hellog〜英語史ブログ

#38. 「たそがれ」の比較語源学[etymology]

2009-06-05

 以前,「虹」の語源を取り上げた[2009-05-10-1].そのとき,複数の言語で対応する語の語源を比べると,様々な発想があって興味深いという話をした.この「比較語源学」について多少の反響があったので,今回はその第二弾として「たそがれ」を取り上げたい.
 まず英語から見てみよう.夕刻の暗くなり始める時間帯のことを,英語では twilight という.この語の成り立ちは単純で,two + light である.夕焼けの赤と夕闇の黒,この二色の光が解け合う時間帯がまさにたそがれ時である.
 two の部分は,あるいは between と解釈するほうがイメージがつかみやすいかもしれない.between は本来 by two である.「二つの点のそば」が原義であり,すなわち「二つの点の間」ということになる.このイメージでいけば twilight は光から闇へ移り変わる中間の刻ということになる.
 次に中国語での発想を教えてくれるものとして漢字を取り上げよう.たそがれは漢字では「黄昏」と書く.「黄」は明るい光の意であり,「昏」は暗い光の意である(「昏睡状態」とは意識が真っ暗な状態のことである).こうしてみると,発想は英語と同じ「二つの光」が混ざりあう視覚的なイメージである.英語にしても漢字にしても,たそがれ時のイメージが彷彿としてくる,なかなかに映像的な語源である.
 だが,虹の記事で触れたとおり,語源というものにはもっとドラマ性が欲しい.そして,ドラマ性という観点から味わい深いのは,圧倒的に日本語(和語)の「たそがれ」である.
 「たそがれ」とはすなわち「誰そ彼」である.辺りが暗くなりだし,それまで判別できた人々の顔が薄暗くなってくる.そこで「あの人はどなたでしょう」と尋ねたい気分になる.街灯もないその昔,向かいからやってくる人が誰であるか判然としないとき,ふと口をついて「誰そ彼」とつぶやいたことだろう.夕刻となり,家路を急ぐ人々が行き交い「誰そ彼」とつぶやく,そんな時間帯がたそがれ時なのである.
 ちなみに,日本語には「たそがれ時」の別の言い方として「かわたれ時」という表現もある.「かわたれ」とは「彼は誰」であり,「誰そ彼」とまったく同じ発想である.
 前回の「虹」については,英語や日本語よりも中国語(漢字)のほうがドラマ性があり,発想が豊かであると論じた.今回の「たそがれ」はどうだろうか.twilight や「黄昏」の映像性もいいかもしれないが,人の生活感の感じられる日本語の語源に,私は強く惹かれる.読者のご意見はいかに?

Referrer (Inside): [2011-04-17-1]

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