論文の訂正など(2012123日)

(1)137

誤)「元来は中国古代の制度であるが、中国では早くに意味を持たなくなったのに対して」

正)「元来は中国古代の制度であるが、早くに意味を持たなくなった。その後、明代になって洪武帝の礼制改革において復活した。」

(2)221

15世紀段階の記述については史料批判に不十分なところが見られるので、早急に再検討したい。

誤)「黎朝中興(1556年)」

正)「黎朝中興(1533年)」 *蓮田隆志氏の御指摘による。

(2)の232ページ

誤)「排出する」→正)「輩出する」

誤)明命二〇年(1841)→正)明命二〇年(1839

2)の236

冒頭3行目の訂正・補足

誤)裴迪吉と裴晟→正)裴迪吉

18世紀段階の裴姓の科挙合格者については、裴輝族のローマ字家譜は、Bui Huy Chiが郷貢(のちの挙人)に合格したと記している。裴允族家譜は裴耀が生徒に合格したことを記録している。」

(2)の249頁の註24

伝承では、老婦人は阮功茂の病気を次のように治したという。民間信仰と混交した仏教実践の様子がうかがえる。

「外邪為祟、二年薬不能痊、窮而奉請法門。沛郡公七十老夫人、女巫纔一擲而癒。公以徳報徳、入于禅云。」

(2)の表の訂正→一番下参照

(2)の252頁

誤)『慶應義塾大学言語文化研究所』→正)『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』

(3)230

誤)「8.総内各社村の堤防…/9.総内各社村の堤防…」

正)「8.総内各社村の田畔…/9.総内各社村の田畔・田坡…」

(3)221頁及び226227頁註3

誤)「陽柳総」「陽柳社」

正)「楊柳総」「楊柳社」

(3)223

誤)「大馮総は進士はおろか挙人すら出していない」

正)「大馮総は、1882年に一人の進士を輩出したのみである(秋桂社の謝文幹。この人物以外は誰も挙人にすら合格していない)。」

(3)224225頁(Nguyen Thi Oanh氏の指摘による)

誤)「多用力」→正)「能用力」

誤)「標捍量度」→正)「標牌量度」

誤)「寔如一色」→正)「寔如一邑」

(3)227

誤)「陽柳社は、大馮総同様、一人の挙人も出していない」

正)「楊柳社は、二人の挙人を輩出したのみである」

(3)についてその他

・15世紀段階に「総」単位が存在した可能性に就いては、以下を参照
Dinh Khac Thuan.1996."Don vi hanh chinh "tong" xuat hien tu khi nao?"Tap Chi Han Nom. 29. pp.21-23.
Dinh Khac Thuan. 2005."Ve don vi hanh chinh "tong" o Viet Nam."NCLS.344.
Yu, Insun, 2001, "The Changing Nature of the Red River Delta Villages during the Le Perod(1428-1788)," Journal of Southeast Asian Studies32(2): pp.151-172.

・19世紀段階に大馮総が新たな郷約を制定していることをNguyen Thi Oanh氏から指摘された。

(4)111

誤)「閲選と呼ばれる一種の国勢調査の毎に村方で行われる課士法」

正)「年二回地方で行われる課士法」

4)の114

「村で最初の挙人」と書いたが、18世紀段階に、後の挙人にあたる郷貢に合格した人物がいるので、この記述は適切ではない。「阮朝期の科挙において」という限定が必要である。

その後に来る「十八世紀以来・・・わけである」も正しくない。「一八〜一九世紀に二人の挙人(郷貢)しか出していないが、その背景として一場、二場、秀才クラスの「知識人」が存在したことを忘れてはならない。」くらいか。

(5)287頁(誤植、新たに出荷されたものでは訂正済み)

誤)「はじめにーシャムにおける対中交易の発展と華人勢力の台頭」

正)「はじめに」

(5)288

誤)「黄五服」

正)「黄五福」

(5)290

誤)「統治権を返還した(名目的には全土の統治権が返還されたが、実質的には黎朝は北河のみ統治)」

正)「統治権を返還した」*(…)を削除

(5)290頁その2

誤)「黎朝紹統帝と結んで」

正)「復活した鄭氏を倒し黎朝昭統帝を抑えて」

(5)291

誤)「紹統帝は中国へ逃亡」

正)「昭統帝はハノイを逃れ皇族を広西へ避難させ」

(5)296

誤)「紹統帝」

正)「昭統帝」

(5)302頁の註2

誤)「皇二子暘」⇒正)「皇二子(阮福暎の父)」

誤)「暘」⇒正)「皇二子」

(5)309頁の註7の補足

「一統」は、同時代的な理解としては、中央における単独の王統による一元的支配の確立を意味したと見られるが、本論では、地方における独立的権力の否定という意味も含めて用いている。

(5)pp.294-295の補足。

その後のチャムとタイソン及びグエン・フック・アインとの関係については、19世紀チャム研究の「古典」であるポー・ダルマの研究を参照されたい。
Po Dharma. 1987. Le Panduranga(Campa) 1802-1835. Tome I. Paris. Pp.72-74.

