天文用語と女性差別

以下の3つの文章は、天文月報に出た記事に"処女彗星"を使ったものがあり、
それについて投稿したものです。なかなか受理されず3回目にやっと載りました。
なお、天文月報とは、日本天文学会発行の月刊冊子です。
 
          これに関連した記事は 1993 年4月号 p.178,
                             7月号 p.315  にもあります


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(第1回投稿のボツ原稿)
天文用語と女性差別

前略 天文月報編集部 様
 最近の天文月報はとても読みやすく、親しみやすくなりました。私が84年に
ある先生の教科書の書評を書いたときには批判がきつすぎるということで原稿を
修正させられたことを思いだし、時の流れを感じます。
 さて、やわらかい表現は歓迎なのですが、最近、気になったことがあります。
それは93年1月号のEUREKAの記事にある、処女彗星という言葉の使い方
です。読み物としては面白いものなのですが、ロマンチックな話のなかで
「処女」が乱発されているのを読むのは非常に不愉快でした。私が著者の大学院生
だったらセクハラで訴えているところでしょう。編集部の見解をお聞きしたいの
です。
 この文中の「処女」は英語の用語をそのまま翻訳しただけだと思います。原語
そのものもどうかと思うのですが、男性優位のキリスト教文化の感覚はわたしに
はわからないので、日本語についてだけ言います。
 日本では「処女」は、家制度の社会のなかで娘をなるべく高値で嫁がせるための
方策としてもてはやされ、いったんその家に嫁いだら、その家の家風に完全に
染まることが求められていた時代の産物です。日常生活では「処女」は人間の
おんなの意味以外にはほとんど使われないと思います。登山では「処女峰」と
いいますが、(原語の意味は知りませんが、少なくとも日本語では)「けがれて
いない山を自分のものにする」といういやな連想のある言葉です。「処女彗星」
にいたっては、「処女である時とそうでない時とでは、性質が変わる」という、
下品な意味でも上品な意味でもナンセンスきわまりない男社会の神話からきた
意味で使っているようですね。
 おそらく大部分の読者には、どこがセクハラなのか理解できないと思われる
ので、ヒントを書いておきます。
(1)最近の新聞記事では、働く女性の1/3が「なんで結婚しないの」と
会社で聞かれて不愉快だと答えています。働く環境を悪化させる言動はセクハラ
になります。
(2)たとえば、暗黒星雲のことを黒ちゃん、主系列星を白ちゃんと言ったと
しましょう。黒人の同僚研究者のまえで、あなたは「黒ちゃんが進化して
白ちゃんになる」とくりかえして100回言えますか?
                         加藤万里子(慶応大)


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(第2回目の投稿原稿ーーボツ)
星空市場への投稿

女性差別と天文用語

 最近、1月号のEUREKAの記事中の「処女彗星」をめぐって天文月報紙上で
議論がみられます。じつはわたしも1月号を読んだ後で投稿したのですが受理され
ませんでした。5月の天文学会年会の折に多数の人の意見を聞いて、「処女」と
いう表現に疑問を持つ人が少なからずいると感じたので、もう一度投稿します。
 論点はつぎの2つです。
(1)「処女彗星」という言葉そのものの是非および学術用語として差別語を
使うことについて。
(2)天文月報の編集部の役割。
 まず(1)について。わたしはこの記事は、読み物としては面白いと思いま
したが、ロマンチックな話のなかで「処女」が乱発されているのを読むのは
非常に不愉快でした。私が著者の大学院生だったらセクハラで訴えるところで
しょう。
 女性差別が日本の社会、日本の天文学者の間にしっかり存在することは議論の
余地はないでしょう。それを感じない男の人がたくさんいるからといって、
問題が存在しないのではありません。
 日本では「処女」は、家制度の社会のなかで娘をなるべく高値で嫁がせるため
の方策としてもてはやされ、いったんその家に嫁いだら、その家の家風に完全に
染まることが求められていた時代の産物です。女性が何かの付属物ではなく、
一人前の人間として存在しようとしている今、こういう言葉がかもし出す
ものは、男にとっての古き良き時代の「ロマンチック」な雰囲気なのでしょう。
でも私にとって「処女」のつく言葉は嫌な言葉です。「処女峰」は「けがれて
いない山を自分のものにする」という、いやな連想のある言葉ですし、ここで
使う「処女彗星」にいたっては、「処女である時とそうでない時とでは、性質が
変わる」という、一人前のおんなから見たらナンセンスきわまりない男社会の
神話の意味で使っているようですよね。
 問題は、このような背景のある言葉を用語として使うことの是非です。地質学
では「処女地」という用語は久しく死語になっているそうです。「処女彗星」も、
女性差別が完全になくなる日まで封印すべきだと思います。
 さて第二の論点は編集部の責任範囲です。6月号に旧編集部の見解として、
天文月報の記事の責任は著者にあり、編集部にはないという意味の文が載り
ました。これは明らかに世間の常識とは反するものです。専門的な内容についての
責任は著者にあるのは明らかですが、それ以外の判断は編集部の責任だと思い
ます。私も数年前に天文月報の編集委員をしましたが、天文月報の性格上、
たとえば、「アインシュタインの相対性理論は間違っている」というような
原著論文を解説ぬきでのせるべきではないと思いますし、「処女彗星」も
載せなかったことでしょう。
 これを機会に天文月報への関心が深まるとよいと思います。
                       加藤万里子(慶応大、神奈川県)


