「今、スポーツをどう捉えるか」

ラジオNIKKEI 慶應義塾の時間に出演しました
(2009年3月6日、13日、20日、27日 10:00-10:30PM)

@スポーツのなりたち
A体育とスポーツ
B身体知とは何か?
Cスポーツ文化の未来

以上のテーマでスポーツの捉え方を考えてみました。
例えば、人類はいつからスポーツをしていたのでしょうか?
体育とスポーツはどのように違うのでしょうか?同じなのでしょうか?
21世紀にスポーツはどのように変わっていくのでしょうか?
スポーツはもはや我々の生活に欠かすことのできない文化になっています。
スポーツの見方、関わり方を考えて、健やかで楽しい生活を目指したいものです。

以下の要約が、通信教育部補助教材の「三色旗」7月号に掲載されました。2009.7月 736号P12-21

今,スポーツをどう捉えるか

村山光義

 「スポーツ」は現代の我々の日常に様々な形で溢れています。テレビや新聞からは毎日スポーツの話題が伝えられ,我々は一喜一憂しています。また,街角ではウォーキング,ジョギング,ゲートボールをする人,スポーツクラブやテニススクールに通う人,海でサーフィン,山で登山・スキー,と人々のスポーツ行動はその形態もフィールドも多様です。しかし,スポーツは今の我々にとって単に「娯楽」の一部なのでしょうか?スポーツはその語源からいえば「遊び」の文化なのですが,教育である体育と深く関わっているとともに,健康の保持・増進の手段としても利用されます。また,スポーツにみられる高い運動技能は人類の努力により生まれ,伝承されながら我々の「身体」の発展にも繋がっていると考えられます。つまり,スポーツの文化には人々の生活を豊かにする要素が数多くあるのです。今回はこうしたスポーツと人間の関わりについて考えてみたいと思います。

スポーツの発祥はイギリスか?

人類はいつからスポーツをしていたのでしょうか?そもそもスポーツとはどんなものでしょうか?現代の我々は,オリンピックやワールドカップに代表される競技種目をスポーツと捉えるのが一般的でしょう。しかし,スポーツを定義することは容易ではありません。例えば,ベルナール・ジレによれば,“スポーツは「激しい肉体活動」「遊戯性」「闘争」が含まれた営み”とされ,単に競技種目のみを意味してはいません.スポーツという言葉は,ラテン語の「デポルターレdeportare」が語源とされ,イギリスに渡って,16世紀頃に「disport」から「sport」になったとされています.このデポルターレとは「心をいやな状態から移す」「気分を転じる」「遊ぶ,楽しむ」などの意味を持っていました。特に当時のイギリスでは貴族が「狩り」をして遊ぶことを指して使われていたようです。この遊び方を意味したsportが,18世紀になるとサッカー,クリケット等々の競技種目を総称する言葉,つまり,sportの複数形のsportsとして使用されるようになります。この時期に,各国に広がりをみせたルールの統一された運動競技,すなわちスポーツを「近代スポーツ」と呼ぶことがあります。この近代スポーツは,1896年,フランスのクーベルタンによって復活するオリンピックによって世界的に定着していきます。教育学者であったクーベルタンは,イギリスのパブリックスクールを視察し,慶應義塾の創始者である福沢先生と同様に,スポーツ教育による人間形成に感銘を受けます(パブリックスクールとスポーツの関係は後に述べます)。そして,オリンピックの復興を唱えました。このようにイギリスが近代スポーツの発祥に大きな役割をもったと言われます。

