『英語教育』4月号に,上野氏による「教育的な英語音声表記としての仮名の可能性:歴史から学び現在に活かす」と題する記事が掲載されており,興味深く読んだ.日本で出版されている英語の辞書,単語集,教科書などで,IPA (International Phonetic Alphabet) 表記やそれに準じたアルファベット使用の表記を採用せずに,平仮名や片仮名を用いるものが散見されるが,その教育的効果はどんなものなのだろうかと思っていた.
仮名表記の是非を巡る議論は,昔からあったようだ.IPA 導入以前には英語学習に際して仮名表記が行なわれていたが,いったん IPA が導入されると仮名表記の分が相対的に悪くなった.「非科学的」「不正確」「種々の約束が必要」というイメージが付されたからだ.
しかし,一方で IPA などによる音声表記への理解が深まってくると,一種の反動が起こってきた.そして,岡倉由三郎や市河三喜という大物が,仮名表記の擁護に乗り出す.IPA も仮名表記もあくまで表記にすぎず,両者の精粗の違いは程度の問題だという議論が起こってきたのである.岡倉は,IPA は初学者にとって未知数だが,学ぼうとしている英語の文字遣い自身が未知数であるときに,別の未知数をもって学ばなければならないというのはおかしな話しだと至極まともな議論を展開した.市河も,学術的視点ではなく教育的視点に立てば,仮名表記も効果的ではないかと評価した.
結局のところ,IPA にせよ仮名表記にせよ,いかなる目的で英語音を表記しようとしているかという点が最も重要なのであり,それに応じて「(非)科学的」「(不)正確」「種々の約束(の要不要)」の評価も変わってくるだろう.「#669. 発音表記と英語史」 ([2011-02-25-1]) でも論じたように,narrow transcription か broad transcription かというのは,どちらかが絶対的に良いという問題ではなく,目的に依存する相対的な問題である.したがって,仮名表記も絶対的に劣っているとか優れているとかいう議論にはなり得ない.
(レベルにもよるだろうが)英語教育上,実際に仮名表記がどれだけ効果的なのかに関する実証的な研究は,ほとんどなされていないようだ.しかし,上野らの発音指導に関する調査によると「母語援用群の発音が最も向上し,学習者の認知的負荷も最も低くなった」 (69) とある.たとえば「ゥラィト」のような表記から,学習者は音声情報について重要な直感を得られるという.上野は「教育的表記にとって重要なのは,音声をどれだけ正確に表記するのかではなく,いかにして学習者に学習困難な外国語の発音を習得させるかである.ともすれば,学習者が既に持っている母語の長音感覚を足場がけにするために仮名表記を活用しても良いのではないだろうか」 (69) と締めくくっている.
関連して,IPA とその歴史について「#822. IPA の略史」 ([2011-07-28-1]),「#3362. International Phonetic Association (IPA)」 ([2018-07-11-1]),「#3363. International Phonetic Alphabet (IPA)」 ([2018-07-12-1]),「#251. IPAのチャート」 ([2010-01-03-1]) で書いてきたので参照されたい.
・ 上野 舞斗 「教育的な英語音声表記としての仮名の可能性:歴史から学び現在に活かす」『英語教育』2019年4月号,大修館書店,2019年3月14日.68--69頁.
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