する.前者は,複数の語から成り,後者は複数の形態素から成るという違いがあるだけである.
以上の考察を英語史の話題へと結びつけてみよう.古英語では,understand 型の派生語が活躍した.いわば「小さなイディオム」全盛の時代である.中英語になり,put up with 型の表現が多く生み出された.いわば「大きなイディオム」全盛の時代である.現代英語では,その境目こそ曖昧になっているが,両タイプのイディオムが隆盛である.英語の歴史(に限らないが)をイディオムを生み出してきた歴史と捉えるのであれば,全体的な方向は一貫していたといえよう.ただ,イディオムを生み出してきたパターンは,古英語,中英語,現代英語を通じて発展してきたことがわかる.
・Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
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