「らしく」とは 若い頃、私は美容院へいくのが苦手だった。学生時代、美容師さんに「学生さんですか。 どこの学部?」と聞かれて、すなおに「物理学科です」と答えてしまい、まるで幽霊でも 見るような顔をされて以来である。大学院を出る頃には「原子物理学専攻です」とか 「理学博士です」とは決して口をすべらせない訓練ができあがっていた。まるでパンダを 見るような扱いはけっして愉快なものではない。大学に勤めるようになってからも、職業を 隠して普通のおばさんでいるほうが人間関係がうまくいく場合が多い。そのほうが、パンダと してではなく私個人を見てもらえるからである。 結婚してからは妻や母親としての行動を期待されることが多くなった。期待にそわない行動を するには、ものすごいエネルギーが必要な上に、またもやパンダか変人扱いをされる。母親は 母親らしく、女の子は女の子らしくという期待にそむくのは、かなり難しい。 数年前、アメリカに子づれで2年間単身赴任したことがある。子供を保育園にあづけて大学で 研究したのだが、日本にいる時よりも精神的にずっと楽だった。まさに、息が楽にできる、と いう感じである。それは母親らしく、女らしく、大学の先生らしくという期待が日本よりずっと 希薄だったからである。 らしく、というのは言い替えれば、子供は子供らしくすなおに明るくがんばり、働く母親は 髪を振り乱してみじめで大変そうに、老人は恋などせずに枯れた人生を送り、サラリーマンは どんなに暑くてもネクタイをし、会社訪問の学生は一目でそれとわかるようにしなければ、 それぞれの場面で受け入れられない、ということである。人間が個人として楽に息ができる社会に するには、どうしたらよいのだろうか。 加藤万里子(慶応義塾大学助教授) 福教懇だより1996年正月号(福岡県教育懇話会発行)