「パリティ」(丸善)2008, 4月号掲載
「ごく普通の」理系世界をめざして

  青い空に白い雲。中世の城塁にあるレンガ造りの研究室。授業も会議も雑事も
なく、研究だけしていればよい世界。今わたしは勤務先の大学から1年間
外国に出る機会をもらい、パドヴァ天文台(イタリア)に滞在している。ここの
人たちは、研究以外に義務がない。うらやましい限りだが、その他にも日本と
違うところがある。パドヴァ天文台や隣接するパドヴァ大学天文学科には、
学生から研究者まで、女性がとても多いのだ。
 

<<「ごく普通」とは?>>

  私は日本では教養科目の「天文学」の講義を担当している。教養の文系の先生
には女性も多いし、文系むけの私のクラスも女性が半数だ。いったんそれに
なじんでしまうと、理系むけのクラスは男子校のような雰囲気で、何か殺伐として
感じられる。教授会も男の世界で、私の所属する学部では教授約140名のうち、ここ
数年、女性はわずか一名か二名である。私は大学時代から女性がほとんどいない
状態には慣れているが、人間の集合形態としては何かおかしい。そんな感じの
違和感をずっと持ちつづけてきた。

  パドヴァ天文台に来て嬉しく思ったのは、私と同世代の女性の天文学者が、同じ
建物に何人もいることだ。日本では天文の女性は若い世代で増えてはいるものの、
50代以上は片手ですぐ数えられるから、全国に散らばっている人と会う機会は
めったにない。ここでは女性が50代で1/3もいるし、2007年度はパーマネント・
ポジションの28%、ポスドクの 69%が女性で、天文学科の学生は10年前に逆転して
今は過半数が女性だ。生物学では女性が全体の平均で半数近い(コラム参照)のを
見て、物理でもきっと半数になる日が来ると確信した。そうなってこそ、物理も
「普通」の世界になる。

  イタリアでも教授になれた女性は非常に少ない。コラムの図にあるように、
女性への昇格差別がみごとに示されている。どんなに論文を書いても昇格できない
のは悔しいだろう。この悔しさはとてもよくわかるが、私はこれをみて、かえって
うらやましかった。日本では人事が各大学の小さな部所ごとに行なわれるために、
女性が採用されない理由は本人の資質にあるとされて、どんなに理不尽な理由で
あっても、闇の中に隠されてしまう。

  女性差別は明確でも、これだけ女性の数が多いと何かが違う。その違いをひとこと
で言えば、「楽に息ができる」のだ。私が苦労したことが、ここでは笑い話になる、
そういった気楽さがある。これだけでは何のことかわからないと思うので、具体的
に私の経験を書いてみよう。


<<最初は大変 -- 別姓・別居結婚>>

  結婚当初、夫は京都大学の助手だったので京都に住み、私はオーバードクター
5年目になるときで、東京の実家にいた。春の天文学会年会で、「結婚しました。
別姓で通します」と周囲に伝えたが、別姓を主張した女は天文では初めて
だったので、出会った男性ほぼ全員に、なぜ別姓にしたいのかを説明する
はめになった。しかもその時、私は非常勤講師をしていただけで定職のない
身分だったので、みんな私が夫のいる京都へ移住すると無条件で思い込む。
別居はいかん、と諭してくれる年配の先生もいた。そんなこんなで「別居・別姓」
結婚を何十人もの人に説明するのはかなり大変だった。はげましてくれる人は
ほとんどいない。何事も前例のないことをするのは大変なのだ。でもそのぶん
2番目の人は楽になる。

  この時もし京都へ移っていたら、私はいつまでも就職できなかったと思う。
だいたい研究や就職の展望もないのに、なぜ私が京都に移らなければならない
のだ?結婚後すぐ妊娠し、9月には大きなお腹で就職の面接を受けて、お正月に
出産し、4月から現在の大学で専任講師となった。いま思うと、出産まぎわの
女を採用できたのは、文系の女性の先生が多い教養だったからだ。定職を得たら、
別居はいかん、別姓は迷惑だという天文学界の声は、(ごく一部を除き)ぱたっと
やんだ。非常勤講師のまま別居すると私のわがままとして非難されるのに、
就職してしまえば、大変ですねと同情してもらえる。


