デジタル時代の和本リテラシー
古典文学研究と教育の未来
質問と、その答え

多数のご参加、ご質問、ありがとうございました。

登壇者がこちらで答えます。

            

諸般の事情で延長できなかったシンポジウム、みなさまからいただいて答えられなかった質問です。
登壇者が答えを、ここに掲載します。
まだまだ議論にはなりませんが、せめてもの、気持ちです。
たくさんの人が「つながる喜び」、そしてその先にある何か新しい未来がくることを、祈っています。 



 #kinsei2021

*Twitterで、みなさまのつぶやきをご覧下さい & つぶやいてみてください!*

皆様からの質問

  和本リテラシー教育を中学や高校の教育現場に導入する目的や、カリキュラム体系の理想的な位置づけについて、研究者の皆様の立場からのお考えをお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。

@山田和人

 学習指導要領では、「伝統的な言語文化」「言葉の由来や変化について」など、「我が国の言語文化に関する事項」ということになりましょうか。そうした流れのなかの導入部分で児童・生徒の興味・関心を喚起するために和本リテラシー教育を取り入れるというのが実際的だと考えています。何より和本やくずし字を使った体験的学習として教育効果が高いと思います。そのためにどのような教材が効果的かを検証していくことが必要かと思います。和本リテラシーの体系的な導入はまだ難しいというのが現状ではないかと感じます。お答えになっていないかもしれませんが。


@宮川真弥

 和本というモノを通しての体験は古典の身体化、あるいは古典を身近にするものであると考えています。地元の記述がある数百年前の実物に触れることはもちろん、曾々祖父くらいの世代の近所の某兵衛さんが持っていた/実際に読んでいた和本(探せば割とあります)に触れることは、歴史・古典との連続性を実感するまたとない機会ではないでしょうか。
 一方、そこに書かれている文字が読めないという衝撃、読みたいという動機、新たな表記体系を読めるようになる喜び、そして、古典教育で学んだ知識を総動員することで文章として理解できる古典教育の意義の再確認。和本で意欲を高め、古典教育で推進し、また深く和本を読むことにつなげていく、そういう循環になることを夢見ています。
 カリキュラム体系の位置付けは難しい問題ですが、まずはありきたりに「伝統的な言語文化に関する理解」に関わるところに紐付けることになるでしょうか。シンポジウムの事前打ち合わせでも出ていましたが、書道や社会科との連携も非常に重要ですね。


@勝又基

 全体のカリキュラムを変える必要を感じています。現在のような平安文学中心主義では、学生にとって必要性が感じられないと思います。現代から言語文化を遡るような見方の方が良いと思います。その中でくずし字も当然必要になってきます。ディスカッサントの質問として、旧字体はどうするのか聞いたのも、これに基づいています。


@津田眞弓

 古文が苦手だった国文専攻以外の学生も教える経験からいえば、江戸時代の人々と同じ紙面を共有すること、タイムカプセルとしての物に触れることは、大きな学習意欲の促進になります。小中高の現場では、年に一度のお楽しみぐらいしか組み入れられないのが現状だと思いますが、それでも十分だと思います。あるいは、せめて冒頭の暗記をするような作品は、その部分をくずし字でも提示してみる、本や字の形がもつ情報も教えるというように、普段の授業の中で少しでも触れることもあればと願っています。
 手前味噌ですが、先日、荒尾努氏による古式の平家琵琶の講演を行いました。祇園精舎、那須与一もありますので、よければ教材にお使いください。動画を公開しています。「平家納経の世界――昇華する祈り」 (YouTubeの画質を歯車のマークで直し、できれば4Kサイズで御覧下さい)
  シンポジウムの英訳(字幕)公開の予定はありますか? 興味のある外国人は多いと思います。

@宮川真弥

 どなたかしていただけるとありがたいですね。(すみません、他人事みたいで。有志を募るということでどうかご寛恕ください)


@津田眞弓

 ご提案ありがとうございます。現状は予定はありません。日本語がわかる人だけが聞きに来るだろうということで、英語の要旨も、打ち合わせの段階でなくなりました。そのようなご要望が大きければ、考えないといけませんね。ただ、大会運営チームに、英語の達人がいないのと、謝金を払う予算がないので(涙)、ボランティアで英訳をしてくださる方を募集する必要がでてきます……。
  今年の近世文学会が海外の方々や非会員の方々も参加できるようになったことに心から感謝致します。今回は、世界中においてくずし字教育を広めるためのリソースを多くご紹介いただきましたが、日本国内において、海外の日本研究者も気軽に参加できるような学会・勉強会について教えていただければありがたく存じます。特に、日本語がそんなに上手ではない学部生たちにむけて、なにかの勉強会や学会があれば助かりますが、もしご存知でしたら教えていただけませんでしょうか。


@海野圭介

 国文研を声かけ役として「日本古典籍研究国際コンソーシアム」というコンソーシアムが昨年秋に結成されています。現在、日本国外40機関、日本国内41機関が参加しています。その中で「日本国内外のくずし字教育」「日本古典籍に関する情報リテラシー」の2つのテーマについて分科会が立ち上がり、今後の具体化について議論しています。ご興味があればwebを御覧になってください。


@宮川真弥

 日本古典籍研究国際コンソーシアムが、コンソーシアム参加機関を対象にオンライン分科会を行っています。部などの小さな単位でも機関として参加できるとのことですのでご検討ください。また、どなたでも参加できるオンライン勉強会も開催予定とのことです。
 FutureLearnの佐々木先生の講義はもちろんですが、くずし字独習や教育の参考になるサイトについては、拙ブログ記事「遠隔授業におけるくずし字学習についての覚書」にまとめておりますので、ご高覧ください。
 また、くずし字や和本リテラシーとは直接には関わりませんが、国文学研究資料館で昨年度からオンラインで「文献資料ワークショップ」が開催されています。


@勝又基

 オンラインでくずし字の勉強会があるといいですね。やってみようかな。
  (学会発表でも授業やワークショップでも)オンデマンド動画とリアルタイム配信の2通りがあるとして、オンデマンドは国際間の時差を無視できる等のタイムシフトのメリットがある一方で、ディスカッション等の双方向性に欠けると思います。オンデマンドでの双方向性の確保についてお考えを聞きたいです。

