天文月報1998年2月号掲載 バリアフリー天文学ことはじめ 加藤万里子 慶応義塾大学 1。はじめに 銀杏並木の緑が初々しい春の頃、一般教養の履修に迷って新入生が教室をうろうろ しているなかで、目の不自由な学生が天文学を履修したいといっていると教務課で 聞く。次の週、白杖をついて教室に入ってきた彼を前にして、いったいどのように 天文学の授業を行ったらよいのか、突然の展開にびっくりする。彼は法学部の学生で ある。六法全書などはCD-ROMがあり、コンピューターの読み上げソフトで音声出力で きること、一部の図書館には朗読サービスがあること、などを聞く。とりあえずいつ ものように授業を始める。点字でノートをとる彼の様子をみながらゆっくりしゃべ る。理解は早いので、きちんと筋道をたてて話せば特に問題はない。スライドを上映 する時は、天体の形を丁寧に説明する。真っ暗な教室でサクサクサクと点字でノート がとれるのは彼だけである。それにしてもスライドやビデオはどのように使えば よいのか、図はどうしたらよいのだろうか。さらに困ったことは、ほかの学生が みな持っている教科書が彼は使えないことであった。 2。天文の教科書事情 いったい点字の天文学の本はあるのだろうか。あるなら何処に? きっと誰か知っ ているだろうと tennet で情報提供をお願いしたら、多くの人々から少しずつ情報が 集まってきた。点字の本はリクエストにしたがって点訳のボランティアが手分けして 作成するため時間がかかり、またニーズのありそうな本しか点訳されないようで ある。従って大衆受けする本が多い。科学の本はとても少なく、天文学関係も全国で 30冊程度しかないし、その中には『生きた宇宙人がつかまった』というたぐいの本 もまざっている。つまり情報量が圧倒的に少ないこと、正しい知識を得る機会も少な いこと、系統だったきちんとした勉強は難しいことがわかってきた。 高校地学の教科書は点字本があるので、その中の天文分野を読むという手もある。 一般に点字の本は大部になり、コンサイスの英和辞典1冊が点字では100冊に、 高校地学の教科書は7冊にもなっている。点字の本はうっかり積み重ねると点字が つぶれてしまいそうで、扱いに神経を使う。 天文学の本で問題になるのは図や写真である。点字版では図はどうしているのだろう と、高校地学の教科書やアメリカの天文学の点字本(文献1)を興味深くながめた。 これらの本では、図は点字の点をつなげて線を示している。点のサイズはいくつか ある。惑星の軌道や星の内部構造の図のように、線で書ける簡単なものはこれでOK。 銀河もごく単純化したスパイラルなら点の集合でも指先でよみとり可能である。 ただし指先で読みとるので、視覚にうったえる細かい模様は難しいし、図の大きさも 通常の2倍程度には拡大しないと判別しにくい。ふわーっとした美しい星間雲の写真 は残念ながらお手上げである。ただし電波の強度分布を輝度ではなく等高線で書いた ものなら図になる。それにしても黒体輻射のプランク分布の図など、いちおう点字の 図として載ってはいるが、こんなに複雑では、説明してもらわなければ不可能ではな いだろうか。教科書なら教室で先生の説明を聞きながら触ればよいから複雑でもいい のだろうが、自分ひとりで楽しんで読む本では図の説明を詳しく書く必要がありそう だ。 3。インターネットの活用 そうこうするうち、私のにわか勉強で間違いだらけの点字を上達させるより、電子 メイルでやりとりする方が便利だということがわかってきた。彼がパソコンを覚えた からである。音声出力で画面の文字を読み書きするソフトがあり、手紙を書くときの 漢字変換も一字一字読み上げて変換できる。たとえば「應」と「応」の字の違いも 「慶應のオー」「応用のオー」と区別できる。卒業後、社会に出ることを考えると 電子メイルに慣れておいたほうがよいし、こちらも便利だ。レポートの課題や参考 書がわりの文書などは、電子メイルで渡せるようになり、フロッピーも要らなくなっ た。 電子メイルが使えると便利なことのひとつは、情報を自分で探す道が広くなる ことである。tennet をみてメイルをくださった全盲の先生から、ネットサーフィン を楽しんでいると教えていただいた。WWW のページをみるひとつのやりかたは、 みたいURLアドレスを電子メイルで送ると、不要なイメージを取り、リンクを末尾に まとめて電子メイルで送り返してくれるサービス(文献2)を利用することである。そ うすれば電子メイルだけで Web のページをみることが(音声出力で)できる。最近は各 地の天文台や大学の研究室のページが充実してきたから、そこにある天文学の解説記事 をあつめれば、たいそう豊富な天文の資料集となるはずである。 そこでひとつ提案がある。Web page を作るときには、できるだけ不要なかざりは 取り、プレーンテキストをのせて欲しい。きれいな写真やかざりのアイコンは不要だ し、相互リンクがやたらとはってあるのは音声出力したときに実にわずらわしい。 