<<出産時の帰国はダメ?>>

  こうして東京と京都の別居結婚がはじまり、すぐ妊娠した。当時は夫が出産の
場に立ち会うのはまだ一般的ではなかったが、二人でラマーズ法の講習会へ
通い、病院も夫の立ち会いを認めるところを選んだ。出産予定日はクリスマス。
でもその4ヵ月前から、夫が2年間米国へポスドクとして行くことになった。
当然、予定日には帰国してお産に立ち会ってもらいたい。アメリカでは夫が
妻の出産時にそばにいるのはとうぜんだし、クリスマスでもあるので、先方では
夫の帰国は当然のことだった。ところが夫の上司である工学部教授が、夫の帰国
には難色を示した。男子たるものひとたび仕事で外国へ出たら、私事で帰国
するなどもってのほか、というのだ。それを何とか説得して(あらかじめ出張
届けの期間を分割して)、帰国がかなった。無事出産後(脚注1)、夫が米国に
いる間は、私が大学の休み(脚注2)のたびに乳児をつれて私費出張した。娘は
保育園にあずけ、私は夫とおなじ天文学教室に客員として滞在して研究した。

(脚注1: 出産予定日がすぎてもお産がはじまる兆候がなく、大晦日になったので
夫がちょっと田舎に帰ったすきに、すぐ生まれてしまった。こんなに苦労して
立ち会い出産に臨んだのに、結局立ち会えなかった。まるで漫才夫婦だ。)

(脚注2:学生にとって講義がない春休みや夏休み、冬休みの期間という意味。
    学生は休みだが、教員は休暇期間ではない。)


<<子どもをつれて単身?赴任>>

  2年すぎて夫が帰国すると、また東京と京都の別居生活になった。新幹線と
電話代にいくら使ったことだろう。そのうち今度は私が大学から外国へでる機会を
もらい、4歳になった娘をつれて2年間米国に出張した。 オーバードクターの
身分で妊娠した時も、子づれ出張のときも、陰では何か言われていたらしいが、
自分ではまったく気がつかなかった。日本にいるときと同様に、米国でも娘は
保育園、私は研究室で日中を過ごす。今度は夫が休みのたびに私費出張で来て
くれることになった。夫も客員として研究室に滞在させてもらう。こうして私たちは
外国にいるときだけはいっしょに生活できた。

  このときの行き先は自分で何か所かに直接手紙を書いて探したが、フルタイムの
客員助教授として雇われたのは幸いだった。この肩書は強力で、保育園を申し
込んだ時には、空き待ちの入園希望者リストを全部とばして、明日からどうぞ、
と言ってもらえた。ポスドクだったらこうはいかない。何事もやるからには
徹底した方が、かえって後々簡単だという私の人生観は、こういう時に裏づけられる。

  米国では母ひとり子ひとりの生活だったから、学会へは子どもを連れて参加
せざるを得ない。行ってみると子づれの参加者も多く、朝夕には親子づれを
たくさん見かける。私は日中はベビーシッターを頼んだが、会場の通路にベビーカー
を置いて聴講している人もいた。この経験が、帰国後に天文学会年会で保育室を
立ち上げることにつながる。(脚注3)

(脚注3:今でこそ年会時に保育室を設置する学会は多いが、前例のないことを
提案し実行するのはけっこう大変だった。天文学会に設置を提案し、ニーズ調査や
意見集約、設置基準と使用規約の作成、反対意見を説得するための論点整理など、
試行錯誤の段階では特にエネルギーがいる。それで天文学会での自分の経験を
まとめて Web に出し(文献1)、他学会での保育室設置をよびかける研究者ネット
ワークも作った。最初の人が経験をまとめて論点を整理して提供しておけば、次の
人はかなり楽になるからだ。)