(5)pp.308-309の注(6)の補足

タイソン及びグエン・フック・アインとラオスの関係について、次のような論文が出ている。
Tran Van Quy.2002.
The Quy Hop Archive: Vietnamese-Lao Relations Reflected in Border-Post Documents Dating from 1619 to 1880.Mayoury Ngaosrivathana ed. Breaking New Ground in Lao History. Chiang Mai.
Kennon Breazeale. 2002.
The Lao-Tayson Alliance, 1792 and 1793. Ibid.

これらの論文によると楽凡はナコンパトムである。

その後のラオス方面との関係については:
Mayoury and Pheuiphanh Ngaosrivathana. 2001. Vietnamese Source Materials concerning The 1827 Conflict between the Court of Siam and the Lao Principalities Vol.I&II. Tokyo.

(6)34

「終身専業の兵士を前提とする阮朝と「寓兵於農」の考え方に基づく北部社会の軍隊観の齟齬が窺える。」
 この記述はまったく誤りである。
 阮朝の軍隊は上班・下班などの交代制であり、下班は村に帰って待機する。つまり、「寓兵於農」である。これに南北の差はない。
 また、ルロによれば、兵役期間10年で村に戻ると人頭税が半額になり、20年だと全額免除になるという。また、士官になると好きなだけ兵役に残ることができた[Luro 180]。
 ここで重要なのは北部村落が兵役期間を独自に設定しようとしている点であり、この点では南北の差が認められると考える。
 この問題についてはより深い再検討が必要である。

阮朝の軍事力について語るのであれば、阮朝成立以前から嘉隆期まで力を持ち続けた、南部出身の有力武人の軍事集団について述べるべきであった。また、有事に動員されるボランタリーな軍事力(「郷勇」)についても検討すべきであった。

(6)の補足1

丁簿、地簿については、Luro. 1878.Le Pays dAnnam. Pari. Chapitre VII Les Impotsの記述にも言及すべきであった。

外籍民・漏民について。

国家の人丁税、兵役、徭役を賦課するための丁簿の登録から漏れている者を「外籍ngoaitich民」「漏民/dan lau」と呼ぶ(これに対して丁簿に登録された住民は「内籍noi tich民」「簿民/dan bo」と呼ぶ)が、この論文でこの問題について説明していないので、ここで少しだけ補っておきたい。
 オリー(Ory. 1894. La commune au Tonkin. Paris.pp.26-31.)によれば、ベトナムの村では二重帳簿を作っており、村の帳簿(so hang xaso hang thon)の登録者の4分の1しか国家向けの丁簿には登録されなかった(もっと少ない場合もあった)。もっともオリーの観察は具体的な地点が不明であり、また、軍事平定後の状況であることには注意が必要であろう。
  北部を観察したオリーは、漏民の原因を、村請の国家負担を減らすための村の戦略とみているのに対して、南部を観察したルロ(Luro. 1878. Le pays dAnnam: Etude sur organisayion politique et siciale. Paris. Pp.173-180.)やシュレーネ(Schreiner. 1900. Les institution Annamites an Basse Cochinchine avant la conquete Francaise. Tome2.Saigon. pp.17-20.)は、税負担に耐え切れない貧民とくに新たに村に移住してきたものを村の「漏民」とし、庇護を与えるとともに村の仕事を負担させたとする。また、〈有力者〉の利己的な動機での「隠漏」を強調する議論もある(Vu Hong Quan.1994."Nha Nguyen voi Van De Quan Ly Nong Thon o The Ky 19." In Phan Dai Doan & Nguyen Quang Ngoc ed. 1994. Kinh Nghiem To Chuc Quan Ly Nong Thon Viet Nam Trong Lich Su. Ha Noi. P112)。
  また、植民地化後の1898年には、「外籍民」への課税が開始されるが、税額は「内籍民」が2.5ピアストルであるのに対して、「外籍民」が0.4ピアストルであった(Brocheux & Hemery. 1994. Indochine: La colonization ambigue 1858-1954. Paris. P.94.)。この事に関するファン・ケ・ビンの記述では、「外籍民」を「村内の財産を持たない貧困者」としている(Phan Ke Binh. Viet Nam Phong Tuc.)。1920年には、外籍民も登録され、「内籍民」と「外籍民」の区別はなくなる(Brocheux & Hemery. 1994. p102)。
 実際は三つの要因(村請の税額の軽減、貧困者の区別、「有力者」による隠匿)がケース・バイ・ケースで比重を異にしながら働いているのではないかと思う。なお、北部の村落では新来者はしばしば数年間村に居住しないと村の正式の成員権を与えられなかった。村の成員権が与えられた後でも生活が安定しないうちは丁簿に登録しないこともあったのではなかろうか?また、18世紀以降に大量に現れた流民層に対して阮朝は、税金や兵役・徭役などの一 定期間の免除措置を以って帰還を促したが、一定の猶予期間のうちに村に戻って土地 を回復することができなかった者と外籍民の連関を考えることもできるかもしれない。
  また、ルロやシュレーネは、国家は「簿民」しか把握・動員し得なかったとしているが、実際には、阮朝は漏民の処罰規定を定めて「漏民」の把握につとめるとともに、本稿で示したように、「外籍民」を直接動員する場合もあり、また、疫病の際にはその死者数を把握している場合も見られる。
  本稿で、阮朝では丁簿の人数(税負担者数)は増やすことはできても減らすことができないことになっていたという点を述べた。シュレーネは、「漏民」は欠員を順次補充してゆくための人員のプールとして機能したと述べている。

