イタリアの各都市には守護聖人とされる人がいて、一番大きな寺院に祭られている。 パドヴァの守護聖人は聖アントニオ、ヴェネツィアは聖マルコという具合だ。国全体の 守護聖人もあり、イタリアは聖フランチェスコで、ハンガリーは聖母マリアだ。 パドヴァの守護聖人をまつる聖アントニオ寺院(サンタントニオ寺院)。めずらしく周囲に みやげものの屋台や店がならんでいて、ロウソクや十字架のネックレス、ロザリオ(数珠)など を売っている。屋台にたくさん下がっているのは、白い大きなロウソクに綺麗な絵を描いた もの。寺院の中にも大きな売店があり、キリスト教関係のおみやげを売っている。 パドヴァの守護聖人、聖アントニオは40歳の若さで死んだので、絵でも彫刻でも若い姿の ままに描かれている。他の偉いお坊さんの像は年寄りが多いから、聖アントニオだけは 私でも見分けがつく。その上、たいていはこどもを抱いていて、象徴の百合の花がそばに あるのですぐわかる。 パドヴァは巡礼者が特に多い街だからか、それともイタリア中どこでも教会が多くて 同じなのかはわからないが、このように宗教関係の店はめずらしくない。ショーウィン ドーの中の僧服は時々替わる。夏むけには白っぽい麻の服。白い子ども用の服や(たぶん 洗礼用)のベビー服もある。小学生くらいの男の子が儀式か何かのために白い僧服を着て 通りを歩いているのをみかけたことがある。両親は普通の服だった。 (パドヴァのドゥーオモ裏の店) 聖アントニオはリスボン(ポルトガル)の生まれだが、布教活動でイタリア各地をまわり、 最後にパドバで死んだ。だからパドバに祭られているのは不思議ではない。彼の説教は たいへん人気で、大勢の人々が集まり、説教を聞いたり、彼にふれたりしただけで病気が 直った人もいたそうだ。だから今でもご利益を求める人々がヨーロッパ中から聖アント ニオ寺院にくるのでいつも混んでいる。他の教会と違うところは、聖アントニオの遺体の 入ったお棺が寺院の中にあり、そのお棺にさわるために長い行列ができていることだ。 お棺に手をふれて長いことじっと祈っている人々が実に多いので、混んでいる時は素通り するように係員が指図する。またお棺の周囲には、願をかけた人々の家族写真や、交通 事故で大破した車の写真とか、お礼の手紙などがびっしり飾られていて、ちょうど日本の 神社の絵馬のようだ。付属の資料館には、願をかけた病気が回復したお礼に奉納された品物、 たとえば足の病気なら足の木型、心臓なら心臓の模型が展示されている。さすが西洋医学の 本場はリアルだ。日本の絵馬との違いはこのリアルさと願かけの真剣さだろうか。尼さんや 坊さんも巡礼に来ていて、寺院内の売店でロザリオなどを買っている。 マドリッド ブダペスト (左)マドリッドの教会の入口わきの小さなスペースに聖アントニオがいた。右はブダペスト (マーチャーシュ教会)でみつけた聖アントニオ。彼の活動範囲は広く、影響もすごく大き かったのですね。こどもを抱いているのは、たぶん奇跡で病気を直した逸話によるもの。 聖アントニオの像はベネチアのムラーノ島の教会でもみかけたし、南イタリアにもいたし、 遠くブダペストやワルシャワの教会でも見た。よその土地で聖アントニオをみかけると 私は何となく嬉しくなる。パドヴァの住人になった証拠かな?ちょうど日本の町会のお祭り で、近所の神社からおみこしが出ていくのを見ているような気分になる。 ところで、どうやって街の守護聖人を決めたのかが面白い。聖アントニオはリスボン (ポルトガル)の生まれだが、辺境での布教を希望してパドヴァでに来た。パドヴァの ガイドブックによれば、1231年の四旬節に彼がおこなった説教は歴史に残るもので、 3千人以上の聴衆が集まり、回宗者が後を絶たなかったという。亡くなるとすぐに遺体の 回りで奇跡がおこり、1932年に教皇グレゴリウス九世に列聖されて聖人になった。