<<仕事をする人生>>

  私は小さいころから、女も手に職をもて、家庭も仕事も両立すべしという方針で
育てられた。私の父は料理が得意で、自分で材料を買ってきては、いつもおいしい
料理を作ってくれた。父は中国人だったので、もともと別姓は普通のことだし、
法律的に結婚したかどうかにかかわらず、ちゃんとした家庭を作れることも
教えてくれた。こうして考えてみると、私は働く人生を送るための家庭環境に
非常に恵まれていたのだ。そのせいか、これまで私は、自分が専業主婦になる
可能性を一度も考えたことがない。

  私の両親は、勉強することには賛成だが、物理は女の子のすることではないと
思っていたので(脚注4)、私が大学の物理学科へ入る時には猛反対して、うちは
大騒動になった。それでも私が大学院に進む頃になってようやくあきらめた。私が
博士号をとった時は非常に喜んで、じゃあそろそろ結婚してもいいよと言って
くれた。結婚は女の幸せだから、一回は結婚してみなさい、すぐ離婚しても
いいから、というのは母のセリフだった。

(脚注4:私自身も、物理を好きな自分と、世間で言うところの「女らしい」
生き方のギャップが大きすぎて、大学時代、自己形成にはずいぶん悩んだ。)

  人生のパートナーである夫も、私と同じくらい家事も育児もやってきた。
(そうなるまでの長い歴史は省略するけど)。仕事をする女を妻にしたのだから、
仕事も家事もできる夫になるのがあたりまえなのだ。それも「お手伝い」という
レベルではなく、主体的にやらないと、対等のパートナーとはいえない。
同じ精神で、子どもにも小さいうちから家事をさせてきた。うちでは家族全員が
家事をするのは当然のことなのだ。

  ところがこのような私の理想は、世間でいうところの「良い妻」「良い母」からは
だいぶ離れているようだ。何でも子どもにやらせるので、私は「ろくに世話をしない
冷たい母親」とよく言われたし、夫にいたっては「加藤さんとよく結婚していられ
ますね」「いじめられて気の毒に」と実際に何人かから言われた。自分たちで好きな
生き方をして、それで幸せなのだから大きなお世話だ。でもそれも昔の話になった。
最近では、家事のできる男は、男性からも褒められるのだ。



<<研究上の戦略>>

  将来出産などで研究ペースが落ちても研究を続けていくためには、どうしたらよいか。
大学院を出たとき私が考えた戦略は、競争相手の少ない分野で独自の視点を開拓する
ことだった。当時は多くの理論家が「星」から「降着円盤」へと移り、「星」の分野は
手薄になっていた。そこで将来性がありそうだが手のつけられていない分野として、
「新星」を選んだ。星の進化を計算する人は星の内部だけを計算し、表面は単純な
境界条件ですますのが普通だ。一方、星の大気を専門とする人は、大気の部分だけを
解く。私が作ろうとしていた新星の理論は、星の内部と表面をつなげた形になっている。

  私の理論は長いこと認められなかった。30歳前から新星の進化を追う理論を
作りはじめ、90年代には観測と良く合う結果が得られて、新星の光度曲線をはじめて
定量的に研究する道をひらいた。日本には同じ分野の研究者がほとんどいないので、
欧米が相手なのだが、ずっと無視され続けてきた。私の計算方法が主流の進化計算法
ではないためか、東洋人への偏見もあるのかは知らないが、なんにせよ、はじめての
提案は大きな抵抗にあうものだ。

