大学一般教育の天文学---全盲の学生をむかえて 加藤 万里子 (慶応大学) 1. はじめに 筆者が担当する大学一般教養の天文学の授業を、全盲の学生が履修する ことになった。十数年にわたる大学教員生活のなかではじめての経験で ある。今まで全盲の人と知り合う機会が全くなかったので、その学生に 何ができて何が不得手なのかの見当もつかないありさまであった。通常 どおり授業をくみたててもよいのだろうか、それとも何か特別な配慮が 必要なのだろうか。天文学の講義は他大学でも例がないようだ。試行錯誤 の結果をここでまとめておくことにしたい。 2. 授業風景 2.1 授業内容 この科目は、文科系学生のための天文学(通年4単位)で、内容は天文学一般の ことがらを広く扱い、宇宙についてひととおりの知識を得て宇宙の中の人間の 位置についての理解を深めることが目的である。したがって扱う内容は広く、 天体の形、天文学史、ビッグバン、宇宙膨張、天体の形成、銀河、星の一生、 太陽系、地球外生命など広範囲にわたっている。講義中心と グループ発表中心のクラスがあり、この時間は講義中心の予定であったが、春の 最初の時間に学生と相談の上、当初の予定を変更して前半は講義中心、 後半はグループ発表と絵本製作をすることにした。半年の講義で広い範囲の内容を 扱うのは少し忙しく、学生は教科書で補助的に勉強をすることが不可欠となった。 またグループ発表ではあらかじめ図書館などで調べて準備しておくことが必要である。 2.2 講義 始めの半年は当初の予定通り講義中心なので黒板に書きながら講義をする。 点字でノートをとる学生の様子をみながらゆっくりしゃべる。理解は早いので きちんと筋道をたてて話せば特に問題はない。とはいうものの、普段いつも きちんと整理してしゃべっているばかりでもないことに気付く。たとえば 『これこれの理由は3つあり、第一点はこれ、第二点は.....』という風にきちんと 文章を頭から読むように話せる先生はすくないだろう。たいていは黒板に書き散らし ながら、『あ、さっきこれを言うのを忘れました』などと前後してしゃべってしまう。 黒板が見える学生なら、それを見てノートに書き加えることができるが、点字ノート ではそうはいかない。講義の準備をよくしておかないと、たちどころにボロが出て 冷や汗をかく。またジェスチャーを交えながら説明するときは、『あっち』 『そこ』などと言わず、『右』とか『上』と言う必要がある。慣れればこれらは 大したことではなく、むしろ授業の準備をしっかりして講義ノートを整理すれば、 明確な論理展開の授業を用意できることになる。従って他の学生にもわかりやすい 講義になるはずである。 講義のノートを取るとき、大胡田君は始めのころは点字を紙に打っていたが、後には ブレイルライトと いう機械をつかってノートをとるようになった。これは弁当箱くらいの機械で ピンディスプレーがついており、ピンが上がって点字を一行表示する。これを使って 書きこんだ文書をあとで読みなおすこともできるし、フロッピーに落すこともできる。 以下で記述するグループ発表をするときには、教壇の上で片手でこれをもち、片手で 点字ディスプレイを読みあげながら発表をしていた。 天体のスライドを上映する時は、天体の形などスクリーンにあるものを省略せず丁寧に 説明するよう気をつけた。丸い、明るい、星がいっぱいあるなどは、あたり前だと 思って省略してしまいそうになるが、口に出してきちんと言わないと伝わらない。 スライドを上映しながら説明をする時、いままでの学生はスライドを見ている だけだったのに、真っ暗な教室でサクサクと自由に点字でノートをとる音が聞こえて くる。これは利点である。 ビデオは教育内容としての情報量は意外に少ないことがわかる。大望遠鏡のドーム内の 様子とか、ロケット打ち上げの雰囲気を伝えるのにはビデオが有効だが、そういう 情報は口で説明することはむつかしい。結局ビデオはどのように使えば最も効果的 なのかわからず、講義を半年に集中させて忙しかったこともあり、あまり使わな かった。それにしても天文関係のビデオソフトは背景音楽が不気味なものが多く、 音だけ聞いていると気持ちが沈みそうになる。これは良くない。天文学の一般の イメージは意外に暗いのだなとわかる。 2.3 実験 例年、普通の教室でできる簡単な実験を行っている。それは図1のように、宇宙 空間の曲がりを理解するためのもので、曲がった空間では幾何学の法則がユークリッド 幾何学からずれることを確かめる簡単な実験である。具体的には、風船の表面に 糸で3角形を作り、分度器で角度を測って、内角の和が180度からずれることを 確かめるものだ。