蓬茨霊運(ほうし れいうん)先生の思い出

         加藤 万里子(慶応義塾大学)

蓬茨先生は京大の林忠四郎先生の研究室出身である。
林先生の研究室からは、日本を代表する理論天文学
者が輩出していて、天体物理のいろいろな分野で研
究活動をリードしてきた。蓬茨先生はその中で、X
線天文学の研究を展開してきた理論家である。とて
も温厚な方で、久しぶりの女子院生だった私にも、
何でも相談しやすい先生だった。私は修士の一年
の時に、博士課程の先輩たちを前にして「みんなは
勉強の迫力が足りない!」と文句をつけるような生
意気な院生だったので、蓬茨先生は内心ずいぶんあ
きれていたのではないかと思う。博士課程から東大
に入りたいと無理を言って、東大の博士課程の入試
を何十年ぶりかで再開してもらい、見事に落ちたこ
ともあった。また文部省の方針で、D2でも博士論
文が出せるようになったとき、わが身を省みず早速
提出した。この時は全国でもまだ例がないとのこと
で、蓬茨先生から、あんたの博士論文はそれほど大
したものじゃないから、あきらめなさい、と諭され、
1年早く提出はしたものの、実際には通常どおりの
課程博士となった。何かやらかしても指導教授から
怒られない幸せは、若い時代には実感できないもの
なのだとしみじみ思う。

 蓬茨先生はとてもシャイで人格者だった。自分の
感情をそのまま外に出されるようなことは少なかっ
たので、蓬茨先生が何をどう考えているのか、院生
がわかるようになるまでに結構時間がかかった。た
とえば蓬茨先生は、よく金曜日に博士課程の院生だっ
た柴崎徳明さんとテニスをした。でもシャイな先生
は自分から柴崎さんをテニスに誘うことはせず、テ
ニスをしたい時にはたいてい院生室にきて、勉強は
はかどっているか?と私の様子を訊ねるのだった。
そして何となくその辺にとどまっている蓬茨先生の
様子をみて、私の隣の席にいる柴崎さんが「今日は
テニスをしますか?」と誘うと、嬉しそうに「あ」
と頷くのが常だった。

 私の修士論文のテーマとして蓬茨先生から与えら
れたテーマは、クェーサーのエネルギー源について
だった。77年当時は目新しかった巨大ブラックホー
ルモデルで、星が壊れてガスディスクができ、それ
がクェーサーのエネルギー源になるとともに時間変
動も引き起こすモデルだった。私は奇想天外なクエー
サーが気に入ったし、本当にあるかわからない巨大
アクリーションディスクも、自分の性格に合ってい
るようで好きだった。当時は星の内部構造と進化の
研究が一段落し、星からアクリーションディスクへ
テーマを変える人が大勢いた。でもX線星はともか
くとして、まゆつば的な感じがしないでもないクエー
サーのブラックホールモデルに当時いちはやくとり
かかるのは結構勇気がいるものではなかったかと思う。

 蓬茨先生は新しいもの好きだったし結構ものずき
でもあった。たとえばある時、立教大学の正門がバ
リケード封鎖されたことがあった。ヘルメットの学
生達が騒いでいるので、私が院生室から見物に出か
けると、正門のところで蓬茨先生とはちあわせした。
やはりバリ封を見にきていたのだった。またある時、
夕方帰る途中で池袋駅の近くで火事があった。消防
車が何台も来ている。つい野次馬根性を出して見に
いくと群集の中に蓬茨先生の顔があった。この時ば
かりは、お互いに顔を見てニヤっと笑ったのだった。

 蓬茨先生が東大の天文学教室でX線天文学の講義
を担当されたことがあった。蓬茨先生はかなり熱心
に講義の準備をしていらした。東大で講義をするの
を楽しみにしていらしたのだと思う。でもあまりに
シャイな先生は、講義のときに見知らぬ東大の院生
達をまっすぐ見ることは決してせず、教室の窓の外
を見ながら、顔を真横にむけたままの姿勢で話すか、
時には後ろをむいて黒板に向かって話し続けていた。
でも半年の講義が終わり、最終日になって院生ひと
りひとりと成績の相談をした時には、驚いたことに、
「君は毎回出ていたね」「君はあまり出席していな
かったね」と的確に指摘されたので、いったいいつ
学生の方を見ていたのだろうと感歎したのだった。

 蓬茨先生と最後にお会いしたのはIAU京都総会
の時になってしまった。もっといろいろ教わってお
けばよかったと思っている。

         天文月報2000年2月号 (C)日本天文学会