昨日の記事「#3485. 「神代文字」を否定する根拠」 ([2018-11-11-1]) で,日本語固有の文字と主張されてきた「神代文字」を否定した直後に,沖森 (33--34) は次のようなフォローの文章を続けている.
自らが使用する言語に固有の文字があることを願う気持ちは,自然な心情としてそれなりに理解できます.しかし,ギリシア文字がフェニキア文字に由来すること,そのギリシア文字からラテン文字が作り出されたことなどからわかるように,ほかの言語の文字に工夫を加えて,自らの言語に適した文字を作り上げていくというのも自然の流れですし,むしろ世界の言語における文字成立の由来としてはその方が圧倒的に多いのです.ですから,固有の文字体系がないという劣等感を持つ必要はまったくありませんし,それよりも,工夫を凝らして自らの言語をしっかりと書き記せる文字を成立させたことを誇りに思ってよいのです.
この議論は,世界的な言語である英語の歴史で考えてみても通用する.英語には固有の文字はない.初期のアングロサクソンのルーン文字にせよ,6世紀末以降に借用されたローマン・アルファベットにせよ,前段階の文字からの派生物にすぎない.上の引用文中にあるように,いずれもギリシア文字へ,さらにフェニキア文字へ,究極には北西セム文字へと遡るのである.しかし,英語はローマン・アルファベットを発明こそしなかったけれども,英語独自の音を表記するために,その文字やスペリングに様々な工夫や改良を加え,長い時間をかけて実用的なものへと徐々に仕立て上げてきたのである.文字に関しては,古代日本語の母語話者も古代英語の母語話者もほぼ同じことをしてきたのである.
アルファベットや漢字を発明した初代の創業者は確かに偉い.しかし,のれんを継ぎ,工夫しながら世の中で繁栄し続けた二代目以降も,別の意味でまた偉い.「誇り」ということでいうならば,互いを認めつつ各々の立場で誇りをもつことが大事である.
・ 沖森 卓也 『はじめて読む日本語の歴史』 ベレ出版,2010年.
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