ペルージャ (Perugia)とアッシージ(Assisi)


クリスマスになり冬休みを利用して夫が日本からやってきた。今度は出張ではなく
休暇のはずだが、どちらにしても旅費の出どころは私のお財布だし(我が家は完全
別会計)、来ればいっしょに研究するわけだから違いはない。会社勤めの人から公私
混同といわれようが、研究費や出張費はいつも足りないから自分の給料を差し出す
のは避けられないのが現状なのだ。若い時就職するまでは(5年間オーバードクター
だった)、特にお金がなくて国際会議で研究発表をするのは大変だったけど、今だって、
年度末のはるか前に研究費がなくなるから、新年になるとpsプリンタのトナーが
切れたらどうしようと毎年ひやひやする。4色のうち1本でもなくなると何も印刷
できなくなる上に、カラーの3色は同時になくなる。ある時ドラムが3色同時に切れて
何万円も飛んでいったのにはまいった。

イタリアでは私は完全にお客さんだから何の心配もしないけど、大所帯のここでも
節約はしている。トイレの出口に「出る時は電気を消しましょう」(イタリア語を
解読した)と張り紙がしてあるのはもちろん、カラープリンタは高いからと白黒プリ
ンタだし(これはかなり不便)、私の研究室のすぐ前にあったコピー機は何回か壊れた
後で、修理代が高いという理由で廃止になった。欧米の人はきっちり割り切るから、
研究費から旅費が出せない時には自分がいくらお金持ちでも国際会議にはいっさい
行かないという主義の人はめずらしくないが、いっぽうで研究に必要なものは生活を
切り詰めても自費でまかなうという人もいる。


   
アッシジのサンピエトロ博物館。プレゼーピオと国際平和美術展(右)


まあそれはともかく、共同研究者である夫がやってきたので、イタリア人が休んでいる
クリスマス直後に共著の論文をしあげて投稿し、イタリア人が働きはじめた新年早々、
さばさばした気分で遊びに出かけた。「パドヴァ滞在記」などを書いているから
いかにも暇そうに見えるだろうけど、イタリアへ来てから書いた3つ目の論文だし、
こちらで国際会議2回(イギリスとドイツ)、研究打あわせのための訪問(パドヴァ
を除外してもアジアゴ、ローマ、マドリッド、ワルシャワ、パリ)。このうちローマの
人とは第1号の論文を書いた(といってもこれは新規ではなく2年前からの懸案事項)。
大学院の講義もしたし、これだけ仕事をすれば、文句は言われまい。

論文を投稿したあとの「さばさば度」は歳とともに減ってきた気がする。若いころは
郵送で投稿だったから、秘書さんに英文タイプを打ってもらい(ワープロがない時代)、
図はロットリング(製図器具)で自分で描いて、仕上げた原稿をちょっとどきどき
しながら封筒にいれて、自分で郵便局まで出しに行った。帰り道歩きながら、次は
どんな論文を書こうかと、ふわふわした気分で考えるのが快感だった。あの頃は新星の
理論を自分でつくっていたので、次がどうなるかは霧の中だったのだ。

今では論文は研究室でのWeb投稿となり、「郵便局からの帰り道」がなくなった。
それに研究方針も確立して迷いはないし、いくつかの論文が同時並行で走っている
から、一つ投稿しても、次はどれを後回しにするか、という優先順位の決定でしか
ない。もっとも大プロジェクトの一員だったらトップに立つまで何も自分で決定でき
今回の小旅行はペルージャとアッシージ。初詣のイタリア版といったところだが、
この時期に行けばプレゼーピオが見られるのも楽しみだ。