しかしながら,イギリスを中心とした近代スポーツの発祥からだけでは,スポーツ文化は捉えきれません。スポーツと人類の関係はもっと深いものがあるのです。例えば,運動競技が18世紀まで存在しなかったのではありません。近代スポーツのモデルであるギリシャの古代オリンピアの時代から運動競技は行われていました。現在の陸上競技やレスリングなどです。またそれ以前の古代にも,すでにボクシングやフェンシングのような競技がありました。これは,古代の壁画や出土品などに描かれた絵などから知ることができます。つまり,「スポーツ」という言葉が生まれる前から,今で言う「スポーツらしきもの」は存在しました。古く,狩猟時代には,直接獲物を取り押さえることから,やがて物を投げ当てて捕まえるなど,生きてゆくために,体力や運動技能を獲得・発展させることが大変重要であったことでしょう。そうした日常的な身体活動は,文明社会において神に近づく宗教的儀式・儀礼として伝承されていきます。古代オリンピアの祭典も宗教的儀式と言われ,競技の優勝者はオリンポスの神々に最も近い美しい者として讃えられました。身体能力を競い合う「スポーツらしき文化」は人類の誕生とともに始まったといえます。また格闘的・闘争的な身体ばかりではなく,宗教的な儀式に由来する様々な民族の舞踊や音楽も人類の身体運動の文化と捉えられます。人々の身体表現である「ダンス」の方がむしろ古くから存在した「スポーツ」といえるかもしれません。このように,世界中の民族の身体的儀礼や舞踊などの生活文化,いわば”遊び“の文化が各種スポーツの起源であることは多くの文化人類学的研究が明らかにしています。ヨハン・ホイジンガは「遊びが文化の前にあり,ヒトは遊ぶ存在,すなわちホモ・ルーデンスである」といい,「人間は何よりまず遊ぶ存在であり,人間の文化は遊びの中で遊びとして発生し発展してきた」と述べています。文化は遊びの形式の中で形成されてきたのであり,従って,イギリスにおいて狩猟を代名詞とした遊び文化がスポーツと呼ばれていたことは,人類の歴史において必然的なことであり,「スポーツ」の本質を示していると私は考えます。

原点回帰するスポーツの変遷

近代スポーツの誕生においては産業革命と市民革命を経て,それまでの伝統的なスポーツ,つまり「遊び」を再編するという側面もありました。民衆にとって健全な娯楽が求められ,その土着性や祝祭性を排除し,産業化・規格化の方向に向かってルールを統一した新たなスポーツが発展したのでした。また,市民革命により,国防の中心が貴族から市民へと移ると,国家・民族の結束が求められ,スポーツが国家秩序の形成のために活用されました。20世紀の大戦,冷戦時代には,スポーツはナショナリズムと強い結びつきを持ったのでした。もともと,クーベルタンの提唱したオリンピックは,アマチュアスポーツマンの祭典として勝利よりも参加,また勝利よりも戦うこと自体の意義を世に示すもので,何より青少年の健全な育成と世界平和を願うものでありました。この理念は「オリンピズム」と呼ばれ,様々なオリンピックムーブメントを展開しています。実はオリンピック競技会自体もそのムーブメントの一つにすぎないのです。しかしながら,近代オリンピックはそうした純粋なオリンピックムーブメントだけでは解釈できないほど膨張してしまったことも事実です。

しかし, こうした近代スポーツの記録第一主義,勝利至上主義に対し,競争原理一辺倒のスポーツ文化だけでなく,それ以外の共生原理に基づくスポーツが志向され始めます。1967年メキシコ五輪時に開催された国際スポーツ体育会議では「スポーツ宣言」が採択され,「スポーツをする万人の権利」が述べられました.また,1975年ヨーロッパ会議に属する諸国のスポーツ担当大臣会議で採択されたSports for All憲章においても,スポーツをすることは人間の基本的な権利であり,国家もこれを保障し,その振興に積極的に努めることが求められました.この憲章によるスポーツの振興は「みんなのスポーツ運動」と呼ばれ,世界的な規模でスポーツの発展のための重要な指針となっています.そして,21世紀を迎えた現在,スポーツがあふれる社会づくりが進み,チャンピオンスポーツのみならず,レクリエーションスポーツが拡大しています。近年では,パラリンピックもオリンピック同様に注目されています。このことからも,やはりスポーツとは競争以外に遊びや自己実現という性格を内在していることが示され,現代はその原点回帰の時期といえるかもしれません。

体育とスポーツは同じか?