以下の小文も参照。
「ベトナム史からのコメント」『韓国朝鮮の文化と社会』3(風響社、2004年)

(6)の補足2

この論文の大きな難点は、阮朝と西欧(特にキリスト教勢力)との関係についての記述が手薄なことである。最近、いろいろ研究が出ているので挙げておく。
Nguyen The Anh. 2003.
Traditional Vietnams Incorpolation of External Cultural and Technical Contributions: Ambivalence and Ambiguity.”『東南アジア研究』40-4.
Federic Mantienne. 2003.
The Transfer of Western Military Technology to Vietnam in the Late Eighteenth and Early Nineteenth Centuries; The Case of Nguyen. JSEAS.34-3.
Nola Cooke. 2004.
Early Nineteenth-Century Vietnamese Catholics and Others in the Pages of the Annales de la Propagation de la Foi. JSEAS.35-2.
Jacob Ramsay. 2004.
Extortion and Exploitation in the Nguyen Campaign against Catholicism in 1830s-1840s Vietnam. JSEAS.35-2.

阮朝のキリスト教については牧野元紀が精力的に研究を進めている。また。Ramsayが単行本を刊行している(2008年)。

(6)の補足3

その他。

下州公務などの外洋公務について:
Salmon, Claudine & Ta Trong Hiep. 1994.
Lemissaire vietnamien Cao Ba Quat(1809-1854) et sa prise de conscience dans les Contrees meridionales. BEFEO. 81.
Nguyen The Anh, 1999.
Trade Relations between Vietnam and the Countries of the Southern Seas in the First Half of the 19th Century. Nguyen The Anh, Yoshiaki Ishizawa eds. Commerce et navigation en Asie du Sud-Est XIVe-XIXe siecle. Paris.
Phan Huy Chu.(Phan Huy Le, Salmon and Ta Trong Hiep trans. and eds.).Hai Trinh Chi Luoc. (Paris: Cahier d'Archipel25, 1994)
(未見)

明命帝の南部統合については最近次の本が出た。南部出身の有力武人の軍事集団の性格についても詳しい。そのほかにも多くの興味深い重要な指摘がなされている。
Choi Byung Wook. 2004. Southern Vietnam under the Reign of Minh Mang(1820-1841): Central Policies and Local Response. Ithaca.

(7)の補足

最近のチャールー村の研究として:
Nguyen Quang Ha. 2004.
Cu dan Tra Lu trong cac the ky Xv-XIX. NCLS.337.