@佐々木孝浩

 発表でご紹介させていただいたFutureLearnのコースもオンデマンド形式である訳ですが、コメント欄を活用することによって、一応の双方向性を確保しています。受講生同士の意見交換なども行われていますので、タイムラグはあるものの、リアルタイムよりも議論が深まるというメリットもあるかと思います。


@海野圭介

 以前に、オンデマンドでの報告の後に別途時間を設けてディスカッションをする会議を行ったことがありましたが、進行がもたつく印象がありました。また、ディスカッションを口頭ではなく掲示板方式で行うという会議にも参加いたしましたが、こちらは担当者の貼り付き時間が長くなり、かなりの負担が生じる印象があります。そのような方法に慣れてくれば問題無いのかもしれませんが、現時点ではいずれもなかなか難しい方法だと思っております。


@宮川真弥

 おっしゃるとおり、同時性(ライブ感)は時差によって難しいのですが、テキストベースの双方向性は掲示板形式やSlackなどの活用によって、容易に確保できるのではないでしょうか。テキストベースだと、入力に手間がかかる一方、閲覧は短時間で可能ですので、多対多の議論だとかえって良いようにも思われます。その場合、実施期間は数日から数週間のように長めに取る必要があろうかと思います。ただ、長すぎると熱量の維持が困難なのと、管理の手間が増大するのが問題となるかもしれません。


@津田眞弓

 なんだか実験してみたくなりますね……。
  「漢籍リポジトリ」などに匹敵するような、国書の電子テキスト・データベースの構築が喫緊の課題だと思っています。どのような方法で電子テキストを蓄積していくのがより効率的か、お考えがあればお願いします。

@海野圭介

 テキストの集積のためには、AIによるくずし字認識によって新規に作成することと並行して、既存のテキストを蓄積する手段やルートを作ることも必要だと考えています。「漢籍リポジトリ」は長い期間をかけて収集されてきた成果を蓄積していますので、同様のものが即座にできるとは考えてはおりませんが、当館の新規計画もそのようなことに貢献できるように設計して参りたく存じます。また、中国語資料については、「中国基本古籍庫」がビジネスベースで開発されていますので、同様の方法を取ることも方法的にはできないこともないと思いますが、私どもの計画はオープンサイエンスの推進に寄与する方向性で考えています。


@宮川真弥

 もっとも効率的なのは、絶版になった出版物から蓄積することだと思います。出版社が残っていて版下データも残っていればそれに越したことはないですが、そうでなくても活字のOCR(光学文字認識・本からデジタルテキストへの変換)なら二重目視で精度を確保したとしても比較的安価に引き受けてくれる業者はあります。国文学研究資料館のマイクロフィルムからのデジタル化のように、国文学研究・国文世界がこれまでに豊富に蓄積してきた資産を活かさない手はないと思います。各学会が協力すれば研究者や遺族の方のご了解を得る手続きは多少楽になるのではないでしょうか。学会誌のリポジトリ公開の時に同じように許諾を得ており、手法の蓄積があるはずです。
 雑誌論文での翻刻の集積は、なお制限が少ないと思います。リポジトリで公開しているものは透明テキストがついているものも多いでしょう。公開論文の多くはpdfのため、多少の加工が必要であり、出来れば組版のデータが欲しいところです。また、研究者が科研で作ったテキストデータは、科研の成果のオープンデータ化の方針からすれば公にすべきものといえるでしょう。
 ウェブサイトで翻刻を公開している方々もあり、その成果の集積も重要です。
 大学院の授業などで修練のために大量に作られている翻刻はうち捨てられがちですが、精度が低い翻刻も精度が低いものと明示していれば、検索のベースにはなり、有用です。
 いずれの場合も、原本の所蔵者・所蔵機関との交渉・根回しは大事ですので、どうぞご留意ください。検索データとして使う場合は、必ずしも全文を読める形で公開する必要がない場合もありますので、そういう対応だと軟化するむきもあるかもしれません。
  海野先生が紹介されたデータ駆動型の研究について、近世文学研究者としてみなさまがどのように関わろうと考えておられるか、どのようなことを期待しているか、ディスカッションに参加している近世文学研究者のみなさまに、ごく簡単にでも結構ですので、おうかがいできればと思っております。それから、周囲の近世文学研究者の方々が持っておられる印象についてもおうかができますとなおありがたいです。

@海野圭介

 近世文学研究者の方々には、他の時代や領域に比べて、新規資料の発掘とその翻刻に関わるお仕事をされている方が多く、学会としても翻刻やデータ作成についても議論してきた歴史があります。そうした知見やデータの共有化への展開についても、改めて議論をさせていただければと思っております。


@勝又基

 デジタル翻刻が業績として認められるようになる土台づくりが重要ではないか、と考えています。


@津田眞弓

 海野氏が本学会の委員会でも、その説明をなさっていましたが、残念ながら質問は一件もありませんでした。皆様の反応を拝察するに、自分の研究にどう使っていくかイメージがわかない、という状況ではないでしょうか。作る前の開発者の方々と、もっと踏み込んだ意見交換の場を強く望みます。
 近世文学研究者で多い作業は、諸本を見る作業です。どこに所蔵があるかを確認し、調査の予定を組む。見たらそれぞれの本の調査をまとめる。現状の国文研の古典籍のデータベースは、検索結果は出してくれますが、こうした作業の助力にはあまり役に立ちません。例えば、毎日使う日本古典籍総合目録データベースでは「文化四年」刊行の「合巻」という形の、ジャンルや期間、作者などと組み合わせた検索を多く行います(検索性の悪い「」は、画像を見るときにしか使っていません)。最終的に、所蔵機関などの情報を、作業用のファイルにコピペするしかないのが現状です。せめてCSVに出力ぐらいはつけて欲しいところです。――データベースと一緒に、個人が所有するオンライン作業場のようなものをつけてくださったらいいのにと思います。(翻刻を書いたり、データベースを作ったり、公開するかどうかは本人に委ねる)
 また、ご質問の意図とは違うかも知れませんが、データベースという物は、機関やまたはタイトルごとに、それぞれ独自の形をしていて、学生や苦手な人に使い方を説明するのにとても手間がかかります。デザインはともかく、規格やボタンの形や場所もある程度統一するなど、本と同じぐらい使いやすい形をめざしてほしいです。