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星空市場への投稿(受理)

「処女」彗星と天文月報編集部の役割について

 93年1月号のEUREKAの記事中の「処女」彗星をめぐって星空市場で
議論がみられます。わたしも2回投稿したのですが受理されませんでした。
天文学会年会の折に多くの人の意見を聞いて考えなおしたので、もう一度
投稿します。
 論点はつぎの2つです。
(1)「処女彗星」という言葉そのものの是非と、それを学術用語として使う
ことについて。
(2)天文月報の編集部の役割。
 まず(1)について。わたしはこの記事は、読み物としては面白いと思い
ましたが、ロマンチックな話のなかで「処女」が乱発されているのを読むのは
非常に不愉快でした。でもそう感じない人も多いと思うので、なぜ不愉快なのか
少し説明します。
 日本の女性差別は世界でも有名です。大臣や社長、学長、教授などに占める
女性の割合の低さを見てもわかるし、各種のアンケートにも表われています。
女性が仕事を続けていくことがいかに大変かは、大部分の男性にはきっと実感
できないと思います。その女性がもし科学者とか教授とか、社長とか、めずら
しい職業につくときのしんどさは想像を絶するものがあります。それを全く
感じない男性がたくさんいるからといって、女性差別が存在しないのではありま
せん。日本の天文学界も例外ではあり得ません。
 日本では「処女」は、家制度の社会のなかで娘をなるべく高値で嫁がせる
ための方策としてもてはやされ、いったんその家に嫁いだら、その家の家風に
完全に染まることが求められていた時代の産物です。女性が何かの付属物では
なく、一人前の人間として存在しようとしている現在では、この言葉は女性の
人格を無視したものとして感じられます。男性むけの週刊誌では「処女」が異常に
もてはやされていて、これは日本の男性の幼稚さを表わすものだと私は思い
ますが、それはともかくとして、男の人にとっては「処女」はロマンチックな
香りがするかもしれません。でもそのロマンとは何でしょうか。それはちょうど、
アメリカ人にとっての「新大陸発見」や西部開拓時代への郷愁に似ていませんか。
コロンブスのアメリカ大陸到達は北アメリカに住んでいた人びとにとっては、
白人による迫害の歴史のはじまりなのです。女であるわたしにとって「処女」の
つく言葉は嫌な言葉です。「処女峰」は「けがれていない山を自分のものにする」
という、いやな連想のある言葉ですし、「処女彗星」にいたっては、「処女で
ある時とそうでない時とでは、性質が変わる」という、女を一人前の人間として
見ていない、ナンセンスな意味で使っているようですよね。
 さて問題は、このような意味のある言葉を用語として使うことの是非です。
女性差別がいまだに強く存在する以上、これらの言葉に傷つく人はたくさん
います。地質学では「処女地」という用語は久しく死語になっているそうです。
「処女彗星」も、ほかの言葉で言い替えればすむことなのだし、女性差別が
完全になくなる日まで封印すべきではないでしょうか。
 さて第二の論点は編集部の責任範囲です。6月号に旧編集部の見解として、
天文月報の記事の責任は著者にあり、編集部にはないという意味の文が載り
ました。これは明らかに世間の常識とは反するものです。雑誌の性格をきめる
のは編集部ではありませんか。個々の記事の専門的な内容についての責任は
著者にあるのは明らかですが、それ以外の判断は編集部の責任だと思います。
 天文月報の性格はここ10年でだいぶ変わりました。以前は難解な学術論文
調のものが多く、教育関係の記事などほとんど載りませんでした。私が1982年に
大学の天文教育の事を投稿した時には、教育の記事をのせる是非について、
だいぶ議論になったと聞いています。いまでは信じられないようなことですね。
わたしが数年前に天文月報の編集委員になった時は、天文教育関係の記事を
充実させるというきも入りで編集委員を選んだ年でした。それはオーバー
ドクター問題によって若手の研究者が否応なしに全国的に散らばり、大学での
教育問題に直面して教育への関心が高まってきたことを反映していると
思います。さらに最近では編集部の努力により月報の記事はぐっと読みやすく、
扱う範囲も広くなりました。このように月報の性格は編集部の方針できまる
のです。表現の自由は著者にある、なんて言わないでどしどし著者とやりあっ
たらよいと思います。

                           加藤万里子(慶応大、神奈川県)

加藤万里子 天文月報 1994年2月号 p.90   www 版
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