8)の171

2003年にNguyen Thi Chan Quynh女史が『Khoa Cu Viet Nam: Quyen Thuong, Thi Huong』という科挙に関する著作を著し、「19世紀の科挙教育において南史・国史が存在しなかった」という見解に対して、強く反対している(pp.105-109)。確かに、彼女の示している資料から科挙において国史に関わる問題が出題された可能性は十分推測できる(『国朝郷科録』巻316b-17aに引かれた嗣徳3年の郷試の規定には「其有問及國史世務、須用典寔」とある)。しかし、それらの資料を見ても、あくまで副次的なものと位置づけられているようであり、19世紀の北史偏重という事実認識に変更は不要と思われる。(彼女の史料引用はやや恣意的であり、例えば、ベトナム科挙における南史出題を示すために彼女の引用する『大南寔録』の記事(第二紀、巻1864b-5b)は、むしろ明命年間において南史の出題が時期尚早として斥けられたことを示している)。
また、彼女は、チュオン・ヴィン・キーがローマ字化した初等教科書『初学問津國語演歌』(1884年)の中で、北史と対等に南史が教えられていることを指摘している。この本のもとになった『初学問津』については、ズオン・クアン・ハム(Viet Nam Van Hoc Du Yeu)、ウッドサイド、ポワッソン(下記)などが言及しており、漢文チューノム研究所の目録(Di San Han Nom Viet Nam - Thu Muc De Yeu)にもその書名が見える。漢文チューノム研究所の目録によると、この本には、1874年と1882年の版本があり、内容的には「北史(盤古時代から道光帝時代まで)と南史(キンズオンヴオン時代からザーロン帝時代まで)を教える初級レベルの教科書である。各行は漢字4字からなり、みなチューノム訳が付されている」。また、ズオン・クアン・ハムによると、第一部の中国史は130行、第二部のベトナム史は64行である。私は現物を見ていないが、科挙レベルの知識とはかなり距離があるのは確かであろう。ポワッソンは、特に典拠は記さずに、Dang Huy Truが編者であるとしているが、他は作者名を挙げていない。ウッドサイドは19世紀前半からこのテキストが普及していたとみなしているようであるが、根拠は挙げていない。

誤)「1887年にはラオス、カンボジアを併せてフランス領インドシナが形成された。」
正)「1887年にはトンキン、アンナン、コーチシナ、カンボジアを併せてフランス領インドシナ連邦が形成された。ラオスは1893年にフランスの植民地となり、1899年にフランス領インドシナ連邦に組み込まれた。」

(8)の補足

ポワッソンが、ベトナム阮朝の官僚制度に関する重要で浩瀚な研究を公刊した。
Poisson,E. 2004. Mandarins et subalternes au nord du Viet Nam: Une bureaucratie a l'epreuve (1820-1918). Maisonneuve et Larose.
特に 胥吏層の問題について初めて本格的に検討したものとして注目される。その他、 科挙制度や官人のキャリアの問題などの種々の問題について実証的に検討している。
この研究から『大越史約』『中学越史節要』出版の背景について次のことを知った。
1898
年にフエ朝廷は、科挙改革と平行して、教科書の改訂に着手した。その中心となったのが、楊林、杜文心、段展などであった。さらに、1907-08年にトンキン理事官ポールボが、新しい公教育の教科書作成に着手するが、このときの漢字教科書の担当者も杜文心、段展らであった(pp.97-98.)。このとき作られた漢字教科書には次のようなものがあった(PP.190-192.)。
『幼学漢字新書』
『小学國史略編』
『小学四書節略』
『中学五経撮要』
『中学越史編年撮要』
同時にクオックグーの教科書も作られている。

ポワッソンの研究は、19世紀のハノイ(とくにホアンキエム湖一帯)およびナムディン(とくに行善)の学問の状況や師弟関係を中心とする人脈について触れていて大変興味深い。ダン・スアン・バンについても重要なポイントを指摘している。彼は、故郷に帰って学校を開き、商工業の近代化の主張を、地元の学校で展開したという。そのため、その学統から近代化を志向する官人が育っていった。儒教的な古典的な素養を身につけ、かつ、近代化を志向し、かつ、道徳的な善導のために扶鸞をも利用する(ダオ・ズイ・アインの回想記参照)という多面的なダン・スアン・バンのイメージを持つことができる(pp.128-137)

また、チャン・チョン・キムに関する最近の議論として:
McHale, S. 2002.
Mapping a Vietnamese Confucian Past and Its Transition to Modernity. in Rethinking Confucianism. Los Angeles.
この議論を含む著書も出版された。
McHale, S. 2004. Print and Power: Confucianism, Communism, and Buddhism in the Making of Modern Vietnam. Hawaii.

