ハーラン・エリスン「死の鳥」書評

[ハーラン・エリスンについて]
1934年、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランドに生まれる. 幼い頃から破天荒な性格で、オハイオ州立大学に入学するも、文筆の才能が無いと罵った教授を殴り、わずか18ヵ月で退学となる。1955年頃から小説を書き始め、それからの2年間で100以上の短篇を書き上げる。1962年にロサンジェルスに移住したのを機にテレビドラマの台本を書き始め、スタートレックなどの台本を手がけて一躍有名となる。『「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった』がネビュラ賞とヒューゴー賞を受賞し、続いて『俺には口が無い、それでもおれは叫ぶ』で1968年のヒューゴー賞を獲得。その後も良質な作品を生み出しつづけ、合計でヒューゴー賞には10と1/2回、ネビュラ賞には3回、ローカス賞には18回かがやいている。本作「死の鳥」もヒューゴー賞とローカス賞の二冠を達成している。

かつて、スペキュラティブ・フィクションと呼ばれる作品群があった。これらの作品は、クラークやアシモフに代表される古典的な"分かりやすい"SFを脱して、文学的な深みのある何かを志向するものであった。エリスンはこの潮流の旗手であり、そして本作『死の鳥』はそのエリスンの代表作である。

この作品の筋自体はそれほど難しくない。舞台は25万年後の死に瀕した地球。実は聖書に記されている神とは狂った異星人であり、イブを欺いた蛇こそが賢明なる異星人だったのだ。この狂える神は人々を欺き、世界を蝕み、地球を死の淵に追いやった。もはや手遅れの地球を安楽死させるため、かの賢明なる蛇はアダムの生まれ変わりを神のもとへと導き、神の正体を見破らせる。そして地球は死の鳥の翼につつまれ、死を迎える。

本作を難解にしているのは、作品の所々に挿入されているテストだ。この作品にはまるで国語の長文読解のような抽象的問題が20問ばかり含まれている。いくつか例を挙げよう。『四、なぜ「主」(LORD)という語はつねに大文字で表わされるのか?なぜ「神」(God)の語頭は大文字なのか?「蛇」(serpent)の語頭もまた大文字にすべきではないのか?すべきでないとすれば、なぜか?』[2]『1 神とは、 A長いひげを生やした、目に見えぬ霊。 B穴の中に死んで横たわる小さな犬。 C各人。 Dオズの魔法使い。』[3]などなど。

エリスンがこの設問を設けた意図は不明だが、冒頭の『これはテストだ。そのつもりで。』[3]という言葉をまじめに受け止めるなら私たちは試されていることになる。この点では、かの劇作家ブレヒトの作品に近いものがある。ブレヒトは『ガリレイの生涯』の覚え書きにおいて『観客がつねに共感しながら感情同化し、ガリレイと喜怒哀楽をともにすることを狙ったりしてはならない。むしろ観客に、びっくりしたり、批判したり、よく考えてみたりする態度がとれるようにしてやらなければならない。』[4]と述べている。主人公に感情移入しないで、客観的に熟考し、劇で示された状況に自らの評価を下すことを観客に要求しているのだ。エリスンもまた、試験問題という実験的手法を通して、この作品が提示する深遠なる問題を一歩引いた立場から考えることを私たちに求めているのかもしれない。

だが、私たちはもはやこの見方を無批判に受け入れることはできない。そもそも、スペキュラティブ・フィクションの目指した深みとは何だったのだろうか?ソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』が思い出される。ソーカルは"難解で深遠"だったはずのポストモダン(の少なくとも一部)が見かけ倒しのインチキであったことを"実証"した。スペキュラティブ・フィクションからも同じにおいがしないか?凡庸な作品を薄っぺらい哲学ともったいぶった言葉遣いで華々しく飾り立てているだけではないのだろうか?この作品も曖昧なメタファーでごまかしているだけの薄っぺらなものではないか?

この判断は本作を読んでから各々が下してほしい。本作は今では入手困難になってしまったが、S-Fマガジンの1990年10月号か1975年の10月号、あるいは講談社文庫の『世界SF対象傑作選 7』(絶版)に収録されている。評者としては、スペキュラティブという言葉に見合うだけの内容があると信じたい。しかし、そう信じるにはあまりにもこころもとないのだ。

[1] ハーラン・エリスン, 死の鳥, 伊藤典男訳, SFマガジン1900年10月号, p530
[2] 同p547
[3] 同p527
[4] ベルトルト・ブレヒト, ガリレイの生涯, 岩淵達治訳, 岩波書店, 1983年, p236


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