バーリからマテーラまで電車で1時間40分。駅員さんと親切なおばさんが電車ののり かたや降りる駅を教えてくれる。電車は途中駅で切り離すので1両目に乗らないと いけないのだ。広い果樹園や牧草地が続く景色のなかに、アーモンドや梅の花が咲いて いる。電車に乗り合わせたおばちゃん同士がずっとおしゃべりしている。実によく 早口でしゃべること。知らない同士で何を話しているのだろう。1年前にイタリア語 講座に通っていた時、家族や親戚の名称を習った。親やきょうだいはともかく、 いとこや兄嫁のよび方など何の役に立つのだろうと思ったが、こうして乗り合わせた おばちゃんたちの会話をなんとなく聞いていると、内容はわからなくても、自分の 家族や親族のことを互いにしゃべりまくっているらしいとわかる。狭い村だったら このようにして、全員がお互いに知合いになるし、天文学者の世界だって誰かが離婚 したらあっという間に知れ渡っている。まあ本人も隠さないけど。![]()
サン・ジョバンニ・バッティスタ教会(プーリエ・ロマネスク様式)
岩山と一体化した家がならぶ。家の出口は外にあるが、住居部分は岩山の中にある。 どうにも奇妙な感じがするのは、どうやら無人の家が多いからしい。もらったパンフ レット(日本語!)によれば、世界遺産のこのサッシ地区では、住民の多くは農民だった が、1953-68年に強制的に新市街に移住させられた(旧住所の所有権はそのまま保持)。 現在ではサッシ地区の7割は国有財産になっている。街が無人なのはそのため。
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階段の一部が車の幅にあわせて埋めてあった。この街は階段だらけだから、荷物を運ぶには こうでもしないと大変だ。観光客が通るような道は舗装が新しく、ライフライン(水道管や 電気)のマンホールが道にそって点在していた。
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正面 丘の上にみえるのがドゥオーモ。長い階段をくねくね登ってたどりついたが工事で閉まって いた。
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ドゥオーモから見下ろした街。
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谷のむこうにも洞窟住宅がある。右の写真は崖っぷちに建っているサン・ピエトロ・カヴェ オーソ教会(17世紀)。
洞窟住居(ピコ・ソリタリオグロッタ家)の見学
ここは1700年初期建築の洞窟住居で一般に公開されている。子どもたちが見学にきていた。 天井は半円型になっていて、玄関のドアの上と台所に小さな換気窓があった。奥にむかって 岩を掘ってありそこに人が住んでいる。人間のいる部屋はひとつで、奥に家畜のいるスペース がある。![]()
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正面から入ったところ。子どもに隠れて見えないが、右にベッドがある。左は家畜スペースで ろばのほか、馬・鶏・豚などもいた。つきあたりの黒っぽい(深緑色)タンスは小麦を入れる もので、人間用と家畜用にわけられている。見えないがトイレにする陶器のつぼもある。 一番右の写真はつきあたりの奥の小部屋(正面が箪笥の裏の壁)。
ベッドの向かい側は馬
布団はとうもろこしの葉をつめたもの。ベッドが高くなっているのは、寝わらを湿った床 から遠ざけるためだが、下にものを入れたり、めんどりが巣を作って卵をかえすこともある。 赤ちゃんは昼間はベッドの手前にあるゆりかごにいるが、夜は両親の間に寝て、そのかわり 小さな子どもがゆりかごに寝る。ベッドの右にある整理ダンスは日常の衣類を収納するもので 一番下の引き出しは子どものベッドにもなった。手前の白っぽい木箱は、パンや小麦粉、 チーズ、豆類などを入れるもので、夜には寝わらが敷かれて子ども用のベッドになった。
機織り機は貸し借りして冬着や花嫁衣装を作った。手前は木製の火鉢。洗濯板も見える。 その左は井戸で、玄関の下の溝から雨水を引きこんで地下に貯めておく。ここら一帯は ぜんぶ石灰岩でできているので、泉はなく、ふつうの井戸も掘れない。
台所
炉は木の枝を燃やすものと石炭用のものがあった。食事は小さなテーブルを囲んで大皿一つ にもった料理をみんなで食べた。1家族あたりのこどもの数は平均6人。
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バールで食べたいちじくのアイスクリーム。外も食べられるが、中もいちじくの味がして おいしい。 サンタ・ルチア・アッレ・マルヴェ教会
岩を掘って作った尼僧院
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洗濯ものはこんな感じ プルガトリオ教会
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1725年に建てられた教会で、門の大扉には骸骨の模様がある。扉だけでなくいろいろな所にも ある。
門の両わき
建物上部 さて最後に恒例のレストラン紹介
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中は前菜の一部。右はこの地方のお菓子で、あんまりおいしくない。
(2008.3.10)
Copyright M. Kato 2008