馬の鞍型と風船型という曲がり方の異なる2種類の面で実験を行い、 角度のずれが180度より小さくなったり大きくなったりすることを確かめる。この 実験は実際にやってみると角度のずれが予想以上に大きいので、文科系の学生も 理工系の学生も一様に感動する。空間の曲がりについて体験する良いチャンスに なる上、風船と糸とセロテープがあればできるため、講義用の 大教室でもスムースに行え、2人1組でも1人だけでも行えるので重宝している。 まだ何も説明していないのに、風船を配ったとたんにふくらます学生もいるし、途中で 風船を割ってしまってキャーキャー言いながら作業をやりなおす学生もいて、とても 楽しい雰囲気になる(この実験についての詳細は新版・100億年を翔ける宇宙 (恒星社)を参照のこと)。 この実験を行うために、目が不自由な人も使える分度器を用意した(巻末資料: 授業に役立つ道具を参照)。メモリが盛り上がっていて指で触ってメモリを読む。ただし メモリは5度おきなので精度は出ない。この風船の実験では180度よりかなり 大きくなるため、この位の精度でも支障なく実験できることがわかった。糸は太めの たこ糸のほうが、さわる場合にはわかりやすい。まとめの 小レポートは点字で提出してもらい、短い文章なので私がどうにか解読した。 講義時間は90分で、冒頭にユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の紹介に 時間を割くため、通常はふうせんと馬の鞍型の紙模型を測定してまとめを書き終った ところで終了となる。目が不自由な場合には作業に時間がかかるため、ふうせんを測定 したところで時間終了となった。馬の鞍型を作る場合には紙の代わりにレーズライター を使えば3角形を書いて角度を測れるはずである。ただし時間内で手早く作業を終える ためには工夫と補助が必要であろう。 図1.} ふうせんと馬の鞍型の面に三角形を書き、内角の和を測定する実験。 2.4 グループ発表 後期はグループ発表と絵本製作を行った。グループ発表では学生を3人1組の グループに分け、天文学の問題をわりあてる。授業では学生が教壇に出て班で担当した 問題を5分間で解答する。あらかじめ図書館で下調べをし、予行演習をして発表が 5分間で収まる練習をするなどの準備は欠かせない。 担当する問題は教科書の章末問題で、非常にばくぜんとした答えが何通りもあるような ものである。班によって答えや答え方が違うこともめずらしくない。 1つの問題につき2班が担当し、そのあと質疑応答をする。質問が出ない時には むりに疑問を考えてもらうこともある。90分の授業時間で2題の問題を扱う。 2まわりして1つの班が2題担当し終えたら発表は終る。この発表をする ことにより、前期に講義で扱った内容を、自分たちの頭で考え言葉で説明できる 訓練ができる。発表は担当班が教壇にあがり黒板を使用して説明することが多いが、 十分ではないながらも、目の不自由な学生にわかるよう、それなりに気をつかって 説明をしているのがわかる。 2.5 絵本製作 発表がひととおり終ると絵本製作に入る。内容は、教科書にある問題を4題選び、 その答えを適当につなげてストーリーにする。話の展開や問題のつなぎを 考えて絵をつけ、絵本にする。絵を描くことが不得意ならコピーを使っても よい。話の設定や展開は非科学的でもよいが、問題の答はしっかり書くこと、これが 絵本製作の条件である。ここ数年は文科系の天文学の講義でこの絵本製作を行って いるが、このクラスでも班で共同で1冊の絵本を作ることを課題とした。特に このクラスでは点字セットを各班に渡して、少なくとも題名と絵本1ページは 点字で書くことを義務づけた。点字は点字シールに打って張り付ける。点字 セットは点字練習器と紙、点字テープ、点字表をプラスチックのケースに入れた もので、教務課の協力を得て10セット用意してもらえたのはありがたかった。 点字をうつための点筆は小さくて紛失しやすいので、たこ糸で点字練習器に結ん である。 年度末にはどの班も製作が終り、1ページ文を点字で示した作品を提出した。点字は 始めての学生がほとんどであったが面白がっている様子だった。大胡田君の班は 皆と同じに1ページだけ点字でうってある絵本とともに本文全文をフロッピーで 提出した。絵本の電子出版の雛型である。 2.6 試験 前期の講義終了後に筆記試験を行った。試験の形式は記述式で、2行 ほどの問題文にたいする答を5行程度にまとめて書く。全盲の学生については 問題文も解答も点字にした。点字の解答は、外部に墨訳を依頼してそれを採点する。 図を書いて解答する時はレーズライターを用意してそれに図を書いてもらった。 