最も単純なただのプレーンテキストが読みやすい。要するに、天文学者が自分で雑誌 などに書いた解説記事をそのまま載せておけば、それが一番便利だし、教材がわりに 使うときも使いやすい。 4。天文学の本を電子出版しよう! 私は講義の内容にそった天文学の点字の本がみつからなかったので、とりあえず 拙著『100億年を翔ける宇宙』の原稿をMS/DOS のプレーンテキストに落として、 フロッピーで与えた。大学にあるパソコンで点字出力をしたり、音声出力で内容を 聞くことができる。補助教材として、天文学会編の学術用語集をプレーンテキスト に落して与えた。これは天文学辞典のかわりになる。図が必要な時には、口頭で説明 したり、レーズライターというつるつるの紙に、ボールペンで書くと線の部分が もりあがるので、それを指でさわってもらいながら説明した。図のキャプションは 私が点字で書き入れた。暮れになってようやく教務課に立体コピーが入ったの で、教科書の図を拡大コピーして使えるようになった。立体コピーは特殊フィルムに ゼロックスすると黒い部分が熱で立体的にもりあがるものである。天体は視覚から 得られる情報がかなり多いため、天文学の勉強には図が書かせないと痛感する。 ところで日本には目の不自由な人が30万人ほどいて、本を読むのに点字を自由 に使いこなせる人はそのうち1割に満たないらしい。中途失明の場合には指先の読み とり速度が遅いため、結局テレビなどに頼ってしまいがちだという。パソコンを使い こなせる人がどのくらいいるかはわからないが、パソコンから点字に出力することは 容易だし、音声出力して聞くとか、さらにそれをテープに取るなど、いろいろな用途 がひらける。また弱視の人の場合には、ディスプレイの字を拡大して読むことも可能 である。 こういった利点から、点字出版より電子出版の方が将来性があるのではと思い、 いっそのこと自分で試してみよう思い立つ。ちょうど『新・100億年を翔ける宇宙 』も改訂が必要な時期にきていたので、改訂版を書くついでにフロッピーディスク版 もつくることにした(文献3)(ここで普通の字は、点字にたいして墨字(すみじ)という) 。つまり墨字の本のほかに、フロッピーディスクと点字の図のセットも出版するわけである 。図の印刷は、特殊なプラスチックを紙の上に載せるものを採用した。この印刷は仕 上がりがとても美しく、耐久性もある。普通の銀河の写真の上に透明なスパイラルを のせてあるものなどは、指で触ってみることもできるし、そのままグラビア写真とし て壁に飾ることもできる。最近は、シャンプー容器のぎざぎざのように、目の不自由 な人にもそうでない人にも両方に役に立つ共用品が街に出回ってきているが、この 電子出版でもそれが可能であるかを実験しつつあるところである。点字の図のデモン ストレーションをしたかったので、墨字の本の末尾にとじこみ付録として、点字の図 を1枚つけた。ぜひご覧いただきたい。 これを機会に電子媒体による天文資料がふえることを願っている。どうせほとんど の人が文章をワープロソフトで書くのだから、雑誌などに記事を書いた時、 Web ページでそれを公開することは文章だけなら手間はかからない。本を書いたときには ついでにフロッピー出版をしよう。あまり学術的な図がたくさんなければこれも十分 可能である。目の不自由な人のためばかりではなく、電子出版が新しい世界を生み、 新しいニーズをひらくかもしれない。米国には目の不自由な天文学者が活躍している し、数学の世界では、歴史に残る数学者を出している。目がみえなかったら天文学は できない、と頭から思い込んでしまうのは、私たちの発想が硬すぎるためではないだ ろうか。 感謝 大胡田誠君が天文学の授業を履修してくれたおかげで、私にとっても世界が開ける 一年を過ごすことができた。経済学部の中野泰志先生および筑波大学付属盲学校の 間々田和彦先生には文献をお借りしたり相談にのっていただいた。また実質的な サポートをしていただいた慶應大学の教務課のみなさん、tennet の呼びかけに応じて 情報提供してくださった方々、あたたかくはげましてくださった多くの方々にお礼を 申し上げたい。 参考文献 (1) Touch the Stars, Noreen Grice, Charles Hayden Planetarium, Boston (2)見たい Web page の URL アドレスを1行だけ含む電子メイルを lynx@fukumo-sfb.fukushima.fukushima.jp に送ると、自動的にそのページが 整理されて電子メイルで返ってくる。イメージは削除、リンクは末尾にまとめて ある。 (3)新版・100億年を翔ける宇宙(新版でB5サイズ)、 加藤万里子著、恒星社 1998年発行。フロッピーディスクと点字の図のセットは別売。 -------------------- (c)日本天文学会