その ため聖アントニオの遺棺をおくのにふさわしい寺院が建てられたのである。建築作業のさい、 遺骸を移転する必要が生じ、1263年4月8日の移転の際に「この偉大な伝導者の舌が柔らかい まま腐敗の跡もなく発見された」。この奇跡の噂が広まると巡礼者が倍増した。とある。 ここで何で舌だけが?というつっこみはやめましょうね。偉大な伝導者の「舌」という ところが肝心なのだ。聖人になるには、死後にローマ法王庁から聖列される必要があるが、 それは単に布教に励んだとか、キリスト教の発展に偉大な貢献をしたというだけではだめで、 「奇跡」がなければならない。ブダペスト(ハンガリー)の聖イシュトヴァーン大聖堂には ハンガリー初代国王のイシュトヴァーンの右手のミイラが展示されているが、それも 死後何年もたっても右手がそのまま残っていたという奇跡からだったし、名前は忘れたが、 動乱で亡くなった女性が、何世紀もたってから、死んだその場所で生きているかのような 姿で発見された「奇跡」があり、聖列されて聖女となった例もある。ガイドブックには そう大まじめに書いてあるが、それって普通に考えれば別人の死体でしょうに。まあ中世の 話だから、と思おう。 聖右手(右手のミイラ) 豪華なケースが何重にもなっていて、少ししか見えない クリスチャンではない日本人から見ると、実にばかばかしいと思えるが、信仰に口を はさむのは宗教戦争のもと。私はここではお客さんだし、奇跡を否定する宗派もある そうなので、深入りせずに次のフレスコ画を鑑賞しよう。 サン・ベルナルディーノ教会(ヴェローナ)の中庭の廊下にあるフレスコ画。 聖フランチェスコの奇跡を描いたもの。神の象徴である鷲から光が出て、手足と 胸にあたっている。この他にも、十字架から光が出てフランチェスコの手足に あたる絵など、このモチーフはよく見かける。 聖フランチェスコはアッシジに1182年に生まれ、財産や家族の絆など世俗的なものを いっさいすてて、愛と平和を説き、清貧に生きた人で、腐敗したカソリックに新風を もたらして布教に貢献した。死後に聖人とされるには、キリスト教に貢献しただけでは なく、奇跡がなければならない。彼の場合には、1224年にラ・ヴェルナ山にこもって 修行をしていたとき、キリストの痛みを私にもください、という彼の強い願いが聞き いれられ、空に出現した天使によって、キリストが十字架に張りつけになった時と 同じ場所(キリストは手足に釘をうたれ右胸に槍)に傷がついた、というものだ。それを 聖痕と言うのだそうだ。ふーん。。。すっごく怪しい。。。。でしょ? 遺体や衣類など、聖人ゆかりの品物(聖遺物)には徹底的にこだわり、争奪戦がくり ひろげられるから、数奇な運命をたどる聖遺物はめずらしくない。こうして集めた 聖人の遺体や衣類などは教会の目玉となって大事に展示され、それをめざして巡礼に 大勢の人がやってくる。教会につくと、聖遺物を納めたケースに手でふれてお祈りし、 聖人の奇跡にあやかって自分自身の祈願成就を願うのだ。 ヴェネツィア 教会にはよく偉い人やお坊さんの遺体(ミイラ)が安置されている。 ここまで聖遺物を大切にする感覚は、ちょっと日本人にはわかりにくい。日本で、偉い人の お墓まいりに来て、墓石に手やひたいをつけてじっとしている人がいたら、間違いなく変人 (それもみんなが逃げ出す種類の)に分類されるだろう。 カソリック総本山のお膝元イタリアの人々は、現実への適応性が発達していて、ものを 合理的に考えるようだ。聖書からは、天地創造が約6000年前の出来事だと算出されているが、 宇宙のビッグバンがわずか6000年前に起こったなんて誰も思っていない。米国みたいに 宇宙の年齢は6000年前と教えよとか、教科書から進化論を排除せよなどとは唱えない。 聖書は考え方を示すものであり、ビッグバンは天文学者が言う通りに、136億年前なの だろうと思っている。