わたしの健康回復について

私がどのようにして心身の健康を回復したかを知りたい!との声があったので まとめてみました。時系列になっていません。

わたしの生き方

わたしは自分の人生は自分で決めます。研究でも女性としての生き方でも、 自分で納得できるやりかたを選びたい、これが後で後悔しない自分の生き方です。 こんな感じです。理想の人生はくそばばあ いまのところ順調にくそばばあへの道を歩んでいますね。

言いたいことは組織へきちんと主張する

被害のあと、主任へ訴え(ここでかえって二次被害をうけることになった)、 学部長へ伝え(調査委員会をもうけた)、大学の理事(面会して経過を訴え)と いうように順をおって私の主張を伝えました。このときの学部長が大学長に なったので、私は組織のトップまで自分の意見を伝えたことになります。 効果があったか、逆効果であったかは別として、組織的には順を追って つたえたことになり、事件を知らなかったことにはできません。 (ハラスメント防止委員会はこのときまだ出来ていなかった)

公表する

わたしの一貫した主張は事件と処分の公表です。大学としては、被害者が 黙れば事件はなかったことになるので、公表させたがりませんが、被害をなくして いくためには、「被害があるからこそ防止策が必要なのだ」という姿勢が不可欠です。 そのためには、事件はあるのだと、被害者が声をあげなければなりません。 わたしは自分に発言できる機会があれば、そのつど雑誌や新聞で意見を表明して きました。自分の例はひとつの例にすぎませんが、問題を根本的に解決するためには 女性研究者のおかれた不当な位置がどこから出ているのか、日本の男尊女卑の風潮と それを基にした体制も批判しなければなりません。 (むかしの朝日新聞の投稿記事をつける予定)

ともだちと援助の手

私の所属している組織からは完全無視でしたが、他の学部の人たちは 親切でした。お母様の使っていたという杖を貸して下さった人もいました (歩くのがとても楽になった)。私が杖をついていると、どうしたんですか だいじょうぶ?と駆けよって来てくださる方もいました。 労働組合は組織としては何もしませんでしたが(加害者とそっち側の人たちも組合員 だったから)個人的に小規模の勉強会を開いてくれました。 治療をうけたO先生も私の苦情をていねいに聞いてくれました。 隣の研究室の友人は、泣いている私をだまって慰めてくれたし、後日わたしが教授 への昇格を申請して連続して却下された時には、私の所属する主任に、「昇格でき ないのはおかしい」と言いに行ってくれたそうです(後で聞いた)。 休職中は東大(駒場)で研究員として正式に受け入れてくれて、研究室も与えられ ました(院生といっしょに東大に移動した)。あるとき、別の人に冗談まじりで 「だから、東大のひとはぁー」と言われ、私も東大の一員と扱われて嬉しかった思いが あります(慶應大学に属していることが嫌だったので、別の組織の人と言われて嬉しかった) 特に重要だったのは、私のメンターのような存在の先生が、私が頻繁に出す長い メールを読んで下さり、わたしの状況を理解してくれました。表だって味方する ような発言はしませんでしたが、要所要所でわたしの気持にそった助言を下さいました。 会議での発言の仕方や行動のしかたなど、この先生から学ぶことは多かったです。 学外ではキャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワークの活動に参加 したり、そこで知り合った友達と話し合ったり、裁判をしている人の応援をしに 裁判の傍聴に行ったりしたことも視野をひろげることになりました。 日本学術会議の会議では、女性研究者の環境改善について、私も多少の貢献が できるような場を与えられて発言もできました。 ノーテンキな家族にもとても助けられました。

背中の痛み:病気の自覚

夜、横になって寝ている時に、急に激痛がはしります。背中とか腰のあたり。 ちくちくする時もすごく痛い時も。しばらく静かにしていると収まるので、 うとうとするのですが、また痛みがきて起きる。この繰り返し。 はじめのうちは何が何だかわかりませんでした。疼痛という心理的な圧迫から きている痛みだとわかったのは、偶然、本屋さんで夏樹静子さんの「椅子が恐い」を みつけて読んでから。それから心理学やうつ病などの本を読みました。 自分のこの痛みは病的であり、治療の必要がある段階なのだとさとり、調査委員会 に医師を紹介してもらい、治療をはじめました。(まともな調査委員会だったら、 これより前に治療を提案するるのでしょうが、この時の委員会メンバーはセクハラや 心身症についての知識が全くなかった)。わたしが幸運だったのは、その時の大学の 保険センターの担当者が認知療法で有名なO先生で、ていねいに話を聞いてもらえ ました。(この時の担当がムラセ教授みたいな人だったら、わたしはこうして健康回復 について書いていなかったかもしれません) 眠れないときは(ひどい時は15分おき、30分おきに激痛で起きた)睡眠薬で まず睡眠を確保する。からだの緊張を取る訓練(右手がだんだん暖かくなり 重くなりますー。と自分に暗示をかけてリラックスする方法。診療内科系の本に 出ています)を毎日しました。