@宮川真弥

 国文学は要求駆動型の方が多い印象があります。そのなかでは、割に書誌学はデータ駆動に近いでしょうか。大量処理、要素分析・分類、法則の発見など、機械処理に親和性の高い要素が多くあります。出版研究は、日本古典籍総合目録データベース(国書総目録)、全國漢籍データベースによって、それ以前とはまったく異なる地平に立っているのではないかと思います。一方で、書誌(メタデータ)の作成は、すなわちアナログ・デジタル変換処理でもあり、機械の代替が困難な営為でもあります。もしかすると、これが今回の登壇者のような書誌学者が割合とAIなどの先端科学技術に寛容な理由の一つなのでしょうか。そう考えていくと、目の前にある現物(データ)からものを考えることがしばしばある近世文学は、実はデータ駆動にかなり親和性の高い国文学分野なのかもしれません。他方、テキストデータが蓄積すると、たとえば多少あり方が変わってくる分野もあるでしょう。このあたりは、先行する中国文学や他国の文学、青空文庫を擁する近代文学、新編国歌大観をもつ和歌文学研究の事例をつぶさに検討していくと比較的予測はしやすいかもしれません。そのなかで、近世文学がなにを目指していくのかは、私もぜひ、近世文学研究者のみなさんに伺ってみたいと思っています。
 津田先生がお書きの日本古典籍総合目録データベースについては、様々なご事情で難しいのでしょうけれども、既になさっている日本古典籍データセットのように、日本古典籍総合目録データベースの書誌(メタデータ)をデータセットとして(年度更新くらいの頻度でも)公開していただくと使い勝手は格段に向上すると思います。改善案など(また特に新DBの設計思想上の課題など)は求められればぜひ知見の提供などでご協力いたしたく、他の研究者の方も同様の思いでなかろうかと存じます。以前、実施されていた新DBについてのアンケートは周知されていたとはとても言いがたいので、学会などへ意見・要望提供の要請をしていただければと、日本古典籍総合目録データベースヘビーユーザーとしては強く思うところです。書誌学的研究を行っている研究者で新DBを目録DBとして使っている方をほとんど見かけないような状況は国家的損失だと思います。
 勝又先生がお書きのウェブ上での翻刻の業績化について、もっとも手っ取り早いのは翻刻専用オンラインジャーナル発行(発行後にデータベースなどに電子テキストを提供)ですね。複雑な組版をしない(ほぼテキストの流し込みのみの)前提で、自前で組版をしてしまえば割と簡単・安価にできると思います。構造化テキストを作成した人には、自動化できる範囲で複雑な組版も可とすれば、さほど労力もいらないのではないでしょうか。解題は冊子、翻刻はオンラインジャーナルというハイブリッド発行も面白いかもしれません。
  「ケンブリッジ大学の教育レベルの高さに驚きました。そして、私自身もサマースクールを受けてみたい思いました。 質問ですが、私は韓国出身の留学生で、韓国では日本文学で大学院に進学する人は少なく、教材(和本含め)も少ないことから日本に留学に来る学生が多くいます。私自身も日本文学を勉強するため日本に留学に来ています。特にご発表のなかで「意味の解読」はサマースクールにおいてどのように教育されているのでしょうか。やはり教材の少なさ(辞典や論文集など)はあるのでしょうか。

@ラウラ モレッティ

 サマー・スクールにご興味を持っていただき、ありがとうございました。「意味を理解する」という件ですが、翻刻を作成する段階の中で文章に意味を英語訳や日本語の現代語訳を通して確認することに致します。それに加えて、JapanKnowledgeなどの辞書を調べてもらうように参加者に協力してもらっています。なるべく未翻刻の資料を選んでおりますので、教材そのものは自分で作っております。
 ご発表にもありましたが、和本に触れるということが大事だと思っておりますので、教室には和本を多く持ってゆき、参加者にその和本に触れてくれるようにしております。コロナ禍の中、これだけが去年と今年は実現できないところです。
  貴重なお話ありがとうございました。 翻刻方針の両立の中で、原典に手を加えない翻刻は、AIや「みんなで翻刻」などで分業できる、と言うお話がありましたが、原点に手を加えない翻刻でも、似たくずし字などで、文脈をふまえた翻字が必要となるのではないかと感じました。必要となる専門性について、お考えをお聞かせいただければ幸いです。

@宮川真弥

 誤解を招いたようで申し訳ありません。私は比較的と申したつもりでして、もちろん「原文に忠実」よりの翻刻でも随時文脈判断(判読)をおこなっていることは自明です。また、文字量(数)が変わらないことがAI-OCRとの親和性が高い要因の一つですね。なお、国文学分野においては全員がそうだというわけではありませんが、(1)~(5)のいずれの段階のものもおおむね「翻刻」という枠組で捉えられていると思います。(6)~(8)は校訂本文に位置付ける方もあろうかと存じます。
 必要な専門性は、その資料(資料群)に対する理解の深さ(時代・著者・語法・文法・文物・筆者の書き癖など)に尽きるのではないでしょうか。
  大変勉強になり、ありがとうございました。些末なことで申し訳ありません。データ駆動型人文学の視界、において、「謝辞は大切」とありました。具体的にどのようなことなのか、おうかがいしたいと思いました。(事業を進める上で、きっと実感されたことなのだと感じました。)

@海野圭介

 ご存じのように、自然科学分野の論文では、関与した研究者の名前を列記して発表を行うことは常識です。研究自体が分担的に進められることにもよりますが、当事者からみて権利を守ることに有益であるのみならず、後続のものからみても研究情報の連続性の確保のためにも大事なことだと思います。「謝辞」も同じで、その研究に有益であった情報源や資金源などについて明示することで、研究の連続性の確保にも繋がります。人文学の研究は予算的には小規模の範囲で行われることが多く、そのような文化は育ってきておりませんでしたが、規模が大きくなると、その研究や基盤整備はどのような新しい研究や成果を生み出したのかということが常に問われます。その対応のためにも「謝辞」は大切で、関係した方々の寄与を正確に記すことが、次の研究推進や資金獲得にも繋がると考えています。