(9)の結論

誤)「乂安省瓊瑠県完厚社において、」

正)「乂安省瓊瑠県完厚社出身の」

(10)の126ページ(蓮田隆志氏のご指摘による)

誤)「夢中随筆」

正)「雨中随筆」

(10)の139ページの註9

勘違いではなかった。大越史記続編や欽定越史通鑑綱目にはその記述はないが、以下の論考に、景興年間に教化47条のチューノム表記によるベトナム語訳が出されているということが記されている(のをすっかり忘れていた)。Le Huu Muc.1971 "Dan nhap." Huan Dich Thap Dieu. p92. Phan Dai Doan & Nguyen Van Khanh.1992. "Chu 'hieu' trong quan hegia dinh, lang xa nguoi Viet truyen thong." Tap chi Da Toc Hoc 2). p.7.

(11)の補足

この公開講座の話をしたときは未読であったので、参考文献には挙げなかったが、クオンデの生涯については次の研究書が重要である。

Tran My Van, A Vietnamese Royal Exile in Japan: Prince Cuong De (1882-1951), Routledge, 2005.

第一章のグエン朝の皇位継承問題については見解を異にする。

私の報告では、アルベール・サロー総督への手紙について「本心かどうかわからない」としているが、Tran My Vanは、日本からの追放、光復会の過激化と弾圧などにより、よるべのなくなったクオンデは、ひとつの選択肢として、真剣にフランスとの提携を考えたのであろうと指摘している。Vanの意見の方が適切であろう。それに加えて、光復会における共和派の優勢、とくに盟友チャウの共和派への転向は、クオンデの孤独感を倍増させたのではないかと推測する。

また、日仏共同統治の時代にクオンデを首班とする政府の実現のために、ベトナム国内で、ゴ・ディン・ジエムやカオダイ教の人々が、クオンデ支持の日本人らとともに骨を折ったことにも本報告において言及しておけばよかった。Tran My Vanの本には詳しく記述されている。

クオンデ以外のことであるが、Tran My Vanの本から次のことを知った。日本の降伏直後、ドゴールには、レジスタンスに参加したズイタンをベトナムの元首に復帰させようという構想があった。

ズイタン(ヴィンサン)の最後については以下を参照。

Dao Hung."Nhung ngay cuoi cung cua Vinh San."Tap Chi Xua & Nay 289.2007.

(11)の366ページ中ほど

琉球王国の運命について言及がないのは、重大な手落ちと言えよう。

(11)の402ページ

最近の研究では、ゴ・ディン・ジエムはアメリカの国際的支援で権力を握ったわけではなく、ゴ・ディン・ニューを中心とする一族の国内的運動によってのし上がったことが論じられている。Edward Miller. 2008."Vision, Power, and Agency: The Ascent of Ngo Dinh Diem, 1945-1954." M.P. Bradley & M. B. Young eds.Making Sense of the Vietnam Wars: Local, National, and Transnational Perspectives. Oxford University Press.

(11)の403ページ

「1905年にベトナムを離れてから一度も帰国することなく」は誤り。本文中の後段に言及しているとおり、1913年に一度コーチシナに戻っている。これが最後のベトナム滞在である。このときも故郷のフエには戻っていない。

(11)の405ページの後ろから2行目

誤)「一九一二年から一五年にかけて」

正)「一九一三年から一四年にかけて」

(13)の143ページの7行目から8行目

誤)「Cのタイプ」

正)「Bのタイプ」

(13)の144ページの引用文献

誤)竹田龍児.1972

正)竹田龍児.1962

本文中の[竹田 1972][竹田 1962]の誤り。

(14)の5455ページ

一つ大事なことを完全に失念していた。19世紀段階において、阮朝の宮廷の図書館は書院の名で呼ばれていた。『大南寔録』を見ると、明命年間には「清和書院」の名が出てくるし(第一紀巻1、21a)、嗣徳9年(1856年)夏4月には、「聚奎書院」が作られている(第四紀巻14、37ab)。図書館を意味する現代ベトナム語のthu vienの起源は、これらの用法に求められるのではあるまいか。

大西和彦さんから、ハティンの羅山に福江書院という学校があったことを教えられた。

(14)の56ページ9行目

誤)李朝の太祖

正)李朝の聖宗・仁宗

(14)の62ページ註5の補足

孔子以下の中国の諸聖人、すなわち先聖を祭る場合もある。

(17)の103頁、136

誤)Lessereteur

正)Lesserteur

本論文執筆後に、未見であったLesserteur, Pere. 1885. Le rituel domestique des funerailles en Annam. Paris :Imp.Chaix. を入手。ぱらぱらめくってみたところ、『寿梅家礼』原本の単なる翻訳でないことは明らかであった。近刊論文参照。