 体育とスポーツはどのように違うのでしょうか?どちらも同じだと捉えている方が多いのではないでしょうか。体育は身体に関わる教育を指します。体育は教える者と教わる者が存在して成り立つ関係概念で捉えられるものです.それは,学校の教科に限らず,広く社会の中でも成り立つものです。一方,スポーツはそれ自体が自立的構造を持つ実体概念であり,社会に現象として現れるものです.スポーツは遊びや気晴らしであったのですから,基本的に自発的で自由な活動といえます。このように,体育は教え教わるという対面性のある活動で,スポーツ種目やスポーツ現象を「教材」として教育を行う時,体育と成り得るわけです.つまり,スポーツを通じた,スポーツを用いた教育が体育となり,そこには学びの構造があるはずなのです。

体育は身体の教育として,歴史的に多くの国で重視されて来ました。その1例が,イギリスのパブリックスクールにおけるチームスポーツを中心としたスポーツ教育活動です。パブリックスクールとは私立の全寮制中等教育機関であり,イギリスにおけるエリート教育の場でありました。その教育体制は近代の世界的モデルとなったといわれ,福沢諭吉先生もパブリックスクールの教育に感銘を受け,義塾という言葉にパブリックスクールの意味を込め,慶應義塾を開いたといわれています。このパブリックスクールの教育改革は,スポーツの教育的機能を重視した「アスレティシズム」ともいわれ,強靭な身体の育成のみならず,勇敢な心,忠誠心,正義感の育成にスポーツが役立つとされたのでした。またフェアプレイの精神やリーダーシップとメンバーシップの能力をチームスポーツすなわち,フットボールやクリケットといったゲームの実践から身につけていくものでした。このアスレティシズムは,逞しいキリスト教徒の育成やジェントルマンの育成として1つのイデオロギーのように推進されていったといわれています。

また同時期に,ドイツを中心とした体操による体育がヨーロッパ大陸に広がりました。「近代体育の創始者」とよばれるドイツのグーツムーツは当時の子ども達の虚弱な身体状況を身体鍛錬によって改善する体育教育の必要性を説き,特にギリシャ的な体育指導を行いました。次にヤーンが体育活動を自国語の「ツルネン」と呼び,青少年に対する祖国解放のための道徳的・身体的能力を養わせる国民教育として展開しました.つまり,身体が顕著にナショナリズムの対象と捉えられたともいえます。その後,ヤーンのツルネンは器械体操の発展を促し,体操を中核とした近代体育を広めることとなりました。また,スウェーデンではリングが「スウェーデン体操」を体系づけました。その内容は,医学や解剖・生理学を加味し,身体組織の機能や法則に基づいた運動をするもので,合理的体操とも呼ばれました.このスウェーデン体操はその後多くの後継者によって発展し,デンマークで「デンマーク体操」を生み,日本にも紹介され,身体教育すなわち体育に大きな影響を与えたのでした.こうしたことから,わが国における体育は,教科として長く「体操」とよばれていました。これと同時に,明治の初期には多くの近代スポーツが紹介されます。すでに明治14年には小学校の体操指導にスポーツを用いることが記されています。ただし,スポーツという言葉はまだ定着してはおらず,「遊戯」と呼ばれていました。わが国でスポーツという言葉が一般に普及したのは大正時代と言われています。いずれにせよ,身体教育をする文化を輸入した我が国では,体操という教育における教材としての遊戯,いいかえると体育において用いるスポーツと,自発的にスポーツを行うことが大変混同される結果となったのです。

以上のように,体育とは心身の健全な発達やアスレティシズムに代表される人間形成を目指した教育として,体操やゲームを教材にして行われてきた歴史があります。その中で,肉体と精神の鍛錬が時に厳しいスパルタ教育のように行われたり,もっと端的には軍事訓練のように戦闘を目指すものに近づいたりすることも,幾度かの戦争とともに繰り返されてきました。こうしてみると,体育には,一歩間違えればファシズム的な国民統制の手段となる危険性が内在しているのかもしれません。わが国でも,第二次時対戦中には体錬という教科において軍事目的の体育が行われました。これは,人間の身体というものが,長い歴史の中で社会的機能を持たされてきたことを意味しています。身体を鍛えること,身体を統制することは公私を問わず,人間社会の発展に関わって来ているのです。ここで,我々は人々の身体というものが医学や体育のみならず,哲学や政治・社会学,ひいては文学のような分野でも大変重要な対象であることを認識すべきです。そして,こうした,身体をもった人間と直接関係性を持つ体育という営みは永続的なものであり,今再び真剣に捉え直していく必要を感じるところです。

身体知とは何だろう?