ペルージャ

アッピア通り。正面に横に走っているのが、水道橋。ガイドブックには大噴水に水を 引くために建設されたとあった。 ペルージャは山の上の街なので、いたるところにエスカレーターがある。城壁で囲まれた 街の中心に行くエスカレーターは中世と同居している。古代ローマ時代の遺跡もある。 左の建物のアーチ部分がエトルリア時代に造られたアウグストスの門(エトルリア門)。 ローマ時代よりさらに古く、紀元前2-3世紀。右側の建物は、外国人大学の本部。外国人 大学はイタリアの文化を世界に紹介する目的で作られた。留学生や観光客・巡礼者が 多いためか、街にはみやげ物屋が目につく。 (左)ペルージャの大聖堂(ドゥオーモ)。 (右)大聖堂前の11月14日広場の大噴水 大聖堂に入り、さっそくプレゼーピオを探す。馬小屋の聖家族に羊飼いなど、大きめの ものが飾ってあった。でも人形は陶器製で、綺麗なのだがいまいち面白みがない。 これとは別に、祭壇にもきんきらきんのベビーが飾ってある。 大聖堂内のプレゼーピオ 祭壇の赤ちゃん 大きな教会には偉いお坊さんのお墓や聖遺物がたくさんあり、それをめざして巡礼者が 大勢やってくる。パドヴァの聖アントニオ寺院の聖遺物は聖アントニオゆかりの品物で、 彼が起こしたと伝えられる奇跡にあやかろうとおまいりする人も多い。聖アントニオの 人となりは伝えられているから納得できるが、そんなものが真っ青になる「聖遺物」も 多い。目玉とする聖遺物が超大物であるほど、教会やその教会がある都市国家の権威が 高まるし、巡礼者も大勢やってきて繁盛するから、教会どうしで聖遺物の取り合いにもなる。 ドイツのケルン大聖堂の聖遺物は「東方三博士の頭蓋骨」で、これは12世紀に戦利品と してミラノから奪ったそうだ。東方三博士はイエスが生まれたことを占星術で知って、 いち早くかけつけたので、どのプレゼーピオにも3人の人形がいる。紀元前のそんな人の 頭蓋骨が現存?それも3人そろって?などといっても仕方がない。キリスト教徒ではない 人からみると、いかにも怪しげな「聖遺物」が大事にされていても、これは信仰する上で とても大事なこと(だった)。 さて、ここの大聖堂の聖遺物は「聖母マリアの結婚ゆびわ」。。。。。 二千年前に結婚指輪の習慣はあったのか、貧しかったのに指輪は金なのか、興味しんしんで 探したが、引越したのか見当たらなかった。プレゼーピオが飾ってある礼拝堂のどこかに あるはずなのだけど。 1月6日前だが東方三博士がいた(パドヴァの聖アントニオ寺院では1月6日に出現する)。 こちらはサン・ドメニコ教会。ここにもプレゼーピオがあった。プレゼーピオは聖フラン チェスコが始めたから、フランチェスコ会の教会にはあるけどドメニコ会教会にはない、 ドメニコ会というのは気に入らない人を迫害したりして、すごく悪い教会なのだと、 パドヴァの天文学者から事前に面白おかしく吹き込まれていたので、ここでプレゼーピオを みつけた時には夫とふたりで盛り上がった。本によればプレゼーピオは聖フランチェスコが キリスト誕生の場面を人間や牛や羊も使って劇で再現し、それをフランチェスコ会と ドメニコ会の修道士がイタリア中に広めたとある。現在では人形を飾ることが多いが、 実際に人間が劇をやることもある。 プレゼーピオとの出会いは去年のクリスマス。パドヴァに来る前に夫といっしょに少しだけ イタリア語会話を勉強しに青山の会話教室に通ったが、そこで先生方が小さなプレゼーピオを 事務室に飾っていた。そういえば厳格にするなら12月25日になるまで赤ちゃんは出さないと その時に聞いた覚えがある。 あれからわたしたちの会話能力がちっとも上達していなくてすみません。3月に来てから ほとんど勉強していないので、たぶんクラスでいっしょだった人の方が今ごろ上手になって いるだろうな。。。。 イタリア語会話の続きだが、習いに行ったほか、NHKラジオの初級講座をipod にいれて 通勤の途中でも聞いた。「サバイバル・イタリア語」という半年分の過去のコースでは、 子育てを終えた夫婦がペルージャに半年間留学するという設定になっていて、始めての イタリア生活にとまどったり、アパートを借りたりするシーンがそのまま私たちにも ぴったりだった。 