それでも私は生き残る

                    加藤 万里子(慶応義塾大学理工学部、天文学)

  「女の子なのに物理なんて」とこれまで何度言われたことだろうか。女で損をしたと
思ったことはないが、女性であるがために波瀾万丈の生き方を強いられたのは
間違いない。

  はじめは自己との戦いだった。中学高校は女子校で、良妻賢母教育の雰囲気に反発
して、友達といっしょに学校に逆らってばかりいた。あまり良い生徒ではなかったと
思うが、自我の確立期に反抗はつきもの。「女の子」の生き方にさからうことで、
私の人生の基本方針が堅実なものになったのだと思う。大学に入って物理がとても
面白くなり、研究者になりたいと願うようになったが、その頃はまだ、「女の子」と
物理が結びつかなかった。男ばかりのクラスの中でどう振舞ってよいかわからなかっ
たから、とりあえず女の部分を殺して周囲に同化して暮らした。自分の容姿がぱっと
しないのは、心から親に感謝した。必要以上に男が寄ってこないし、「かわいい
お嫁さん」を期待されないのは楽だ。

進化する自画像(画:加藤万里子) 拡大版

  その頃の服装はイラストの通り、年がら年中ジーパンにサハリジャケット、ぼさ
ぼさ頭で通した。化粧っ気は全くなく、スカートは年に数えるほど。キャンパスでは
白衣をジャケットがわりにしていたっけ。大学院生になると、朝から晩まで研究室の
机の前に座りずめの生活になり、スカート姿に変わる。研究室ではあいかわらず
女扱いはされないのに、天文学の会合でよそへ行くと、とっても女の子扱いされる
のが妙な気分だった(天文分野では当時とにかく女性がめずらしかった)。


  結婚したら女性は就職に不利だと思っていたので、つき合っている相手がいること
は極秘にする。同じゼミで議論する仲間なのに誰も知らない時期が続く。遠距離恋愛
でオーバードクター4年目に結婚、すぐ妊娠。おなかの大きな私を冷たい目で見て
いた人もいたと聞いたが、全く気がつかなかった。出産時のお産の痛みは、とうてい
男性には耐えられないだろうと思ったら、妙に自信がつき居直った。そして赤や
黄色のセーターも着られるようになった。ここから得た教訓は -- 痛い思いをすると
パワーアップする-- である。

  結婚当初、学会で会う人ごとに、別居のまま結婚し姓も変えませんと伝えると、
なぜ?どうして?と言われる時代だった。「別居はいかん」と善意に諭してくれる
人もいた。「姓を変えないのは迷惑です」と言い切った他大学の先生もいたが、何故
メーワクなのか、いまだにわからない。学会で出会う人は百人単位。いちいち説明
するのは面倒でプレッシャーのようなもの。でも私の次に結婚する女性は楽である。
前例があれば説明しなくても済む。なんでもパイオニアは大変なのだと身を
もって知る。これって、学問でも同じだけど。

  大きなお腹で面接をうけて慶應大学に就職。あんなに心配していたのに、いざ就職
してみたら、子育て中の先生も沢山いるし、旧姓も普通だし、別居結婚もめずらしく
なかった。あるとき食堂で同じテーブルにいた教員が4人とも別居中だったという
こともある。なんだ天文の分野が狭いだけだったのか、とわかる(教訓:情報交換で
肩の力をぬこう)。

  今では別姓も研究者としてごく自然のこととなり、旧姓を使うなんて自己主張が
強いと揶揄されることもなくなった。でもここに至るまでには、いろんな人がいろん
な形で戦ってきたのだ。その結果、旧姓を大学で使うことについてようやく文科省の
正式に認めるところとなる。ここでの教訓は、一人で戦ってかなわないことも、
みんなでやれば前進する -- 戦わずして成果なし。

  話は変わるが、私が担当する講義のクラスに全盲の学生が入ってきたことが
きっかけで、天文の点字教材を開発したことがある。そのとき学んだことは、
人間にはすばらしい能力があり、目がみえなくても、たいていのことは出来ること。
また目が見えないことよりも、周囲の人が(無知のために)恐がって近付かず、こんな
ことはできないだろうと勝手に思い込むことの方が、障害になるのではないかと
思えること。これって女性研究者問題と根は同じ。この経験を通じて、多くのことを
学び、人間ってすばらしいと再認識して元気ももらった。

  こどもが小さいころは、とにかく時間がなく、夕方のお迎えの時間に追われて、
コピーをとりにいく時なども廊下はいつも走っていた。子育てが楽になり、さあ研究
できると思った40代。セクシュアル・ハラスメントにあって、7年間も落ち込んだ。
フラッシュバックや睡眠障害で、体力も気力も落ち、研究はうわの空。研究者として
貴重な40代を失った犠牲はとても大きい。セクシュアル・ハラスメントの怖いとこ
ろは、研究者としての一生がだいなしになる上に、周囲から拒絶されて孤立するこ
とだ。男女を問わず味方はごくわずか。被害を言いたてた後で、私は教授への昇格を
4年つづけて拒否されている。拒否の理由は「業績以外の理由」。どんなに研究・
教育の業績をあげても昇格審査には影響せず、狭い範囲の人間関係が問題に
される。主任が交替しただけで3日のうちに拒否の理由が180度変わったこともある。
精神と体調の回復には長い時間がかかり、8年目の現在は歩くのが不自由で杖を
ついている。それでも思考能力や集中力はようやく回復してきたので、研究者と
して生き残る自信も出てきた。被害にあっても生きのびられるのだ、ということを
全国の被害者に訴えたい。

  この数年、日本でも学問の世界に深刻なセクハラ被害が沢山あることは認知される
ようにはなったが、解決への道は遠い。異質なものを排除する体質が解決をはばんで
いるように思える。私の経験から得たことは、いつも筋を通すこと、きちんと
発言していくこと、一人で乗り越えられないこともみんなで力をあわせれば前進
させることができることである。最後に被害を経験した人たちと話した時の
メッセージをお伝えする。「いろいろな困難を乗り越えたので、自分に自信がつき、
パワーがわいた。困難を経験したからこそ豊かな人生がある。前よりも確実に
パワーアップした。このパワーはこれからの研究に生きる!」

(おわり)(注:引用する場合には印刷版をご使用下さい)