試験時間は晴眼者の場合の1.5倍である。試験時間がずれていることもあり、一人だけ で別室試験となった。問題文は他の学生と同じだが、問題用紙の最初に次のような 注意をあらかじめ入れておく。 『問題は5題あります。それぞれについて自分の言葉で簡潔に解答してください。 答の長さは1行40字とした時4行から6行程度です。期待される長さのめやすを 問題文の後ろにつけてあります』とし、各問題の後に、『200字(40字で5行) 程度』などのめやすをつけ加えた。晴眼者の学生は問題文の後の空白の大きさから、 期待される解答の長さを推測することができるが、点字問題ではその情報が失われる ためかわりの説明を補うことが必要である。 3.教科書と参考書} 私の授業では拙著『新・100億年を翔ける宇宙』を教科書として使う。晴眼者の 学生が読める教科書が使えないことはかなり不便を感じた。特にHR図や銀河の形などを 見せて説明できないのが不便であった。はじめのうちは、学生からボランティアを つのって教科書の一部を点訳してもらった。点訳に必要な点字器のセットは 貸し出した。朗読のボランティアも募集し、空き時間に参考書を朗読したり、 テープ録音を頼んだ。 講義の内容にそった内容の点字の本がみつからなかったので、とりあえず出身校の 筑波大学附属盲学校から高校地学の点字版をお借りして補助教材とした。これは 正直言って助かった。高校の地学は星の一生や銀河など大学の一般教養の内容と オーバーラップしている部分がかなりあり、やさしい参考書がわりになる。 いろいろな図がひととおり出ているので説明するのに役立った。ただし墨字の 教科書に出ている図が全部点字版に載っているわけではないことに注意。 参考書として使える点字の本がまったくない現状では、高校地学の教科書は かなり助かる教材である。ただしそれは学生たちが高校で地学を履修しなかった ことが条件である。現実には日本の高校生で地学を履修している割合はとても低い。 皮肉なことではあるが、この理科教育上の大きな問題となっている現状に逆に 助けられている。 そのうち教務課にある点字パソコンが使える体制になってきた。この専用パソコンで は、音声出力で文書の内容を聞いたり、点字出力をすることができる。そこで教科書の 原稿をMS/DOS のプレーンテキスト(s-jis)に落として与え、自分で音声出力で読める ようにした。これは講義担当者が教科書の著者だからこそ出来る芸当である。また 補助教材としては、天文学会編の学術用語集を学会の Web ページから取ってきて、 飾り文字や不要なリンクを削除したものを与えた。この用語集は広い範囲の天文用語を やさしく解説しているので、天文学辞典のかわりになる。これは私のWWW ページに のせてある。また天文学の他のクラスの学生にも広くよびかけて、音読のボラン ティアをつのった。一部の図書館には朗読サービスがあるそうだが、大学の中で 授業の空き時間を使っていっしょに勉強できたほうが便利なことも多い。ボラン ティアには必要な参考書を音読してもらう。音読やテープ録音のボランティアは、 後に教務課が窓口となって組織化し、アルバイト料も出ることになった。これで 何とか最小限の自習の体制が整ってきた。 4. 図はどうするか 天体は視覚から得られる情報がかなり多いため、天文学の勉強には図が書かせない。 教科書の図を示したり、黒板に図を書く時には絵の形を詳しく説明する。立体模型が あれば一番良い。何もないよりは何か図でも模型でもあった方がイメージがつかみ やすい。銀河の説明では模型がなかったので、銀河の円盤のつもりで平らな 円盤をさわってもらい、球状星団は銀河面から浮いていることなどを説明する。 図はレーズライターというつるつるの紙にボールペンで強く書くと線の部分が もりあがるものがあり、それに書いておいて、本人の前で説明しながら指で さわってもらった。図のキャプションは点字で書き入れておいた。レーズライター は図の訂正ができないのと、紙がくるくる巻いてしまうことが不便である。 入学後9カ月になってようやく教務課に立体コピー機が入ったので、教科書の図を 拡大コピーして使えるようになった。立体コピーは特殊フィルムにゼロックスすると 黒い部分が熱で立体的にもりあがるものである。これもあまり細かい模様はだめなどの 書き方のコツはあるが、できあいの図をコピーできるので、とても便利である。 5. クラスメイトへの啓蒙 この天文学のクラスでは、学期の始めに履修者全員に自己紹介をしてもらった。 早くクラスのメンバーがお互いに慣れてアットホームで明るい雰囲気になって ほしいと思ったからである。