hellog〜英語史ブログ

#2794. 「意味=定義」説の問題点[semantics]

2016-12-20

 語の意味については,定義を与えればそれで済む,という立場がある.意味が分からなければ,辞書で定義を確認すればよい,というものだ.文の意味については,文を構成する各語の意味がしっかり定義されていさえすれば,その意味をつなぎ合わせたものが文の意味となるのであり,問題はない.この立場は "definitions theory" と言われ,言語学の領域から一歩出れば,非常に広く受け入れられている考え方といってよいだろう.しかし,そうは簡単にいかない,というのが意味論の立場である.Saeed (6--7) にしたがって,"definition theory" の3つの問題点を指摘しよう.
 第1に,辞書を想像してみればわかるように,語の意味の定義は,通常,別の語を組み合わせた文で与えられており,それらの各語の意味の定義が分かっていなければ,判明しないことになる.そして,その各語の意味の定義もまた,別の語や文によって定義されるのだ.つまり,定義が言語でなされる以上,永遠に辞書の中でたらい回しにされ,どこまでも行っても終わりがない.ここには,定義の循環の問題 (circularity) が生じざるをえない.定義を与えるためだけに用いられるメタ言語 (metalanguage) を作り出せば,この問題は解決するかもしれないが,はたして客観的に受け入れられるメタ言語なるものはありうるのか.
 第2に,与えられた定義が正確なものであるという保証を,いかにして得ることができるのか,という問題がある.意味が母語話者の頭のなかに格納されているものであることを前提とするならば,それは母語話者の知識の1つであるということになる.では,その言語的知識 (linguistic knowledge) は,他の種類の知識,百科辞典的知識 (encyclopaedic knowledge) とは同じものなのか,違うものなのか.例えば,ある人が鯨は魚だと信じており,別の人は鯨はほ乳類だと信じている場合,2人の用いる「鯨」という語の意味は同じものなのか,違うのか.もし違うとしても,両者は「私は鯨に呑み込まれる夢を見た」という文の意味をほぼ完全に共有し,理解できると思われるが,それはなぜなのか.「愛」や「民主主義」についてはどうか.人によってその意味が異なるということは,十分にありそうである.
 第3に,ある発話の意味がコンテクスト (context) に依存するという紛れもない事実がある(コンテクストについては,昨日の記事「#2793. コンテクストの種類 (2)」 ([2016-12-19-1]) 及び「#2122. コンテクストの種類」 ([2015-02-17-1]) を参照).Marvellous weather you have here in Ireland. という文の意味は,晴れている日に発話されたのと,雨の日に発話されたのでは,おおいに意味が異なるだろう.意味があくまで定義であるとすれば,その定義はありとあらゆるコンテクストの可能性を加味した定義でなければならないことになるが,そのようなことは可能だろうか.
 (1) "circularity", (2) "the question of whether linguistic knowledge is different from general knowledge", (3) "the problem of the contribution of context to meaning" の3つの点から,「意味=定義」とする単純な意味に関する説は受け入れられない.
 意味とは何かという本質的な問題については,「#1782. 意味の意味」 ([2014-03-14-1]),「#1931. 非概念的意味」 ([2014-08-10-1]),「#1990. 様々な種類の意味」 ([2014-10-08-1]),「#2199. Bloomfield にとっての意味の意味」 ([2015-05-05-1]) などを参照.

 ・ Saeed, John I. Semantics. 3rd ed. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2009.

Referrer (Inside): [2022-08-25-1] [2019-08-25-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow