hellog〜英語史ブログ

#2703. 非対称鍵暗号の革命[cryptology][language][semiotics][communication]

2016-09-20

 「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) で,暗号と通常の言語を比較対照した.現代の暗号が通常の言語と最も異なっている側面の1つに,コードの非対称性がある.だが,これは直感に反するため,もし言語に同じような非対称性が備わっていたら一体どのような言語コミュニケーションが展開するのか,想像するのも難しい.
 20世紀後半に非対称鍵暗号が生まれるまで,人類の用いてきた暗号はすべて対称鍵暗号だった.対称鍵暗号では,送り手と受け手が同じ鍵のコピーをもっている.送り手はその鍵で平文をスクランブルして暗号文を作って送り,受け手はその鍵のコピーで解錠して平文を取り戻す.両者ともに共通の鍵(とアルゴリズム)があるからこそ,最終的にコミュニケーションが成り立つのである.この対称性は,言語にもみられる基本的な特性である.例えば日本語の文法を鍵(およびアルゴリズム)とすれば,日本語の話し手はその鍵で伝えたい内容を符号化して文を産出して送り,日本語の聞き手はその鍵のコピーで復号化して内容を取り戻す.符号化と復号化の過程では,文法の諸規則の適用順序こそ逆になるが,同じ一つの文法である.このように対称鍵暗号は通常の言語と根本的な特性を共有しているため,その原理を理解しやすい.
 しかし,20世紀後半に非対称鍵暗号なるものが生まれた.非対称鍵暗号によるコミュニケーションでは,送り手と受け手の用いる鍵が,数学的に非常に精妙な方法で関連づけられてはいるものの,事実上異なっているのである.あたかも,送り手は英語で話しをしているが,受け手は日本語で聞き取っているかのようだ.このように表現すると英語から日本語への自動翻訳機が介在しているかのようなシチュエーションにも聞こえるが,この比喩は必ずしもうまくいかない.というのは,受け手側の鍵(この例では日本語文法)は,受け手が独自に作成し,他人に明かさずに保管していたものであり,さらに,受け手がそれを鋳型として送り手側の鍵(この例では英語文法)をも先に作りあげていたという状況があるからだ.つまり,受け手はコミュニケーションに先立って,ある人工言語の文法を作り上げ,それを鋳型として第2の人工言語の文法まで作り上げておく.その上で,第2の文法書を公開しつつメッセージの送り手に与え,送り手はその文法を用いて平文を暗号化し,受け手へ送信する.そして,受け手は,この暗号文を,(第2ではなく)第1の文法書に従って読み解く.この暗号文は,第2の文法で符号化されているにもかかわらず,決して第2の文法によっては復号化できないという奇妙な性質をもっているのである.
 通常の言語コミュニケーションの感覚に慣れていると,この非対称鍵暗号によるコミュニケーションの仕組みは実に奇妙だ.しかし,まさに通常の言語の常識を破ったからこそ,非対称鍵の発明は暗号学史上の快挙としてみなされているのだろう.

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