@宮川真弥

 予算獲得やプロジェクトの継続における謝辞の重要性は海野先生の仰るとおりだと存じます。一方、研究者の立場としては使用したデータベースや工具書に対して謝辞を記していくとするとその数が膨大に過ぎ、限られた紙面の中では現実的ではない側面もございます。利用者がこの論文を執筆する際に当該データベースを利用したと報告できるフォームなどを、データベースの運用側が用意することで、実体の把握はある程度可能ではないかと思いますがいかがでしょうか。紙面での謝辞だと、総数の把握(統計処理)が難しいという難点もあります。
 また、著者や利用者の申告によるものということでいえば、日本古典籍総合目録データベースへの論文・研究書の紐付けもあると先行研究調査の際にとても助かります。これは国文学論文目録データベースへの論文登録時に研究者が論文を読んだ上でタグ付けを行っているわけですから、その時に同時に行っていただけると効率的ではないかと思いもします。
  貴重なお話ありがとうございました。AIの崩し字解読や、和本のデジタル公開は、デジタルネイティヴに古典籍の世界へ踏みいれるハードルを下げるもので、非常に有意義なものであると考えています。しかし、その一方でお話にもありました通り、物としての和本から遠ざかってしまう(延いては和本リテラシーの低下という)恐れもあるかと思います。そこへの対策はどのように考えていますでしょうか。ご教示いただけますと幸いです。

@佐々木孝浩

 そういう心配は確かにあると感じていましたので、コロナ以前はワークショップなどを行う際に、和本を持参したり、現地にあるものを展示していただいたりして、できるだけ現物に触れていただけるようにしておりました。また、同じデジタル画像を見ても、現物を良く知っている人と、知らない人とでは、見え方と言うか、引き出せる情報の量と質がまるで違ううことを、できるだけ丁寧に説明するようにしています。


@海野圭介

 このシンポジウムの登壇者の多くは、実は書物自体の研究を行っている研究者です。海外所在資料の調査の際に、比較できるデータがオンラインで公開されてたら便利だというようなことから、デジタルへの反応が早かったのだと思います。和本の実際を知っているからデジタルに欠けるものが具体的に分かるということもあるかと思いますので、デジタルでわかること、実物でなければ分からないことの差異についても、改めて明確化して発信することが必要だと思っています。なお、国文研では以前に、『古典籍研究ガイダンス』(笠間書院、2012年)という本を刊行して、マイクロや複製本などから分かること、原本でないと分からないことなどについても説明しています。ご興味があれば手にとっていただければ幸いです。


@宮川真弥

 おっしゃる通りで、翻刻や影印、電子画像の公開により代替手段が出来ると、いままでそれしかないから使っていた現物が不要になる側面があります。工具書や基礎資料のたぐいはその最たるものでしょう。江戸期の和本の特徴は、残存点数が多く、坊間に出回っており、極めて安価なことです。これは購入する立場からはありがたいのですが、市場原理を考えると倉庫代と釣り合わなくなる(あるいは現在の文庫本などのように古本に値段がつかずそもそも市場にすら出なくなる)危険をはらむということでもあります。中野先生が和本リテラシーの復興を望まれた(あるいは危機感の)一因に、読まれなく(読めなく)なった本はただの紙束であり、破却されてしまうというものもあったと把握しています。(古文書でも同様でしょう。村方文書など、当事者にこそ最も価値が高く、家が途絶えれば/地縁が薄れれば相対的に失われやすいことを考えるとさらに深刻なのかもしれません)
 おそらくこのきわめて便利なオンラインでの画像公開の状況を手放すことは、我々には難しいでしょう。そうすると、取り得る道は二つ、市場原理に適さないとみて公共事業にするか、パイを増やしていき市場を活性化するかではないでしょうか。
 後者がまさに和本リテラシーの復興だと思うのです。くずし字が教科書に載ったのを好機とみて、まさに失われんとする雑本・端本を活用して、量的拡大をはかり、それを質的向上に結びつけようとする山田先生の活動に感銘を受けるのはそのためでもあります。裾野が広くないことには、山は高くなることが出来ません(上下があるという意味ではない)。かつての国文学の隆盛を支えてくれたのは(そして今我々が研究を続けていられる根幹は)多くの文学愛好者です。創作や各種藝能に携わる方々、それを支える方々、それらを愛好する方々も重要な古典関係者です。ライトユーザーを増やさないことにはヘビーユーザーは生まれません。だれでもはじめは初心者なのです。どのような段階を踏めば、次のステップに進んでくれるのか、これまでの教育の経験を活かしつつ、新たな世代に寄り添い、目の前の児童・生徒・学生に最適化していく現場の営みこそが、それを可能にすると信じています。もちろん、前者の公共事業としての和本の保全も、各地の図書館や資料館が担ってくださっており、人的・物理的リソースの減少で極めて厳しい状況にあると拝察していますが、国民の理解の元、しっかりと推し進められればありがたいと思います。そのためにも普及活動が重要です。
 まずは存在を認識してもらうことが大事で、和本というものがあることを知ってもらうためには、ウェブ空間にあって、すぐに紹介・共有できることも大事だと思います。そして、専門家が出来るのはそのキュレーション、すなわち重み付けと分類です。どの情報が良質なものなのか、どの情報と関連するのか、それをこれまで同様、続けていくこと、デジタル世界に開いていくこと、伝えようとすること、それを続けていけば、存在を認知した後に興味関心がある人はきっとついてきてくれると思います。まずは面白がってくれる人を離さないことを考えると生産的ではないでしょうか。ヤフオク!や日本の古本屋で気軽に和本が買えること、古書肆でもネット販売をしているところが多くあること、貴重書でも古典会にいけば触れること、国文学研究資料館の入り口には触れる和本が陳列してあることなど、広報すべきことは多いでしょう。自宅での和本の管理法とか、安価な防虫・殺虫とかも発信すると良いですよね。また、できれば、それこそ雑本でよいので、人が多く通る書店に置いてみるとか、学校図書館で気軽に触れるとか、そういうふと目に付く環境を構築できればと思っています。
 直接的な回答をすると、デジタル画像だけでは多分ほとんどの人はわからないので解説(書誌、翻刻、注釈)が必要です。画像をおいているだけでは、専門家以外にはほぼ無意味です。翻刻だけでも難しい。さまざまな解説の中で、丁寧な書誌的な解説を施せば、平面画像だけで満足できるわけはありません。書誌学の授業をオンラインでしていると、必ず大半の学生が実物に触れたかったといいます。それは画面越しとはいえ、和本そのものを取り扱いながら、その様子をビデオで写して説明をしているからだと思います。平面画像から得られる情報と、立体物から得られる情報には隔絶したものがあるというのは揺るぎなく、それをどう言語化して伝えられるかなのだと思います。
 たとえば、撮影画像は多くの場合、プロが照明を調整し、きれいに撮影します。すると、実物を見たときの印象とはかなり異なることがよくあります。撮影画像がきれいすぎるのですね。また、撮影条件がまちまちであることも多いこと、撮影条件が必ずしも明示されないことにも注意が必要です。比較の際は諸条件を揃える必要があるわけでして、二つを並べて比べることに勝る環境はありません。そして、出力されたものと現物とが人間の目に同じように見えるようにするためには、印刷時の調整が必要です。調整がなければ、同様に見えるという保証はありません。ここに複製やフルカラー影印の紙での刊行の意義が見いだせます。
 書誌学の方面からいえば、重さは従来の書誌記述では一般的ではありませんが、持ち重りがするというのは重要です。原装の多冊ものを重ねたときに、ぴったりと重なることで一具のものであることが判断できることは本を見ないとわかりません。版心からみることで、匡郭が揃っていたら活字本、がたがたしていたら整版本とぱっと見分けがつくことなどは、版心側からの画像を撮影しないデータベースではわかりません。小口の観察や小口書によって、合綴の有無や元の分冊状況がわかりますがこれも同様です。写真撮影の画像だと、大きさの情報は消えてしまいます(ただし、ルーラーを一緒に写せば解決するし、フラットベッドスキャナだとメタデータとして付与される)。これらの理解を欠くと、分析の基盤となる資料の位置付けが不明瞭・不正確なものとなり、研究の土台が揺らぎます。このような説明を丁寧に粘り強く続けていくこと、これに尽きるのではないでしょうか。
 そのためには、国内の研究者の育成も重要で、国文学研究資料館が日本古典籍講習会を大学院生にも開放されたのは素晴らしい英断だったと敬意を表したいと思います。出来れば、一度で終わらず、その後の経験を踏まえて、中級編・上級編と(国内司書に対しても)設定していただけるとありがたいなというのは欲張りすぎでしょうか。私の着任前なのですが、天理図書館では海外の日本研究司書の方を招いての「天理古典籍ワークショップ」が開催されており、モレッティ先生にもご参加いただいていたと伺っています。これは三か年計画で、学んだことを持ち帰り、また業務を通して生じた疑問をもって翌年へというサイクルのものであったとのことでした。このご縁が今回のシンポジウムにつながっていると思えば感慨深いものがあります。日本古典籍研究国際コンソーシアムの設立など、新たな、そして希望に満ちた動きを歓迎し、私もまた斯界のために微力を尽くしたいと思います。


@勝又基

 まったく心配していません。くずし字に興味を持つことは、物としての和本への興味を失うのではなく、むしろ興味を喚起する方向に働くと思っています。さらに言えば、くずし字が読めて和本に興味を持たない人がいても一向に構いません。デジタルはあくまでも道具。人によってさまざまな使い方があって構わないのではないでしょうか。
  海外における学習者および活動を推進されている先生の思い・お考えを知り、大変勉強になりました。ありがとうございました。御報告の中で、開発者がもっと現場を知って欲しいということを強調されていたように思います。(誤解でしたら申し訳ありません。)具体的にどのような点で、開発者の考えと現場に乖離があると思われたのか、教えていただけますでしょうか。

@ラウラ モレッティ

 AIを研究対象とする研究者とAIを利用する近世文学の研究者の目指しているゴールが異なるというのはある程度致し方のないことだと思いますので、それも含めてお互いの目指しているゴールを理解し合うことが大事だと思います。
  『高校に古典は本当に必要か』(文学通信、2021年)によると、古典が好きと答えた人は割合として高いといえませんでした。「古典は難しい」「古典は面白くない」という社会風潮もある中で、「実物(和本)をもっての教育は学生たちの授業の満足度として高いものだったのでしょうか。」くずし字の解読は大学入試と直結しないものと考えることもあるため、学生たちがまじめに取り組んでいたのだろうかと気になりました。

@山田和人

 和本をじかに触ってみることで、未知のものに触れる喜びを共有できるようです。何人かで和本を回覧して、感想を述べ合ったりして、くずし字学習の導入的な役割を果たします。モノとしての本・古典は好悪は別にして、興味の対象になるようです。くずし字解読の専門家になるわけではないので、和本やくずし字にまずは興味を持ってもらうことを第一に考え、昔の人と同じ本・古典を読んでいるという感覚が学習意欲につながるのだと思います。和本がタイムマシンのような役割を果たします。学会の出前授業で、毎回の実践を記録し、生徒の受け止めを検証しているのが、名古屋大学教育学部附属中学高等学校の実践です。こちらも参照なさってください。
  先生各位 本日は貴重なお話をありがとうございます。非常勤の学部授業で、必ず「くずし字アプリ」や「みんなで翻刻」、また、慶應大学のオンライン講座を学生たちへ紹介し、アクティブラーニングへの活用を推奨しています。ただ、通常の学部授業で、古典文学概論や古典文学史などのように、版本書誌や翻刻の専門科目でない授業を行っている場合、和本リテラシーについて話すには、どうしても時間に限りがあります。何か、概論授業においても取り入れられることがございましたら、是非ご教示頂きたいと存じます。
追伸  本日のシンポジウムを楽しみに致しておりました。期待以上の興味深いお話ばかりで、ワクワクしながら参加させて頂いております。 本日はありがとうございます。

@佐々木孝浩

 最近は古典籍のデジタル画像も多数公開されていますので、古典文学作品を紹介される際に、その代表的・あるいは典型的な伝本の画像を併せて説明されると、和本の装訂や大きさ、装飾などが様々であることや、書物と言う実態を持った存在であることが理解できて、授業全般の理解も深まると共に、書物そのものにも興味を持ってもらえるようになるのではないでしょうか。単なる思い付きで恐縮です。


