少し前の話になるが,今年度前期の最後の授業で,英語史の授業への感想を募った.一人の学生の所見にいたく感銘を受けたので,紹介したい.
最初は"英語史"というものが漠然.としていて,なんとなく英語のたどってきた道をやるのかなー思っていましたが,実際に回を重ねるごとに,"英語"がたどってきた道ではなく,"英語"になってゆく過程を学ぶ分野だとわかるようになったし,同時に興味を持ちました.
この発想,この英語史観には感激した.ものごとの見方には何らかの前提が含まれているもので,その前提の差を考えてみるとおもしろい.
「英語がたどってきた道」というと,今現在,英語という完成された華々しい世界言語があり,そのサクセスストーリーを鑑賞しましょう,という含みがある.いや,それは読み込みすぎかもしれないが,歴史を語るに値する言語としての現代英語の世界における地位が強調されているように感じる.また,昔から英語は英語であったといった前提も含まれているように思える.
それに対して,「英語になってゆく過程」というと,そもそも英語は英語ではなかったという発想が前提にある.そして,それは正しい.言語発達のどの段階から英語と呼ぶかは,言語的には決定できないからである.英語史における大問題がさらっと前提として含まれているのが,この発想のにくい点である.
もう一つ,含みとしておもしろいのは,今もまだ英語は英語になっていないかもしれない,そもそも英語とは何なのだという究極の問いをも誘う点である.必然的に,英語の過去のみならず,英語の未来をも射程に含めた表現になっている.
こんな比喩はどうだろうか.英語史は,フィルムに収められた過去の事実が,現在という名の映写機を通じて,未来というスクリーンに投射される,いわば映画館のようなものである.この比喩でいうと,英語という言語は,映写される光そのものであり,本来それ自身は決まった形も色も明度もない,可変的なものである.それを決めるのは,映写機を操作する人の位置であり角度でありレンズの絞り具合のみである.そして,映画が映されるカラクリを知ることが英語史を学ぶことに相当し,カラクリを知ったうえで映写機を上手に操作できるようになることが,自分なりの英語(史)観を持つということにほかならない.
「英語になってゆく過程」に感銘を受けたため,いささか深読みしすぎたかもしれないが,実際にはもっと過激に,「まだ英語は英語になっていないかもしれない」あるいは「英語はいつまでだっても英語にならないかもしれない」という発想だってありうる.こうなると英語とは何なのかよく分からなくなるが,結局は現在における視点(=映写機操作手の立ち位置)がすべてを決めるということになるのではないだろうか.
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