自己紹介のとき大胡田君に特に皆に伝えたいことはと 求めたら、『みんな僕のことをこわがらないで下さい』と 言ったのが印象に残っている。クラスメイトが敬遠して近よらないのは、どういう風に 接したらよいのかわからないことが大きい。クラスメイトばかりか、先生方にも 敬遠してしまう人がいても不思議はない。啓蒙の必要性を強く感じたので、 つぎのようなことを行った。 ○ 学期始めに自己紹介の時間をとる。 ○ 始めのうちは毎週プリントを配った(目の不自由な人と接する時の気遣いのしか た、歩行や食事時の手助け、点字表、新聞記事(イギリスの全盲の大臣誕生や スポーツ記事など)。筆者が担当している他のクラス全部にもプリントを配り、 雨の日などで困っている様子だったらどのように声をかければよいか等を話した。 ○ 教科書と参考書の朗読するボランティアと点字に訳すボランティアが 必要だったので筆者が担当しているすべてのクラスで呼びかけた。その本に 興味のある学生が朗読を担当すれば読む学生にとっても負担は少ないし 勉強にもなる。また同じ教科書を使っている学生が朗読ボランティアをすれば わざわざ本を用意する必要もない。 ○ 目の不自由な人の生活を描いた『朝子さんの一日』を6冊用意し、学生に 貸し出した。同じ時間の履修者はほぼ全員が読んだ。 ○ 班発表、班の絵本製作など班単位で行動。自然に友達ができるようにした。 ○ 絵本製作(班で1冊)のさい、どの班も1ページは点字を入れることを条件にした。 点字練習器一式を各班に貸与した。 なお教員への啓蒙も必要だと思い、授業で配ったプリントの残りを教員へ配ったり、 『朝子さんの一日』を貸し出した。 6。インターネットの活用 電子メイルが使えると相互の連絡に便利だし、レポートの課題や参考書 がわりの文書などを送るのにもフロッピーが不要になる。点字で打った紙は コピーができなくて不便だし、教員のにわか勉強で間違いだらけの点字を 使うよりは、電子メイルでやりとりする方が便利である。それに卒業後の ことを考えると、学生が電子メイルを使いこなせて、墨字でレポートを提出 できた方が良い。また検索ソフトで『銀河』や『赤色巨星』などを調べ、レポート をまとめることにも役立つ。人に頼らず自分で情報を集めることができる点 でもインターネットはすぐれている。WWW のページは視覚障害があると使い にくいが、URL アドレスを送れば視覚情報を取り除いてテキストファイルに 直して電子メイルで返送してくれるサービスもある。 コンピューターとインターネットの活用についてはこの冊子の4章にまとめたので そちらをご覧いただきたい。 7。教科書を電子出版 点字図書館に登録されている科学や天文学の本はそう多くはない。大学の授業で 教科書として使えそうな学術書はないようである。科学の体系だった情報をきちんと 伝えるためには、点訳される可能性の高い一般啓蒙書だけでは不十分である。 そこで拙著『新・100億年を翔ける宇宙』の改訂版を電子出版することにした。 つまり墨字(点字にたいして晴眼者が読む字のこと)の本の他に別売としてフロッピー ディスクと図のセットも出版するわけである。フロッピーディスクだけなら出版は 非常に簡単だが天文学では図はどうしても欠かせない。図は紙の上に透明なプラス チックが載っている印刷方法で、指で触って銀河の形などを認識する。 天体が印刷されている紙の上に透明なプラスチックがのっているので、指で触ってみる こともできるし、晴眼者がそのままグラビア写真として見ることもできる。 この本の出版がきっかけになって、いろいろな教科書の電子出版が増えることを 期待している。 8。おわりに 以上述べたように1年間の天文学の講義の中でいろいろな事をやってみた。 どの課題もちゃんとこなせており、授業を進めていく上で特に視覚障害のための 問題があるとは感じられなかった。教師の側で適切な配慮を少しだけすれば、 講義科目ではかなりのことが困難なくすすめられる。むしろ教師の側がこれは できないだろうと勝手に思いこんで遠慮したりせず、どんどん課題を与えてみる ことが大切だと実感した。 感謝 大胡田誠君が天文学の授業を履修してくれたおかげで、私にとっても世界が開ける 一年を過ごすことができた。経済学部の中野泰志先生および筑波大学付属盲学校の 間々田和彦先生には文献をお借りしたり相談にのっていただいた。また実質的な サポートをしていただいた慶應大学の教務課のみなさん、天文学会の電子メイル ネットワークへの呼びかけに応じて情報提供してくださった方々や資料を送って下 さった方々、また暖かくはげましてくださった多くの方々にお礼を申し上げたい。 (注)この文章は慶応義塾大学日吉紀要自然科学に投稿した原稿をもとにしたものです。