その話の中で、ここの外国人大学に入学した二人が、最初のイタリア語の授業で先生から 紹介されるのが、"コルソ・ベンヌッチ"(ベンヌッチ通り)。語学のコースと"Corso"をかけて いる。それを思い出して実際にコルソ・ベンヌッチに来てみると、確かに観光名所とレス トランがある賑やかな大通りだった。でもここで遊んでいても勉強になるのか疑問だ。 というふうに会話講座のつっこみができるのが面白くて、更に、アパート探しの場面の 会話を思い出す。不動産屋が部屋をすすめる言葉に「ここは駅から5分だし、ベランダ からの景色がすばらしいですよ。ウンブリア州全体があなたのもの」と言うシーンがある。 その部屋は4階(イタリアでは3階)の設定だが、そのアパートはどの辺にあるのか?安い 部屋をさがしているはずだから、繁華街ではなく大学にわりと近い住宅地のはず。駅の 近くというが、イタリア国鉄(トレニタリア, Trenitalia)の駅は山のずっと下にあるから、 徒歩5分というのはおかしい。そういえば昨日迷いこんだ場所に、私鉄の小さな駅があった。 それなら確かにサン・ドミニコ聖堂の近くにある。夫と地図で確認して納得。 聖ルカの門 ラジオ会話講座の最後のほうに、ふたりが結婚35周年記念にレストランに行く場面があると 夫が言う。わたしは時間切れでそこまで勉強できなかったのだが、会話をろくに覚えずに とりあえず最後まで飛ばした夫は最後のシーンを思い出した。プリオーリ通りの「イル・ バローネ」というレストランに入ることになっている。この写真にある聖ルカの門は そのプリオーリ通りの最後にあった。 (左) サン・ベルナルディーノ教会の正面、(右)内部:祭壇の前にプレゼーピオがあった。 東方三博士が来ている。この祭壇は古代ローマの棺桶を再利用したもの。 街の南側に大学農学部があった。庭園と植物園が広がっている。 農学部2年の時間割 拡大図 掲示版に学科・学科ごとの時間割が張ってある。ふむふむ。授業は月曜日から金曜日まで。 時間とその次の時間の間に休憩がないのが面白い(Aulaは教室のこと)。日本では講義は90分 単位だけど、こちらは1時間単位。3時間続きの授業は演習か。昼休みはちゃんとある。 ちなみにパドヴァ大学では昼休みの時間がないので、学生は授業の組み合わせによっては、 お腹をすかせたまま、ぶっつづけで講義を聞き、お昼を食べるのが2時頃になることもある。 農学部の庭園。なんてすてきなキャンパス。名札が草木についているのは農学部らしく教育的だ と思って植え込みをよく見ると、、、、、何か思い当たりませんか? 大きな木の周囲にぐるっと花壇があるのだが、要所要所の刈り込みの名札には、Aries、 Scorpio、 Leo、Capricornus などとある。日本語では、おひつじ、さそり、しし、やぎ。 つまり刈り込みの形が星占いでおなじみの、星座のマークになっている。どうやら季節を あらわしているらしい。やるじゃないですか。星座のまわりの草木はその季節に花が咲く のかな?植物に詳しいければもっと面白かっただろう。ちなみに中世の学問体系では、 天文学は生物学より「格」が上。♂と♀は天文学で使っていた火星と金星のマークを借用 したものだ。 ペルージャ大学農学部の植物園からウンブリアの山々を望む。 上の農学部のキャンパス・マップでは右上の丸い部分からの眺め。 日時計を発見。棒がなかったので、ペンシルパズル用に持ち歩いていた鉛筆をさして撮影。 右は水車か。 こんな所にもプレゼーピオが。 ちなみに私が着ているオーバーはむかし米国にいたときに買ったもので、零下20度の イリノイの寒さに耐える防寒用。念のために着てきたが、昼はそれほど寒くはない(帽子も 手袋もしてないでしょ)。 レストランの半地下がワインセラーになっていた。 こちらは別のレストラン (左)ポルチニ茸のブルスケッタ(中)赤ワインとキノコのリゾ。(右)白身魚にかかっているのは ズッキーニとスモークハムの入ったチーズソース。この地方のリゾは芯がなく私の好み。 (パドヴァやヴェネツィアのリゾは芯があって、生煮えのごはんみたいだから)

