進化する教科書の物語

                                            加藤万里子(理工学部助教授)

  私は天文学の本を1冊しか書いてない。現在も教科書として使っている「100億
年を翔ける宇宙」の初版を出したのが32歳のとき。私はまだ非常勤講師で、
こどもがお腹にいる時に原稿を書いた。出産後まもなく本も出版され、その直後に
専任講師として慶応に就職するという、私にとってのトリプル快挙であった。

  この教科書は自分の講義でつかうために書いたもので、それまでの慶応大学での
講義ノートをもとにしたものだ。講義中の学生の顔をひとりひとり思いうかべ、
気軽な会話や質問から、どんなところを疑問に思うか、学生の立場を反映させたもので
あった。いわば特定の学生のために書いた、オーダーメイドの教科書である。天文分
野の友人には、教科書や一般書を数多く書く人もいるが、私は不器用かつ省エネな
性質なので、これ1冊で満足している。

  天文学の進展は早く、内容がすぐ古くなる。たとえば、アメリカの太陽系探査
衛星ボイジャーが、天王星のそばを通り過ぎて鮮明な写真を撮ると、最新の写真を
教科書に入れる。3年後にその衛星がこんどは海王星を通過したので、海王星の写真
もいれる、という具合である。それで版ごとに図の入れ換えや文章の手直しなどを
ちょこちょこやることになった。大きな改定は2回、表紙カバーのデザインも変え、
本のサイズも大きくした。

  自慢じゃないけど、これは本が売れて毎年増刷りするからできる芸当である。一般
むけの本としても好評で(やっぱり自慢だ)、いろいろな大学でも教科書として採用され
てきた。慶応の学生むけオーダーメイドの本であっても、一般にも通用するらしい。
16年間で2万部というのは教科書としては記録的だそうだ。初版以来、いろいろな
人から間違いの指摘や改善のためのコメントをいただき、最新の成果も採り入れて、
じわじわと厚くなった。

  現在の版には、巻末におまけとして銀河の点字の図がついている。これは法学部に
全盲の学生が入学し、私の講義を履修したのをきっかけに、バリアフリー版(立体触図
とフロッピーのセット)を作った記念である。それ以来、私の講義では、バリアフリー
版を紹介して、点字の一覧表を配るとともに、点字の図にも触ってもらうことに
している。

  日吉駅の向こう側(通称ひようら)の古本屋には、前年度に履修した学生が使った教科
書がならんでいるが、古い版では天体の写真も章末問題も違う。同じ題名なのに、
しょっちゅう改定している本なんて、図書館にとっても、古本屋さんにとっても
迷惑な話に違いない。

  ところで、「100億年を翔ける宇宙」という、教科書のくせにやけに抽象的な
タイトルは私が考え出した。出版者の担当さんいわく、「本が売れるかはカバーと
タイトルが重要で中身は関係ありません」だったので真剣に考えたのだ。
たとえば天文学の講義が木曜日だから、「木曜日の天文学」もいいかなと思ったが、
本屋さんに行ったら「雨の日の天文学」というすてきな本があってボツ。
結局20個ばかり考えた中から担当さんが選んでくれたのがこのタイトルだ。表紙
カバーは、最初は担当さんのデザイン、現在のには私も注文をつけた(表紙をデザイ
ナーに頼むとお金がかかるので定価が高くなる)。あれこれ考えただけ、思い入れも
ある。

  図書館の本は表紙カバーがとられていることが多く、そっけない。管理上の事情は
わかるが、本を見る時、きれいなカバーも楽しみのうち。でも専門書は表紙もタイト
ルも地味である。中身で勝負せよということだろう。
                                                  (おわり)
(C)メディアネット(2003年3月発行) p.21