  あの頃は、投稿するそばから査読審査ではねられた。そういう時は居候していた
ゼミで杉本大一郎先生に教わった戦術のとおりに、「戦いは一度ですむように徹底的に
反駁する」。査読レポートに完璧に反論するのはもちろん、レフェリーを推測して、
その人の論理的弱点を突いて反論した。論文より反論の方が長いこともあった。こう
してレフェリーを一人一人説得していくと、しだいに論文への反発が減る。国際会議で
ある人から「あなたの理論はようやく認められるようになったね」と言われたのが
10数年前。その後、いつの間にか分野が近づいて共同研究者になった夫が、私の
新星風理論を連星系の進化に応用して、新しい分野を切り開くが、また大きな抵抗
に遭う。新しい提案をするたびに抵抗にあい、叩かれる。でも新星の光度曲線を計算
できるのは、いまだに世界で私一人だし、新しい分野をひらく面白さはたまらない。


<<カジュアル化は女性の味方>>

  私がオーバードクターの頃、国際会議で発表することを決めた時に、発表の内容
よりも気にかかることは、懇親会のパーティに何を着るかだった。欧米の女性は
背中のあいたロングドレスが普通だった。日本人の私は見劣りせず、かつスーツ
ケースにいれてもシワにならないちりめんのロングスカートが定番だったが、
それに合わせる靴とバッグも必要だし、季節や気温がちょっと違うだけで女の服は
変わる。男の人はネクタイ1本で済んで楽でいいなと何度思ったかしれない。まあ
そのぶん女性は目立つからと、自分をなぐさめたものだ。

  世の中かわる。欧米でも日本でもカジュアル化が進んだ(脚注5)。いまや国際
会議はみんなカジュアルで、パーティでも昼間のセーターにネックレスを追加する
だけですみ、「男の人のネクタイ一本」と同等になった。おかげで荷物も小さくなり、
リュック1つでどこへでも行ける。これは女性にとってかなり便利になったと言える
だろう。

(脚注5:)
カジュアル化が先行したアメリカでも、1960年代に米国留学したドイツ人天文学者は、
イースターのパーティにベルベットのドレスを着ようとして、とがめられたそうだ。
ベルベットは冬向きだから春のお祝いにはそぐわないというわけだ。日本でも
前はかなり服装にうるさかった。私の同僚は理系だが文系学部に所属している。
理系ではごくふつうのスタイルで教授会に出席したら、「そんな八百屋さんに行くような
かっこうで教授会に出て!」と非難された。今はもちろんそんなことはない。


<<家族で外国へ>>

  私の場合、1回目の外国滞在は、こどもが4歳から小学校入学直前までで、夫とは
別々だった。今回は最初の半年間は夫といっしょなので、一人暮らしの老いた母が
心配だったが、大学生の娘にいっしょに住んでもらうことで解決した。口うるさい
おばあちゃんと娘がいっしょに住めるか心配だったが、どうやらうまくやっている。
うちの娘はとりあえず自分のことは自分でできる。「冷たい母親」と言われようが、
こどもの精神的・社会的な自立をうながすのは親の役目だ。だいいちこどもの自立は
親の自由度を左右する。

  大学でも文系の先生には女性が増えた。若い同僚をみていると、長期の外国出張に
子づれや夫婦で行くのはあたりまえになっている。夫婦で同じ大学に勤めているなら
もちろん、大学が違っても、また一方が会社勤務でも、何とか都合をつけていっしょに
行っているようだ。私どものように別々に海外に行くのは時代遅れらしい。まして
妻の出産に帰国するのを反対された話など、いまや笑い話でしかない。


<<さて、そして?>>

  このように、いろいろな障害が解決してきたようにみえるが、これは自然にそうなった
わけではない。たとえば以前は旧姓を使うだけでも、たくさんの(主に)女性が硬直した
大学組織の中で、非常に不愉快で不便な思いをした。文科省が2001年にようやく
別姓使用を認めるまでは、裁判を起こしたり、ネットワークで活動したり、シンポ
ジウムや学術会議の宣言やら、いろいろなレベルで働きかけをした多くの人々の努力が
あったのだ。いま別姓が使えるからといって、これらの苦労話を過去の話にしては
いけない。すべての差別は差別する側に利益があるはず。たかが「研究者が別姓を
使う」というだけのことが、なぜこんなに長い間認められなかったのか、文科省は
女性研究者に別姓使用を禁止することで、何を守ろうとしていたのか、考えてみる
必要があるだろう。


