hellog〜英語史ブログ

#2872. 舌打ち音とホモ・サピエンス[phonetics][homo_sapiens][anthropology]

2017-03-08

 舌打ち音あるいは吸着音 (click) という特殊な言語音をもつ言語が,主としてアフリカ南部に集中して分布しているという事実は,言語学者のみならず人類学者や民族学者の関心を引きつけてきた.舌打ち音の音声学的な記述について「#1672. 気流機構」 ([2013-11-24-1]) で,地理的な分布について「#1314. 言語圏」 ([2012-12-01-1]) で部分的に扱ってきたが,今回はその起源についての言及を集めてみた.いずれも必ずしも専門的な観点とは言えないかもしれないが,1つの洞察として示しておきたい.
 一般向けの宇宙史を著わしたロイド (130) は,現在のタンザニア奥地に住む狩猟採集民ハザ族の言語について,専門家による次のような意見を参照している.

 一部の専門家は,ハザ族の言語,少なくともその形態は,石器時代の初期の言語に近いのではないかと考えている.ハザ族の言語はほとんど舌打ち音で構成され,母音や子音を用いる通常の言葉とはまったく異なっている.舌打ち音は,とりわけ狩りの最中にその威力を発揮する.舌打ち音なら,獲物に気づかれることなく,遠くの仲間と情報を伝達しあうことができるのだ.
 最近の研究により,ハザ族の遺伝子構成は,これまで研究されたどのグループより多様であることが判明した.遺伝子は世代を経るごとに一定のペースで多様化していくので,多様であればあるほど,その血統は歴史が古いということになる.専門家は,ハザ族の系統が他の人類から分かれたのは,ホモ・サピエンスが誕生して間もないころだったと考えている.つまり彼らは,ホモ・サピエンスの最初期から続いている系統なのだ.


 人類学者のロバーツ (45--46) は,吸着音について次のように観察している.

吸着音言語は,アフリカ南部のコイサン語族――ナミビアとボツワナのブッシュマン(サン族)と南アフリカのコイコイ族(クエ族)――とタンザニアの人々に特有のものだ.ブッシュマンとコイコイ族の生活様式は昔から異なり,ブッシュマンは狩猟採集民だが,コイコイ族は家畜を育てている.言語は異なるが,どちらも歯や硬口蓋で舌打ちする吸着音が混じる.人類学者と言語学者は,現在大きく異なっている両部族にこのような共通点が見られるのは,遠い昔に共通の祖先から分かれたからだと考えている.


 引き続き,吸着音の起源に関する,ロバーツ (48) のさらなる観察を引用する.

近年の研究により,吸着音言語を話すグループにつながる系統は,現生人類の系統樹のごく初期に現われたことが明らかになった.証明はできないが,遺伝学者たちは,吸着音言語の起源は数万年前にさかのぼり,人類がアフリカを出発するよりも前だったのではないかと推測している.


 そして,ロバーツ (54) は,ナミビアのブッシュマンの狩猟に同行して,次のような感想を述べている.

足跡をたどりながら,時おりふたりは小声で話している.吸着音がはっきり聞こえる.吸着音を話す人々の系譜を調べた遺伝学者は,その言語の起源は数万年前にさかのぼる可能性があると推測している.吸着音が現在まで続いてきたのは,狩りをしながらコミュニケーションをとるのに便利だからではないだろうか.ブッシュマンといっしょに行動していて感じたのは,彼らが小声でささやきあうとき,吸着音がとてもはっきり聞こえるということだ.現時点では何の確証もないが,吸着音は周波数が高く,他の言語に比べて遠くまで届きにくいのではないだろうか.それは,灌木の間をかたまって移動するハンターたちが,遠くにいる動物に察知されずに情報を交換することのできる言語なのかもしれない.


 舌打ち音の起源として想定されている年代が十数万年前という太古の昔であることを考えるとき,上記の観察は,一方でロマンを誘い,他方で疑念を生じさせるものとなる.

 ・ クリストファー・ロイド(著),野中 香方子(訳) 『137億年の物語』  文芸春秋,2012年.
 ・ アリス・ロバーツ(著),野中 香方子(訳) 『人類20万年 遙かなる旅路』 文芸春秋,2013年.

Referrer (Inside): [2022-08-03-1]

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