日帰り旅行:ボローニャ (Bologna)


ボローニャはパドヴァから電車で1時間半(各駅停車で)のところにある中世の街。
といっても、このあたりどこへ行っても中世の街で街の構造は同じ。ボローニャは
エミリア・ロマーニャ州の州都で人口40万人(パドヴァは21万人)。ごらんのように
中心街にずっとポルティコ(柱廊)が続いていて、商店が並んでいる。ここのポル
ティコはパドヴァよりずっと高くて広く、しかも綺麗だ。パドヴァのは色が暗くて
くすんだ感じがする。

     

通りにはよく彫像のふりをする大道芸人がいる。パドヴァにも何人かいて、白い大理石の
お坊さんの彫像のまねをして、髪の毛も顔も真っ白にした人や、チャプリンのそっくりさん
などをみかける。微動だにしないのはけっこう大変なはず。


     

街の中心に12世紀の塔が2本立っている。貴族が競って高い塔をつくり富を誇示したので、
ボローニャの黄金時代(12〜13世紀)には200本も塔がたち、ダンテもびっくりしたという
話があるそうだ。といってもとともは、ここボローニャに限らず、都市国家の貴族が皇帝
派と教皇派に入り乱れてはげしく争っていて、相手方(敵)が通りかかったときに、上から
熱湯や煮えたぎった油や汚物や石などを落とすために自宅に塔を作ったのがおこりのようだ。

そんなにたくさん建てれば、中には傾くのもあるでしょう。左はボローニャの斜塔(ガリ
センダの塔)で、傾きすぎて少し削ったとかで、現在は48m。右はアシネッリの塔で97m。
内部は木の階段がずっと続いている。このところの雨で木のてすりは湿っているし、木の
階段は狭い上にすり減っていて登りにくい。498段を登って降りたら翌日筋肉痛になった。
写真右は上から見た斜塔。

    
どこまでも中世の街が続く。城壁内は13〜16世紀建設。

 
マッジョーレ広場。左は市庁舎(コムナーレ宮)、右はサン・ペトロニオ聖堂。聖堂に入ろうと
したら、リュックは禁止だという。そばには、リュックのために入れなかったおばさんが、
つれが出てくるまで待たされている。運よくスーパーのビニール袋をもっていたので、
リュックの中身をそれに移してリュックもたたんで入れたらOKだった。

   

広場のすみにあるバールで休憩。(左側にイスが並んでいるところ:この写真は席から撮った)
ボローニャのラッテ・マッキアート(ミルクにコーヒーを少し入れたもの)には水がついてくる。
近くなのに、ちょっとしたことがパドヴァと違う。サンドイッチは並んでいるのを見て指さして
注文したら焼いてくれた。パンの表面がパリパリになっているのに中はやわらかくておいしかった。


     

皇帝派と教皇派の違いは、建物の上についている石の形(狭間をつくっている石)が四角か燕尾形か
で見分ける。四角は教皇派。そう思ってフィレンツェを思い出して写真を見ると、ベェッキオ宮
では建物の上部に四角のぎざぎざがあり、塔の方が燕尾だった。メディチ家は皇帝派でローマ教皇
にはげしく対立したはずなのに、なんで両方ついているのだろう?

      
(左)魚屋。(右)カーニバルの仮面と人形


旧ボローニャ大学の解剖学教室

旧ボローニャ大学(1803年まで大学として使われていたアルキジンナージオ宮)。廊下や階段には、 各地からここに勉強しにきた学生や学者の紋章が非常にたくさん並んでいる。2階の図書館には 貴重な写本が大量にある。解剖学教室も2階にある。パドヴァ大学にも解剖学教室があるので、 それについてはまた後で。 ボローニャ大学は11世紀創立でヨーロッパで最古で、ヨーロッパ各地から学生や教師が集まってきた。 学問の発展には自由な雰囲気が欠かせない。独立の自治都市だったボローニャでは、教会の反対を ものともせず、世界初の人体解剖が行われた。その教室(Teatro Anatomico)がここにある。 解剖学教室は3段の階段教室になっている。右はその天井。

(2007.10.31)

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