<<楽に息ができる>>

  そろそろわかっていただけたかと思うが、イタリアに来て「息が楽にできる」ように
感じたのは、単に天文学者の女性が多いだけではない。料理が得意な男性はたくさん
いるし、夫婦で同じ天文台に勤めるのもよくあることだし、年配の人も姓が違うのは
あたりまえだしで、私の苦労を笑いとばす世界なのだ。

  それだけではない。女性たちは、昇格差別がこれだけ明確な中で(コラム参照)がん
ばっている自負があるから、とても元気だ。おかしいなと思うことがあったとき、
私が指摘するより早く、他の誰かが抗議してくれるのは、私にとってめずらしい
経験だ。私はがんばらなくてよい二番手の快適さをはじめて味わった。

  更に、ここでは私は研究者として見てもらえること。日本では私と同じ分野の人が
いないので、たとえ私がどんなにすばらしい論文を書いたとしても、学内では
評価されない。それどころか、私はどうも女性差別だセクハラだと口うるさい
だけで、研究をしているとは思われていないようだ(脚注6)。「私にだって論文が
書けるんですよ」「科研費ももらってるんですよ」と折につけて言わないと、回り
まわって白い目で見られるのはわかっているが、この種の自己主張はとても疲れる。
だからおなじ天文学者の中にいるのは楽なのだ。

(脚注6:)単に学部の理系の先生方の雰囲気からだけではなく、たとえば教授会で
    報告される科研費の統計に「教養」の欄がはじめから無いとか、私が学部の
   事務室に研究費の申請について問い合わせると、えっ、教養の先生が研究費なんか
   申請するんですか!?といった反応がある。


<<みんなが目をそらしたいこと>>

  日本の学界でも最近10年間にかなりの変化があった。各学会には保育室もできて、
子どもをもつ母親の存在が公認されるようになったし、文科省も別姓使用を認め、
晴れて公式文書で旧姓が使えるようになった。男女共同参画も奨励され、あたり
さわりのないイベントには予算がつくようになった。

  でもみんなが目をそらしたい事は手つかずのまま残っている。その最大のものが、
就職・昇格差別とセクシュアル・ハラスメントだ。日本でも、大学に勤務する女性は
同じ業績の男性に比べて低い地位にいるが、有効な対策はとれていない。
セクハラはほとんどの学会でまだとりあげることができないでいるが(会員に加害者が
多すぎるから)、日本天文学会の女性研究者調査(文献2)では、「授業料を払っている
のに論文指導がなされない」「休学や退学をした」「死にたいと思った」「進路や
分野を変えた」といった例が報告されている。私自身もセクハラを受けたことを問題に
したため、「業績以外の理由」「(セクハラを主張するなんて)協調性や寛容性がない」
という理由で教授への昇格申請を4回続けて拒否された経験がある。体調も悪化したが、
そのとき何より恐かったのは、歩行困難や激痛ではなく、集中力が低下したために、
研究者として復帰できないかもしれないという恐怖感だった。

  いろいろ書いてきたが、何にせよ女性研究者を学問の場から締め出すような状態を
ほっておくことは、学問にとっての損失である。


<<まとめにかえて>>

  これまでの私の人生は、たたかいの連続だったように思う。学問でも私生活でも、
新しいことを提案するにはエネルギーがいる。娘の世代には、できるならエネルギーを
ぜんぶ仕事にそそげるような社会になっていてほしい。戦いは自分の専門分野だけで
十分だ。それが私が考える「普通の理系世界」である。


文献
略

 (おわり)
 以上は原稿の控えをもとにしたため、校正段階での修正が反映されていません。
引用する場合は、必ず「パリティ」2008年4月号を御覧のうえそちらを引用して下さい。