hellog〜英語史ブログ

#1642. lexical diffusion の3つのS字曲線[lexical_diffusion][variation][wave_theory][schedule_of_language_change]

2013-10-25

 「#1550. 波状理論語彙拡散含意尺度 (3)」 ([2013-07-25-1]) と「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) でも話題にしたが,言語変化の拡大に関する語彙拡散モデル (lexical_diffusion) の問題として,語彙拡散のS字曲線のグラフにおいてY軸は何を指すのかという疑問がある.X軸は時間を表わすということで異論ないだろうが,Y軸を表わす変数には様々なものが考えられる.
 いま,ある言語項目について旧形が新形を置き換えるという過程を考えよう.この揺れを示す言語項目を変項と呼び,(ITEM) と表記する.また,旧形を /O/, 新形を /N/ で表わすとしよう.この言語変化は,歴史的に "(ITEM): /O/ → /N/" と表現できることになる.
 さて,この言語変化が描くと想定されるS字曲線のグラフにおいて,Y軸の可能性を考えてみよう.語彙拡散という名前からまず思い浮かぶのは,このグラフは,ある1人の話者について当該の変化が語彙を縫うように進行してゆくことを表現している,ということである.この場合,Y軸は変化が及びうる語彙の全体を100%とする軸であり,時間とともに多くの語において /N/ が /O/ を置き換えてゆくにつれ,Y値が増えてゆくというグラフの読みとなる.S字曲線は,当該の変化の "lexical gradualness" を表わしている.
 別のY軸も考えられる.ある話者のある語を取り上げ,その語において /N/ が /O/ を置き換えていくというとき,実際にはその語のすべての生起例について,昨日まで /O/ だったものが今日になって突然 /N/ へと変化するわけではない.むしろ,/O/ と /N/ の比率が以下のように段階的に変化してゆき,結果として振り返ってみると /O/ → /N/ が起こっていた,というのが現実だろう.

Timet1t2t3t4t5
/O/0%15%50%85%100%
/N/100%85%50%15%0%


 この場合に新形 /N/ が用いられる割合をY軸に取ると,これもS字曲線となることが予想される.このグラフが表わしているものは,"variable gradualness" とでも呼べるかもしれない.音韻変化であれば,"phonetic gradualness" (Lass 331) と呼んでもよい.
 さらに別のY軸も考えられる.上述の2つケースはある1人の話者を念頭に置いたグラフだが,/O/ → /N/ の変化を被った話者の数,あるいは言語共同体内の割合をY軸におくようなグラフも想像することができるだろう.このグラフでは,ある言語変化が,言語共同体の中で伝播してゆく様子を表わしている.これは,"populational gradualness" と呼べるかもしれない.また,話者が属しているのは地理的な空間であるから,さらに一般化して,言語変化の地理的拡大を表わすグラフともとらえられる.ここまで進むと,波状理論 (wave_theory) にも近くなってくる.
 ほかにもY軸の取り得る変数の可能性はあるだろうが,少なくとも lexical gradualness, variable gradualness, populational gradualness の3つは比較的容易に想定することができる.今一度まとめると,それぞれのグラフは,1人の話者の語彙全体における変化の進行を考えるとき,1人の話者の1つの語における変化の進行を考えるとき,言語共同体の話者集団における変化の伝播を考えるときに対応する.
 もしいずれのグラフにおいても語彙拡散の主張するようなS字曲線が描かれるとするならば,3種類のS字曲線を数学的に総合した結果も,やはりS字曲線となるだろう.一般的に言語変化の拡大について語られたり図示されたりするS字曲線は,この抽象化された意味でのS字曲線ととらえておく必要がある.Lass (331) は,lexical gradualness と variable gradualness の2つのみを念頭において議論してはいるものの,S字曲線が抽象化されたものであるとの指摘は的確である.

[T]he overall smooth S-curve for a change is an abstraction from (a) individual lexical curves, and (b) variable and phonetically gradual phonetic implementation along these curves. But the final historical effect is a levelling-out, so that the single-curve abstraction in fact BECOMES TRUE of the change as a whole. Thus we distinguish, in the broader historical perspective, between the change-as-a-whole and the piecemeal mechanism of its implementation.


 /O/ → /N/ という言語変化の表記は,変化の始まりと終わりのみを示した略記である.実際には,矢印のなかに,様々なレベルにおける無数の途中経過が含まれている.矢印のなかをじっくり観察して言語変化を理解しようとする立場が diffusionist,事後に結果としてその変化をとらえようとする立場が Neogrammarian .両者は立場の違いにすぎず,言語変化として起こっていることは1つなのである.このように考えれば,昨日の記事「#1641. Neogrammarian hypothesis と lexical diffusion の融和」 ([2013-10-24-1]) という課題にも対処できるだろう.

 ・ Lass, Roger. Phonology. Cambridge: CUP, 1983.

Referrer (Inside): [2015-08-13-1]

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