(17)の104頁、137頁註6

誤)永祐5年(1737)年

正)永佑51739)年

(17)の116頁

誤)「棺を引く時」

正)「死者に哀悼の意を表することを口実として」

(17)の125頁

「声霊」というチューノムは「thinh linh」(不意に)を表す。当該箇所の訳は「生気が残っているうちにぱっと捉える」くらいか。この箇所の注は削除。

と思いましたら、これも誤りで、ハノイ大学ハンノム学科のグエン・トゥアン・クオン先生に「声霊」は「thieng lieng」(神聖な、霊験あらたかな)という意味だと教えられました。訳は「生気が残っているうちなら霊験がある」でしょうか。「この箇所の注は削除。」はイキ。

(17)英訳近刊。とくに「4.2 招呼と魂帛」は大きく書き換えた。

(21)当該分野の古典であるKennon Breazeal&Snit Smukarn. 1988. A Culture in Search of Survival : The Phuan of Thailand and Laos.には既に次のことが書かれているのに、この原稿執筆時には気がつかなかった。

1.三〓(同の上に山)=鎮靖府が、Bang Fai川のMaha Chaiを中心とする盆地一帯であること(p.35)
2.楽辺府はナコーンパノムの対岸に新たに作られた都市のKhaek Landingであること(p.13)
3."Nine Tiem Towns"が甘露九州であるならば、それはBang Hien川の盆地であること(p.35)

(21)その他の補足訂正

4.哀牢営は嘉隆14年(1815)に哀牢道に改められた(『大南寔録正編』第一紀巻509a
5.「結びにかえて」で、鎮靖府は職貢を供する単位のままで課税単位に改められなかったと記したが、少し遅れて明命12年(1831)に課税単位に改められている((『大南寔録正編』第二紀巻7120b-21a

(27)チャン・ニュン・トゥエットの議論に引きずられて、「地方的影響力の商品化」などと書いているが、自由市場での売買ではなく、特定の主体間で「政治的」交渉による「契約」であるので「商品化」と呼ぶのは不適当であろう。白石昌也先生のコメントにより気がついた。

(30)の補足

この論文は、ミルトン・オズボーンの下記の論文におけるチュオン・ヴィン・キー評価への異論という側面を持つものであるが、急いで書いたためにそのことに言及するのを忘れてしまった。オズボーンは、チュオン・ヴィン・キーがベトナムの伝統と決別したと見るが、私は過去の伝統との関係を重視している。

Milton Osborne. 1970.”Truong Vinh Ky and Phan Thanh Gian; The Problem of a Nationalist Interpretation of 19th Century Vietnamese History.”The Journal of Asian History 30-1.

また、論文執筆中に参照できなかったため、Chuyến Đi Bắc Kỳの下記の英訳に触れなかったが、脱稿直後にネットの古書店から入手できた。

Trương Vĩnh Ký(P.J.Honey ed.& tr.),1982. Voyage To Tonking in the Year Ất-Hợi (1876). London: SOAS, University of London.

昨年12月にNguyễn Đình Đầu氏の下記のチュオン・ヴィン・キー研究が出版されたが、すぐに「発禁」(?)になったようである。いまのところ詳細は不明。

Nguyễn Đình Đầu. 2016. Petrus Ký: Nỗi Oan Thế Kỷ. Ha Nội: Nhà Xuất bản Trí thức.

(30)292頁の補足

「「万国山海地球輿地全図」なる怪しげな世界図」及び「「地球万国山海輿地略図」という怪しげな世界図」はいずれも長久保赤水の「地球万国山海輿地全図説」をかなり変形した模倣図である。

(2)241頁表3の訂正版

第一支,第八代,第九代,第十代,第十一代

Huy[輝],2,2,9,44

Van[文],22,19,35,26

その他,16,11,2,3

第二支第一派第二派,,,,

Huy,16,45,75,119

Van,1,0,0,1

その他,2,2,11,18

第二支第三派,,,,

Huy,2,10,20,28

Van,17,13,9,11

その他,3,1,2,0

第二支第四派,,,,

Huy,40,50,79,138

Van,11,10,2,2

その他,0,7,8,6

総計,,,,

Huy,60,107,182,320

Van,51,42,46,40

その他,19,21,23,27

,130,170,251,387

構成比,,,,

Huy,46%,63%,73%,83%

Van,39%,25%,18%,10%

その他,15%,12%,9%,7%

,100%,100%,100%,100%