身体知とは「からだ」の知,身体の持つ英知を意味するものです。この身体知は,スポーツや体育の中でとても重要なものと考えられます。我々は,言葉ではうまく説明できないけれども,わかる,わかってしまうという経験をします。マイケル・ポラニーという学者がこのことを「我々は語ることが出来るより,多くのことを知ることが出来る」と述べました。つまり,ヒトには言葉で説明できない事象を「わかる・認識する」能力があり,これを言語知に対して暗黙知という概念で示しました.こうした暗黙知は経験知とも呼ばれ,身体知もこの概念で捉えられるものです。例えば日頃,自転車に乗ったり,ネクタイを結んだりするような「身体に継起的運動パターンとして記憶されている知のこと」であり,「深い考えもなしに」合目的的に行動することが出来る能力を指しています。特に,芸術やスポーツの分野などで技能とよばれるものはすべてこの身体知として捉えられます。このため,やや運動能力に限定的なイメージを与えますが,私は,身体知を暗黙知の広がりと同様に捉えています。ポラニーも,「知的であろうと,実践的であろうと,外界についての知識にとって,その究極的な装置は我々の身体である。外界の物事に注目するためには,いつもそれらと我々の身体との接触について感知することに依拠している。」といっています。つまり,暗黙的に知ることの出発点は我々の身体であるということです。

こうした,身体知を科学的手法によって解明する試みがあります。例えば,スポーツや楽器の演奏動作を,映像を用いた動作解析,モーションキャプチャーという手法で3次元的に再現し,身体の各関節の動きから,複雑な動作のタイミングのずれや,角度や速度の変化などを細かく分析します。また,筋肉が活動する際に生じる放電を記録した筋電図を同時に記録する手法もあります。筋電図は,脳からの命令や脊髄の反射など,身体の中で筋肉を制御している情報と関係があり,スポーツ科学ばかりでなく,人の動きに近いロボット開発等にも応用されています。脳からのあるプログラムによって人の運動や動作をコントロールするのですから,やがて,我々の身体の動きは人工的な知能やロボットの制御プログラムのようなものによって再現され,代用できるようになるかもしれません。事実,リハビリテーションの分野で,身体の機能を機械的に置き換えることが可能になりつつあります。

21世紀の学びと身体知

しかし,一方で,身体知を理解する上では,こうした外面からのアプローチだけでは不十分であるという考えもあります。身体知研究の第一人者である金子明友氏は,身体知とはもっと人の内面に存在するものとして捉える必要があるといっています。金子氏は,身体知とは,「新しい出来事に対して適切に判断し解決できる身体の知恵」だといいます。ここには,生命を持つ自己の身体への認識があるといいます。つまり,物質的・機械的身体ではない,動きつつ感じ,感じつつ動いている生命的身体をとらえる必要があります。これに基づき,どうすれば,ある動作ができるようになるか,これをその対象者にどうしたら伝えられるのかを考える時,教え教わるシステムとしての学び,すなわち体育が生まれるのです。例えば,人間を機械のようにとらえ,動作解析や筋電図の解析を行った結果,物質的な運動メカニズムを外面的に解明しても,その動き方はロボットにしか発生させられないかもしれません。我々は,意思や感情を持ち,生命的身体を持った存在なのです。自分の内面から自分の身体を意識し,自分の身体を感じ,うまくいくコツをつかむこの営みは,その本人自身の生命的エネルギーが不可欠です。我々指導者は,そうした個々の身体の変化を,運動の熟達者,かつてその過程を踏んできた伝達者として,ともに感じ取って共鳴する必要がある。これこそが,今体育と体育指導者に必要なことであるはずです。

現代のようなバーチャルな時代にこそ,我々は自らの“身体”を実感する必要が生じます.なぜなら,生きていることの基盤として“身体”があり続けるからです。あふれる情報にふれて,書物を読んで,マニュアルを熟知して,実体験する前から「わかった」「できる」と思ったり,または,やる前から「むりだ」「つまらない」と投げ出したりしてしまったら,何も変化はありません。わかったような気持ちになっても,次の日には何のことなのか忘れてしまうことの方が多いのです。やってみれば,案外簡単だったり,とても面白いかもしれないことが世の中には溢れています。苦労したり悩んだ後に答えが分かったり,成功の体験が得られたものこそ「身につく」,からだに備わるものとなるはずです。体育という営みはその大きな助けとなるはずです。このように身体知というのは,これからの学び中でとても重要なものであると考えています。