@宮川真弥

 佐々木先生がお書きのように、代表的な伝本を画像でビジュアルに示すというのはどうしても文字情報で観念的になりがちな文学概論において、形態面での意外な連関などが見えてくることもあり、効果的だと思います。いわゆる書物の格や型ですね。
 また、これはご専門にもよりますが、特に古代中世の文学史にでてくるような作品は、近世の享受資料も多く、つまり関連する和本が安価に手に入りやすい環境にあることが多いと思います。そういうところから、江戸時代の人々も「古典」を(今の我々と同じ/違う枠組みで)享受していたのだということに気づく、古典作品そのものへの関心の階梯として使うことも出来るかもしれません。
  和歌を研究している院生なのですが、字母の情報などもあったらと普段から思っております。翻刻ないし元テキストを作成する時の情報として、字母の観点はどの程度考慮すべきなのでしょうか。うかがえたら幸いです。少しばかり遅くなり、申し訳ありません。

@宮川真弥

 重要なご指摘です。実はスライドは作っていたのですが省略したのでした(当日のスライドは未使用分も含め、こちらでご覧いただけます)。字母情報はかつてはデジタル環境では字母の漢字を使うしかなかったのですが、近年、Unicode 10.0から変体仮名(285文字)が登録されました。高田智和先生や矢田勉先生ほか、国語学の先生方のご尽力によるものと伺っています。まだまだ対応フォントは多くないですが、学術情報交換用変体仮名公開サイトでは文字コードの検索機能に加え、フォントも配布しています。これらの変体仮名をIMEやATOKなどの辞書に登録しておけば、わりと楽に書き分けられると思います(辞書登録の際は「あ」単独よりも「へあ」など組み合わせての登録をおすすめします)。書き分けておけば、あとで通行の仮名に一括置換で戻すことも出来ます。なお、表記研究の先生方が実際に使い分けがあろう変体仮名を選んでいらっしゃるはずですが、資料によっては不足があるかもしれません。そういう場合は専門知を活かしてどうぞご提言ください。
 また、翻刻においては、流儀によって「八」(「二」「三」)を字母とする「は」(「に」「み」)を片仮名で表記することもあります。そうでなく平仮名で書く流儀もあります。こういう場合も、Unicodeの変体仮名を使っておけば、後からどちらにも対応できます。
  ご説明大変興味深く拝聴しました。教材プラットフォームの魅力は大変によく理解できましたが、「学会を社会に開く、学校を社会に開く教材を社会に開いていく」という先生のご主張を受けますと、国語教育・文学研究の範疇にとどまって終わってしまうのは大変もったいないーむしろ、留まることが難しいのではないか、という気がいたしました。からくり人形の動画の例をお示しいただいて、視聴することがその後のくずし字学習に成果をもたらすとご説明いただきましたことからも、和本に楽しく実践的に親しんでもらうには、歴史学、地理学、美術・デザイン、哲学など、他分野との連携が学習のキーになっていくのではないかと強く感じました。かなり将来的な話になってしまうかもしれませんが、他の研究分野との教材づくりの場での連携は、今後進んでいく可能性はあるのでしょうか? そのように連携した成果が、教育現場への導入が進んでいく可能性は現時点でどの程度想定されますでしょうか。

@山田和人

 もともと和本はジャンル・領域を問わず存在しています。その意味では、ご指摘の通り、国文学の周辺のみに止まらず、歴史・地理・美術・服飾・哲学・数学・芸能・文化財と多様なジャンルにおける教材として、和本が使用されてくるとさらにおもしろい展開が期待できます。ただ、そうしたジャンルの研究者が和本リテラシーを身につけていくことも必要になります。それができる研究者との連携ができると心強いです。英語ができるようになるのと同じようにくずし字が読めるようになっていくのが理想です。中学校の授業の中では、教科間連携が模索されています。国語と社会、国語と芸術など合同授業を実践しているケースもあります。和本の教材性という大きな課題も見据えつつ、教材開発を進めていきたいと思います。
  素晴らしい発表をありがとうございました。デジタルの技術との関わり方、和本という“もの”の魅力を改めて感じました。 書誌学の先生がたくさんいらっしゃるので、質問させていただけたらと思います。 くずし字を読める人が少ないという現状は、文学研究のみならず、和本の書誌を取れる人、和本を扱える人が少ないということでもあると思います。 そんな中で慶應義塾大学のFuture Learnは素晴らしいなと感じました。 今後の話になってしまうかもしれませんが、 「くずし字読解、出前講座などから和本自体についての興味が湧いた市民や書誌学を学び直したいと思った人が、書誌学を学びたいと思った時に、大学へ入学する・自分で図書館などで学ぶ以外の方法はありますでしょうか?」 少し今日のお話しとはズレてしまうかもしれませんが、こういった機会はあまりないので、質問させていただきました。ありがとうございました。

@宮川真弥

 FutureLearnの佐々木先生の講義が現在、もっとも整っているのではないでしょうか。(無料版は普段は定期開催、現在はコロナ対応で常時開放。「古書から読み解く日本の文化: 和本の世界」(日本語版))。また、掛け軸の取り扱いに関しては、岡墨光堂さんがとてもわかりやすく、なぜそうするのかという理由も丁寧に説明している動画をアップしていらっしゃいますのでご一覧をおすすめします。なお、日本古典籍研究国際コンソーシアムが、(一般むけかどうかはよくわかりませんが)どなたでも参加できるオンライン勉強会を開催予定とのことです。
 ほかにも、今回のシンポジウムにむけて、各方面からいただいた情報提供に貴重な情報がございます。「本シンポジウムにおける情報共有」をご参照ください。
  全体に対してですが、和古書のよく使われているオントロジーは現在ありますか?