死の自覚

(数年たったころ、杖をついて歩いていた状態のとき) 事件が大学入試の次の日だったので、いつも2月なかばには体調が悪くなる のでしたが、あるとき、床にすわってぼんやり自分のふくらはぎをさわったら、 あいかわらず太めなのに、筋肉が全く無くなっていて、ほよほよでした。骨の後ろに 指先でつまめるくらい少しの筋肉が残っているだけで、あとはぶよぶよの脂肪。 あー、これでは歩けないのも当然だ、と妙に納得。 「わたし、このままでは、死ぬかもしれない」と実感しました。 自分の頭では死にたいのか、死にたくないと思っているのか、そのとき考えても よくわからなかったのですが、あのときが分起点だったのだと今では思っています。 人間としての意識はあやふやでも、生きものとしての自分は「死にたくない」と 思っていたようです。 その後、積極的に歩く、ヨガやストレッチ、腹筋などの努力をして、筋肉と体力を つけました。いまではすっかり元気になり、1万歩あるくのも平気です。

正論をつらぬく;自分の主張が正しいことを確信する

私がセクハラを訴えても、まわり全員から「私が悪い」と言われます。口をきいて くれなくなったり、雰囲気が悪くなったり、昇格拒否されたり。いろいろな辞めろ 攻撃があったり。 こういう場合、内心では同情しているが、被害をうけた本人には直接何も言わずに 黙ったままの人は、加害者側に立っているのだと自覚してほしいです。 私はたくさんの本を読みました。セクハラそのものの定義、セクハラが起こる 社会構造、大学の男性優位構造と変えたくない姿勢、女性学の本も心理学の本も たくさんあります。なぜ女性研究者の数がすくないのか、なぜ女性の管理職が 日本は異常に少ないのか。 加害者たちが居直っているのに、被害者である私がなぜ辞めなければならないのか、 あきらめなければならないのか。それはナンセンスです。被害者は簡単に あきらめたり、辞めたりしてはいけない、そう自分に言い聞かせてきました。 これ正論です。世の中の流れもそうなっている、とある先生が日本学術会議の 特別委員会で講演なさっていました(ちなみにこれは1990年代の話です)。

自己評価

四面楚歌状態だと、どうしても自己評価が低くなります。セクハラを訴えた人間が わがままだ、とんでもない人間だとされ、「業績以外の理由」で昇格を否決され、 おなじ学部の人からは誰からも「元気になってね」との声はかけられず、休職する ときの事務的な扱いも思いやりの全くないものでした。天文学の教科書の点字バージョンを 作ったり、全盲の学生が入学した時のための資料集(冊子)を印刷して学内外に配った ことも「あなたはこれで大騒ぎをしてみんなに迷惑をかけたわね(戸張日吉主任:教授 昇格を拒否する会合で)」とのひとことで、他学部や学外では評価されることも 人格否定になってしまいました。 知らないうちに、自分でも、自分が生きていてもしかたないとか 研究者としても自分の価値がまったくないような感覚になってきました。 幸いにも大学教員の研究室は個室で、私が一人で泣いていようが じゃまはされません。それにわたしの担当科目は他の教員とは独立で、他と相談する 必要もなくわたし一人で科目のことを決められるので、よく聞くように予算で妨害 されるとか、直接的に研究妨害をさるといったことはありませんでした。 わたしは当時自分の業績は普レベルだと思っていたのですが、それでも周囲と 比べると断トツに業績が高く、それで教授昇格を拒否する理由として「業績以外の 理由」(具体的には自分で考えろと言われたが、セクハラを訴えたこと以外には 思いつかない)となったのです。だからわたしを攻撃するためには、わたしの人格 評価を低くする発言しかできなかったのかもしれません。 1995年から数年間は研究室でよくひとりで泣いていたし、論文のために数値計算を するのもうわの空で、集中力が低下して、これでは研究者としてやっていけない、 将来どうなるのかと恐ろしく思いました。それでも共同研究者がいるので、数値 計算の結果を出したので、論文の共著者にはしてもらえます。情けないですが、 SD説で有名な1999年の2つの論文は、私の意識がぼーっとした状態の時に出版された ので、あとで研究者として復活してから読み直して勉強しました。自分が共著者に なっているエポックメーイングな論文なのに、悔しくてなさけなかったです。 こうしているうちに、天文学会の林忠四郎賞の受賞が決まりました。これは中堅の 理論天文学者に与えられる賞ですが、天文学会の賞の中では最上級の賞です。つまり わたしの天文学者としての功績が認められたわけです。この知らせは本当に嬉しくて、 たとえば道路を歩いているときでも、私の体の細胞のひとつひとつが元気になるような 気持がしました。これまで人間としても学者としても評価がどん底にあるような 気持にされていたのですが、それが学者としての評価が認められ、本当にとてもとても 嬉しかったのです。 考えてみれば、わたしの周囲や教授昇格を否定してきた人達は文系の先生方で わたしの研究内容は知りません。理工学部の物理の先生方も私のことをなぜか 嫌っているような雰囲気でした(あるとき、「これで物理学科とようやく縁が切れ ましたね」と物理学科の主任教授から言われた)。学内には当時天文学者はおらず、 私の業績は誰も評価できなかったのに、私の研究態度が熱心なことをとらえて 人格を落しめるような発言ばかりされてきました(あなたは研究費が足りないとばかり 主張してはしたない、とか)。 受賞が決まったことで、わたしもちゃんと天文学者だったんだ!と認められて 嬉しかったのです。

日本で女性研究者が少ない理由のひとつはセクシュアル・ハラスメントである

なぜ研究者に女性が少ないのでしょうか?外国では女性の割合が日本よりもっと多い のですから、女性が科学や工学にむいていないという理由は成り立ちません。 (例イタリアの女性研究者の統計) 私は幸いにして、大学も辞めずにすみ、研究者として復活できましたが、つなわたりの ような人生でした。私のような目にあい、途中で研究を続けられなくなった人は すくなくないと思います。
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