スポーツ文化の未来

2008年の北京オリンピックの陸上競技,100m競走で,ジャマイカのウサイン・ボルト選手が969という驚異的な世界新記録を樹立しました。196cmの長身であるボルト選手は走る技術もさることながら,大型選手としてのパワーとストライドを兼ね備えているわけです。我々はこうした人類の運動能力,肉体の極限への挑戦に期待を持ち,時に大きな驚きと感動を得ています。このような人類の挑戦として闘争性・競争性のある競技スポーツは,21世紀も絶えることなく進んでいくでしょう。

一方,こうしたチャンピオンスポーツでは,しばしば勝利至上主義ともいえる行き過ぎが問題となります。例えば,ドーピング問題です。多くの場合,ドーピングは選手を取り巻く周辺の問題だといえます。選手達は1つのチームのように周囲から多くのサポートを受けながらトレーニングをしています。こうした組織的な動きの中にドーピングという罠が潜んでいると思われます。チームとしてのモラルの問題なのだと私は思います。ただ,選手強化のためのコーチやドクターらの科学的サポートも,もはやスポーツ文化の一部です。こうしたサポートチームが選手強化に不可欠な時代になっています。もちろんドーピングはいけないことですが,記録向上のためにトレーニング以外にも食事・栄養の管理やメンタル面のケアをしていくことは,選手1人ではなかなかうまくいかないものなのです。

北京オリンピックの水泳競技では,ハイテクによる水着が記録の向上に寄与するとして話題となりました。日本の北島選手が契約していないメーカーの「レーザーレーサー」を着て金メダルを獲得しました。実際には,ハイテク水着の機能と記録との因果関係は証明されていませんが,スポーツ用品のメーカーは,用具の機能向上に莫大な費用をかけて開発競争をし,選手のサポートをしています。こうした科学技術によって記録が向上することや,費用面の補助が受けられる一部の選手のみがそうした恩恵を受けることを「ハイテクドーピング」とよび問題視する声もあります。しかし,チャンピオンスポーツに限らず,こうしたスポーツをする人をサポートする仕組みは商業主義的な経済効果という副産物をもって,21世紀に益々発展するでしょう。実は,我々一般のレクレーショナルなスポーツの愛好家は,こうしたトップ選手のために開発された用具・用品を頂点とした商品のピラミッドの中で,商品を選び,利用しているのです。我々は,遊びを志向し,気晴らしでスポーツをしているのですが,知らず知らずの内にそうした商品を媒介にして,そのスポーツや選手への憧れを持って,実践しているともいえるのです。これもスポーツ文化であり,我々がそうした行動を日々伝承している事に気づくべきです。

また,媒介といえば,忘れてはならないのが,スポーツを我々の日常に浸透させているメディアです。特に多くの人々が,まずはテレビの放映によってスポーツの情報を受け入れているといえます。今や,プロやアマチュアを問わず,スポーツ選手が芸能人やタレントのように扱われています。国際舞台に出て行く選手は同時に,メディアによってその期待と話題を伝えるスターとして,宣伝のための役割をも担わされています。これは,情報化社会が招いた結果であり,ある意味,社会の中にスポーツが大きな影響を与え,また健全な社会の発展にスポーツが利用されている証です。現在,レクリエーショナルな遊び文化としてスポーツはその裾野を広げていますが,その多くが競技スポーツを頂点とした情報システムの中に取り込まれているといえるでしょう。我々もメディアを通じて,現代スポーツの文化性をよく理解するとともに,そこに映し出されている選手や情報を,ある時は自分を高めるためにプラスに感じ取り,またある時は冷静に見極めながら,スポーツを自分の生活の中に生かすことが,大変重要になるでしょう。

最後に,スポーツはしなければならないものではありません。でも観るだけのものでもありません。スポーツは人間の遊び欲求が様々なレベルで伝承されてきた文化でした。その欲求はやはり,我々の身体から生じています。身体に技や能力を備えること,すなわち身体知の獲得は人間成長の基本であり,自己実現のよい目標となります。そのために実体験することがとても重要です。チャンピオンスポーツからレクリエーショナルスポーツまで,どのレベルを目指してもいいのです。ただ,そこに自分の心と体というものが関係していることを意識するべきでしょう。その身体性を感じ取るのは皆さん一人ひとりです。今,スポーツをどう捉えるか,その答えは皆さんの身体の中にあるかもしれません。そして,この話題をきっかけに,スポーツに取り組む人が増えていけばより嬉しいことです。



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