@宮川真弥

 日本古典書誌学における概念の体系をお尋ねと推測してお答えします。
 割と流派があるようなところもありますので、よく使われているとなると難しいですね。
 長澤規矩也『図書学辞典』、川瀬一馬『日本書誌学用語辞典』などは古典的ですが、近年よく参照されているのは『日本古典籍書誌学辞典』でしょうか。ただ、これは複数人による執筆なので、精粗がありますし、必ずしも全体が厳密に統一されているわけではないことに注意が必要です。
 そのほか、概説書ですが、堀川貴司『書誌学入門 : 古典籍を見る・知る・読む』や、藤井隆『日本古典書誌学総説』、大沼晴暉『図書大概』なども読まれているのではないでしょうか。
 結局は統一的なものはなかなか難しい現状です。なお、佐々木先生が用語の統一については一石を投じていらっしゃいます。また、落合博志先生によって国文学研究資料館の共同研究「日本古典籍の書誌概念と書誌用語の国際化」が行われ、『標準版 日本古典籍書誌用語集』の作成が企図されていたとのことです。
  本日は大変刺激的なシンポジウムをありがとうございました。各先生のお話を本当に興味深く拝聴いたしました。 私自身、これまでインターネットで最低限の情報を取り入れるだけで、どんどん増えていく情報や新しいシステムを自身の研究にどのように取り入れていくのか考える機会がないままでしたが、今回のシンポジウムで、研究、教育にどのように活用するのかを考えるきっかけをいただいたと思っております。 世界中で情報が共有できるようになる一方、そのような状況であるからこそ、自分自身で主体的に新しいものと関わる必要性を強く感じました。 事務的な話としては、パワーポイントを後から共有していただいたことが大変助かりました。ありがとうございました。

@津田眞弓

 感想、ありがとうございます。今回のシンポジウムに通底するのは、日本古典文学研究の喫緊の課題への危機感です。関わる人数が減る中で、増やす努力、あるいはその質をどう保持していくか。またデジタル世界でいろいろなことが決められている時に、進んで関わっていかないと、未来に大きな禍根を残すのではないかと。議論する時間はないのを承知でいろいろ盛り込んだのは、その気持ちをまずはみなさまと共有したかったのです。
 宮川氏の、最後のご発言が、おそらくこのシンポジウムの結論になっていくのだろうと思います。デジタルの世界に立ち向かうには、パソコンだのシステムだのに通じるよりも、まずは近世文学研究とは何かを考える/伝えることが学会として大事だと(ほかの領域はそれぞれのお立場の)。研究・教育のデジタルの道具への要望も、すべてはそこから始まります。
  みなさま、力のこもったご発表、どうもありがとうございました! ご自身の研究と併行しながら、こんなに精力的にすごい取り組みをされているのか……! とひたすら感嘆するばかりでした。こうした活動が、古典籍や日本の文化そのものへの関心を各方面で高めていくのだなあと感動しました。 とりわけ、モレッティ先生のワークショップのなかでグループ発表の形式をとりいれていることが印象的で、たんに読むだけにさせない工夫、私も取りいれてみたいと思いました。山田先生の「教科書に載っていない……」のとりくみ、学生にどんなふうに作品探しをさせるのか、ぜひ詳しくお聞きしたいと思いました。 その他、参考になることばかりでした。あらためまして、どうもありがとうございました。

@山田和人

 プロジェクト科目では、同志社女子中高で自分たちが作った教材を使って模擬授業を行うことになっています。KuLAのテストをクリアすること、力試しに、できるだけ多くのデジタル画像を見ること、同志社大学に所蔵されている一般書扱いの和本を身近なモノとしてじっくり読むことを推奨しています。実物を見ながらデジタル画像を見ていくというかたちです。学生たちはやはり絵と文字が組み合わされた素材に興味を持つので、そうしたジャンルの活字本も含めて探索させています。試行錯誤のくり返しです。いまは導入段階の教材開発のために、自作のイラストとくずし字を組み合わせた教材を作っています。それをバネにして、展開・応用編の教材開発に進んでいくことになります。この科目は学生が主体的に動いて、協働することで、ひとつの成果を出していくプロジェクト型の授業ですので、わたくしは助言を行うに止めています。今日、お話しできなかったのですが、雑本・端本の寄附を受けて、それを授業で配布・回覧して、和本にじかに触れて、身近に感じてもらうことも考えています。名作主義からの離脱です(笑)
  朝鮮半島の古典作品(漢詩文を含む)が豊富に現代韓国・朝鮮語に翻訳されているのに比べると、現代日本語訳されている日本の古典籍の数が極端に少ないようだ、ということをある東アジア文学研究者からお聞きしたことがあります。一方で、各大学の演習などで(また、モレッティ先生のサマースクールでも)、翻字・注釈に加えて現代語訳(日本語、英語、その他)が、不完全な形であれ、たくさん作られていることと思います。これらの現代語訳のテキストデータも、一定の価値を持つデジタルデータとして集積し、教育・研究・啓蒙に活用していくことは可能でしょうか。皆さまのお考えをお聞きできましたら幸甚です。

@宮川真弥

 これは別項でも記しましたが、(原本に忠実よりの)翻刻については半端なデータや、やや正確性を欠くデータも活用の方途は十分にあり、ぜひ、教育の過程で生じたそういうデータは蓄積されると良いと思います。しかし、現代語訳(注釈)という人間が読むためという目的が大きいものに関しては、ただのデータとしての扱いをするのはやや危険だと思っています。すなわち、現代(データ社会)では氾濫する情報から良質なものを見つけ出すことが困難になっており、データが増えるほど、加速度的にその状況は進んでいくことを念頭に置けば、良質な情報を示すことこそが専門家の重要な仕事となるだろうからです。データを蓄積するのはもちろん重要ですが、精選した確かな情報を示すことも同じくらい大事です。結論としては、分析データとして裏で持っておく分には良いと思いますが、表に出すのはしっかりと校訂・批判を経た良質なものを、専門家の責任として提示する必要があるのではないでしょうか。
 古典は原文で読まなければならないのかという問いは、外国文学へのそれととてもよく似ているようにも思われます。歴史的には俗語訳と全文掲載型注釈書との対立が思い起こされます。あるいは翻訳機があれば他言語を学ぶ必要はないのかということとも重なるでしょうか。筋を理解するには訳文でも十分でしょうけれども、表現効果による藝術としての文学を享受し、あるいは概念体系の異なりゆえに削ぎ落とされる情報やニュアンスを理解するには原文に勝るものはないと思います。他者の解釈に触れる楽しみ――蒙を啓かれる衝撃、あるいは不足を感じての反論――は、自らの解釈が前提なのではないかとも思われます。原文に親接させる現代語訳というのが求められてきますね。原文が読めないと他者の説を無批判に受容せねばならないというのは、教育の意義そのものの謂なのかもしれません。