そこら中、カソリック教会だらけでも(イタリアにはプロテスタント 教会はほとんどない)、科学と衝突することはないようだ。 サン・マルコ広場(ヴェネツィア) 2本の柱の上にある像は、左が守護聖人聖マルコの象徴のライオン、右が聖テオドロ。 では、ヴェネツィアの守護聖人、聖マルコはどうしてヴェネツィアに祭られているのか。 マルコは聖書のなかの4大福音書の「マルコによる福音書」の著者で1世紀の人物である。 福音書はキリストの行動や言葉を書きしるしたものだから、マルコはキリスト教の最重要 人物だ。彼はアレクサンドリアに教会を建ててそこで死んだらしい、と4世紀末の伝説に ある。だから本来ヴェネツィアとは何の関係もない。 サン・マルコ広場に立つ聖テオドロ(9世紀までの守護聖人) ヴェネツィアの守護聖人は、もともとはビザンツ帝国の名残で、ギリシャ系の聖テオドロ (サン・テオドロ)だった。9世紀にはベネチアは都市国家として発展し、経済的にも豊かに なってきたので、ヴェネツィア市民は、もっと有名な大人物を街の守護聖人にしたかった。 ちょうどこの頃、交易でアレクサンドリアに入港したヴェネツィア商人が、聖マルコの遺体を 安置した教会が壊されると聞いてきた。聖マルコなら超大物で、ヴェネツィアの守護聖人に ふさわしい。石づくりの建物はリサイクルにも便利で、別の建物をたてるために石材が必要に なると、古い建物を壊してしまう。そこでヴェネツィア商人はさっそくその教会から聖マルコ の遺体を盗み出し、こっそり自分たちの船に運び込んで、遺体の上に豚肉の薫製を積んで 隠した。回教徒が嫌う豚肉のおかげで税関検査をされることもなく、無事出港してヴェネ ツィアに遺体を運び入れることができた。 と、このようにものの本にはあるが、要するに勝手に盗んできたわけだ。私が5月に イギリスに行く前に、大英博物館を見るのが楽しみだと言ったら、周りのイタリア人は、 大英博物館の展示には「○○出土」とか「○○より」と説明があるが、あれは「イタリア から盗んできた」と書くべきだ!、との大合唱になった。イタリアから持っていかれたものは 多いから気持はわかる。でも量は違うかもしれないが、イタリア人だってこのように手早く 盗んでくるではないか。 それにしても、何世紀も前の遺体を盗む?うーむ。 当時、ヴェネツィア市民は超大物の遺体を手にいれて大よろこび、盗んできた聖マルコの 遺骸を納めるために立派な聖堂を建てた(829-932年)。それが聖マルコ寺院(サン・マルコ)だ。 サン・マルコ寺院 聖マルコの象徴はライオン。なぜかというと、四福音書の聖人にはそれぞれ象徴とされている 生き物があり、マルコの象徴はライオンなのだ。その由来は、「マルコによる福音書」の 冒頭が荒野で説教をしている洗礼者ヨハネの場面で、当時荒野には野性動物のライオンが 棲んでいると考えられたからだ。それにしても、このサン・マルコ広場にあるこの有翼 ライオン、街の象徴なんだけど、なんか変? サン・マルコ広場(ヴェネツィア)の有翼ライオン よく見るとライオンというより、日本の神社の駒犬みたいな感じ。しっぽと胴体はまだ ましだが頭がとっても変。今は高い円柱の上にいて遠くてよく見えないが、修復のために 降ろされて正面から撮った写真ではまるで猿のようだ。本によれば、頭部は紀元前4〜5 世紀の中東のものらしいが、体全体はいくつかのばらばらの彫刻をくっつけたらしい。 これをパドヴァのライオンと比べてみよう。ヴェネツィアがパドヴァを支配下においたとき、 街一番の広場に円柱を建ててヴェネツィアの象徴であるライオンを据えた。みてのとおり 蘊蓄も垂れているけど、体の線と顔がいかにもライオンらしい。 シニョーリ広場(パドヴァ)の有翼ライオン やっぱりヴェネツィアのライオンは、どこからか、かっぱらって来たんでしょう。(2007.11.17)
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