アッシージ (Assisi)

アッシージは聖フランチェスコの街。ガイドブックには「アッシジ」と出ているが、パドヴァで アッシジといっても通じなかった。イタリアは都市によって発音がこまかく違うからかもしれ ない。(だから忘れっぽい私のためにここではアッシージと書いておく)聖フランチェスコは イタリアの守護聖人になているくらい偉い人だが、彼の説明は守護聖人のところでちょっと 書いたから省略する。 アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂を望む。この巨大な大聖堂はもちろん、清貧をモットーと した聖フランチェスコが死んだ後で建てられた。こんな豪華の大聖堂は、彼が生きていたら猛反対 したはず。 また話がもどるが、NHKラジオのイタリア語講座の中に、主人公の夫婦が友人たちとアッシジに 観光にくる場面がある。サン・フランチェスコ大聖堂の天井が1996年の大地震で崩壊し、貴重な フレスコ画が破壊された、とかれらは案内の僧から聞かされる。壁はこなごなになり、何十万 ピースにもなった壁画をなんとか修復して、現在の姿に復興したそうだ。実際に見ると、天井 近くのかなりの部分は空白になっていて、地震の被害の大きさが想像できる。(この部分は夫の 供述。私はここまで勉強しなかった) サン・フランチェスコ大聖堂内にあるプレゼーピオ。よく見るとお坊さんがみなサン・フランチェ チェスコ教会の制服(腰に荒縄をまいていて、たれ下がっている部分に結び目が3つある)なので、 ちょっと笑える。この時代にはまだ出現していませんて。1月6日前なので東方3博士はいない。 (左)サン・フランチェスコ大聖堂の入口付近 (右)裏手の回廊。 日本語の音声ガイドを借りて、絵の説明を聞きながら回る。 回廊脇にあるショップ。広い部屋に教会グッズがずらりと並ぶ。日本語のガイドブック(教会の説明) もある。 前庭にもプレゼーピオがあった。こちらは実物大のマネキン。夜にはライトアップされる。 後ろ側 すごく凝っているのに、パドヴァのと比べて、いまいちエンターテイメント性に欠けるのは、 動きがいかにもマネキンだからかも。(パドヴァのプレゼーピオは次の回に)プレゼーピオが見ら れて今の季節に来てよかった。 大聖堂のすぐ前にあるホテルがストライキをしていた。ホテルがストしたら宿泊客はどうなるのだ ろう?朝には警察もきていた。"Occupato"(占拠)の文字がなまなましい。 安めの定食屋さんで昼食。メニューは「本日の定食」。どこもそうだが量が多い。 コムーネ広場前にあるミネルヴァ神殿(中は教会) ひたすら坂道を歩く。通りも狭く、ゴミ収集車も小さかった。 サンタ・キアーラ教会の正面。聖キアーラ(聖クララ)は聖フランチェスコの教えに共感して尼になり 女子修道院を作った人。右はサン・フランチェスコの両親の像で、息子から服を返されて呆然として いる場面をあらわしたもの。フランチェスコは裕福な家で育ち、親の期待に反して家業をつがずに 修道僧になり清貧の生活を送ると決めた。父親が、お前は勝手なことを言うが、その着ている服だって 親の金で買ったものではないかと諭したら、着ている服をその場脱いで返したという逸話による。 聖フランチェスコと聖キアーラ(右)

(2008.1.4)

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