@勝又基

 「みんなで現代語訳」みたいなシステムがあるといいですね。
  貴重なお話をありがとうございました。昨今の状況下、デジタル公開化された一次資料の恩恵を受けた海外の院生の一人です。同時に、一次資料に比べ、それらを効率的に分析するための二次資料(特にコレクションの解題や索引など)を北米で入手閲覧する困難さを実感しました。この問題の解決は、今後の海外からのデジタル資料活用に大きくかかわると思います。この問題につき日本の先生方のお考え、御所属の機関での取り組み(新規メタデータに解題や索引情報を入れる・既存の二次資料のオープンアクセス化等)をお聞かせ戴けますでしょうか。モレッティ先生には、ヨーロッパにおけるこの問題の状況と学生へのご指導についてお聞かせ願いますでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

@宮川真弥

 別項にも書きましたが、画像だけではかなり多くの情報が欠けていく(代表的なのは大きさ・重さ)ので、メタデータの記述は画像データベースには必須だと思います。ただ、解題は著作物ですので、出版と関わってくると複雑な問題になります。索引も便利であるが故に商業とも結びつきます。商業的価値を失った後くらいのものの活用は考えられていくべきでしょうし、実際に笠間索引叢刊が国文学研究資料館のリポジトリで公開されているのは先進的な取り組みです。デジタル源氏物語での『校異源氏物語』の利用も同様ですね。国文学研究は歴史が長く、かつ隆盛を誇った時代があり、大量の蓄積がある上に、学問・成果が古びにくい分野ですので、それらの掘り起こし、デジタル化、再活用を積極的に考える必要があると思います。
 私の考えは所属を代表するものでは決してないのですが、所属機関の紹介をお求めということなのでいたしますと、弊館ではかなり詳細な和古書の書誌データ(メタデータ)をOPACやCinii Booksで公開しています。また、これまで刊行してきた貴重書の目録類を、透明テキスト付PDFで公開しております(「絶版ライブラリー」)。ほかにも貴重書の紹介も適宜行っておりますので、ご清覧いただけますと幸いです。詳細は弊館ホームページや、以下の拙ブログ記事をご覧ください。


@勝又基

 私もアメリカに2年住んでいたので、よく分かります! ボストン、LA、シカゴなど、いくつかの大都市を除くと、二次資料へ簡単にアクセスするのは容易ではないですね。ただ一方で米国の大学はILLや大学間の貸し借りが日本より格段に進んでいるという印象を持ちました。そういったものを利用すれば、ある程度はカバーできるのかな、と思います。あと、必要な資料は身銭を切って手元に置く、ということは、国内外を問わず同じだと思います。


@津田眞弓

 昔、ケンブリッジ大学図書館にいらした小山騰氏に、日本の研究者はローマ字の書き方を気をつけて欲しいとご教示をうけました。ヨーロッパでは、日本語を使えない日本資料の担当者も増えており、ローマ字が違うと検索ができないと。日本にいる我々がなんとなく使っているローマ字表記は、海外で使われるものとは違うと初めて気がつきました。以前は、草双紙をkusazoushi と書いていましたが、今はkusazōshi と書くようにしています。また英語で何かをする場合、表記使用者が多いであろう米国議会図書館のローマ字方式にしていますが、これは一つの方式とのことで、奥が深い(根が深い?)問題のようです。同様に、学術用語の翻訳が確定していません。これは、英語で目録を作ろうとして、痛感しました。日本の方でも語の意味がゆれているから仕方がないとはいえ、日本語に当てる英語を、ある程度の幅を持たせつつも何か指針をみんなで議論する必要があるのではないでしょうか。海外・デジタルという問題について考える時、いろいろな地盤が確立していないという印象を受けます。
  感想を書かせていただきます。「デジタル時代の和本リテラシー」ということで、様々な教育・授業が実践されていることをお教えいただき、大変勉強になりました。英語の能力も重要であること、中身に加えてモノとして和本の魅力を知ることの大切さ、データ駆動の取り組み、翻刻のポイントや「みんなで翻刻」のこと、今日から使える豆知識、くずし字を学ぶ中で地域の文化も生徒たちに伝えていくべきこと、など、シンポジウムを拝聴し、学ぶべきことがたくさんありました。おかげさまで「つながる喜び」も感じることができました。本当に有り難うございました。

@勝又基

 ありがとうございました!


@津田眞弓

 ありがとうございます!
  1点、質問です。今後、中世・中古などと連携していく計画はございますでしょうか?

@佐々木孝浩

 中世文学会会員の私としても、是非そういうことを考えていただきたいと希望いたします。


@宮川真弥

 和歌文学会俳文学会和漢比較文学会などのジャンル別学会とも協力していく必要があるでしょうね。ジャンル別学会は割と価値観が近くなりやすいと思いますので、そこでの知見をうまく取り入れられると案外いろいろなことがスムーズに行くかもしれません。


@津田眞弓

 日本文学関連学会連絡協議会で、近年、学会の共催、事務作業の合同などを模索したいという学会が出るなど、話題に上るようになりました。まだまだ実現化は難しいと思いますが、各学会の現状は年々厳しくなっており、何らかの形の連携を取らなければというお考えの方が本学会でも増えてきているように思います。なお、2018年に調査した本学会員の年齢構成では、50代が一番割合が高く、次が40代でした。未来のためには、何らかのトライアルをしなければならない時期だと個人的には思います。特に、各学会の次世代を背負うみなさんはどう思っているのか、知りたいと思います。


  • ご質問、
    ありがとうございました!
     

  • 本シンポジウムにおける情報共有


    参加者・視聴者から、みなさんへ。

    皆様の試みをお寄せいただきました。ぜひご参考になさってください。

    情報共有



    オンライン大会をする方の、ご参考になればと思いまして。

    今大会の参加者アンケートと、運営組織の備忘録

    参加者アンケート 運営備忘録

    シンポジウムの記録動画と、日本近世文学会恒例の文学踏査はこちらから

    記録動画


    ■ 主催: 日本近世文学会
      お問い合わせは学会事務局で承ります。学会サイトを御覧下さい。

    ■ 後援: 慶應義塾大学教養研究センター

    大会オペレーション: 文学通信

    画像:国文学研究資料館蔵『平家物語』https://doi.org/10.20730/200017021