定例セミナー・ワークショップ 発表要旨 |
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中村哲子(日本医科大学) |
身体改変の文化的背景 その1 |
「18世紀的身体のハイブリディティー ―― 国家的・文学的コンテクスト」
18世紀イギリスを特徴づけるものの中に、度重なる戦争とグランド・ツアーというイギリス国外への人の移動があげられる。それに伴い、アフリカからアメリカにいたる植民地地域へ出かけた軍人やヨーロッパへ出かけた旅行客は、国外からさまざまな社会的不安要因をもちこむこととなった。18世紀前半の啓蒙主義的コスモポリタニズムは、後半に入ってその限界を見せていったのである。国内に目を転じれば、1707年にイングランドはスコットランドと併合し、アイルランドとは緊張関係を保ちながらも、最終的には1801年の併合を迎える。その中で、文学の世界では、18世紀後半にイギリス文学全集が何種類か流通することとなり、Britainという国家を意識した文学的コンテクストが形成されていく。しかし、文学の生産現場、出版界では、イングランド、スコットランド、アイルランドの印刷業者がその版権と販売をめぐり熾烈な闘いを繰り広げていた。18世紀はさまざまなレベルのハイブリディティーを抱えていたといえる。
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横山千晶(慶応義塾大学) |
身体改変の文化的背景 その1 |
「21世紀的メタモルフォーゼ身体 ―― 分裂し増殖する個(セルフ)」
古代より身体は常にそれ自体が物語を紡ぐものであった。19世紀後半よりabhuman,およびabjectの対象となる恐怖をはらんだ身体は、20世紀に入り、流動性からの脱却を目指し「型」に入れられるようになるものの、アバンギャルド以降はこの変異の可能性そのものが注目されるようになった。このように常に変化を遂げてきた表象される身体は、20世紀後半に入ってふたたび「個人」へと再構築されていく。しかし内在するものを表象する個人の物語としての肖像は、いまや「そこにあるもの」ではなく、「そこにありうるもの」としての複数の個の物語を生み出しつつある。それはひとつの決められた物語を生み出してはさらにそれをはぐらかす、異なる「私」の増殖と氾濫である。今回の発表では、既成の物語を自らの身体を使って暴き出すシンディ・シャーマン、自らを女優や絵画という型に埋め込むことにより既成の物語を突き崩し、隠された物語を提示しようとする森村泰昌、ジェンダーの中に埋め込まれてきた神話から新たな物語を紡ぎ出し、記録していくやなぎみわなどの写真を中心に、変身する個人を映し出す(セルフ)ポートレートの現場を考察するものである。
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中村哲子(日本医科大学) |
身体改変の文化的背景 その2 |
「アイルランド併合への道のり ―― フランス革命の功罪」
18世紀後半は、イギリス、フランス、アイルランドが微妙な緊張関係を保ちつつ、政治的な大変動を迎えた時期である。18世紀半ばの七年戦争によってイギリスは大国フランスに対して優位を確立するものの、その後84年にトーリー党のウィリアム・ピットが登場するまでは、政治的に不安定な時期となった。というのも、18世紀前半の啓蒙主義的コスモポリタニズムは、保守派に対する左派を2派に分離し、急進派をアメリカ独立とフランス革命支持、さらにカトリック解放に導いたからであった。こうした中でナショナリズムの気運がアイルランドで盛り上がり、ついにはフランスと組んで1798年に独立を目指す反乱軍が蜂起する。しかし、この急進的な動きを封じるために、イングランドは強硬にアイルランド併合への道を進む。その一連のアイルランド併合への道のりについて、マライア・エッジワースの『倦怠』(Ennui)と『不在地主』(The
Absentee)にも言及しながら論じた。
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横山千晶(慶応義塾大学) |
身体改変の文化的背景 その2 |
「ファントムの居場所 ―― 失われた身体の行方と復活」
19世紀以降の戦争の激化が生み出したものは、欠損した身体という新たな身体であった。戦争によって四肢を失った身体は、それまでのマスキュリニティを標榜するアイデンティティを身体から奪うとともに、新たなアイデンティティを与えることになる。その基礎となったのがそこにある見慣れぬ自己身体としての断端(stump)と、ありうべき残像としての幻肢(phantom
limbs)である。それまで想像(かつ創造)されえなかったこの新たな身体はどのようにして、「居場所」を見つけていったのか。この議論では、欠損した身体がその持ち主のアイデンティティを確立し(国のために傷ついた名誉の負傷兵としての「男性」集団など)、かつ物体としての存在理由(新たな身体部位としての断端、および補綴を誘引するものとしての幻肢)を確保することを経て、ハイブリッドな身体へと変化していく様子を19世紀から20世紀の切断手術と補綴術を背景に考察してみるものである。
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アルヴィ宮本なほ子 |
ロマン主義文学における「意図せざる身体改変」
「コロニアル・プラントの変身」 |
ワーズワスの"Three Years She Grew in Sun
and Shower"では、イギリスの無垢な子供の代表的イメージとなるLucyは、「自然」に育てられる植物のイメージで描かれる。このような人間の植物化、または、植物の擬人化は、18世紀の医者・科学者かつ詩人であったエラズマス・ダーウィンのThe
Loves of the Plants (1789)に起源を持つ。今回の発表では、ある特定の土地とそこに生える植物の関係がその土地とその土地生まれの人間の関係のメタファーとなる背景を、18世紀後半の博物学の一大ネットワークの構築と、博物学者・医学者たちと文学者の多くの共通点に求め、科学と文学の交錯の中で独特のイメージを発展させた例として、ジャワ原産の「毒の木」(Upas
Tree)を取り上げる。ダーウィンがこの木を初めて英語で紹介してから、ロマン派の詩を経て、19世紀末に、アジア産の毒の木が、次第にイギリスの「毒の木」となり、遂にはイギリスがインドなどへ輸出した「毒の木」となる過程を辿りつつ、毒の木のハイブリッド性とコロニアリズムの関係を検証する。
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ロンダ・シービンガー (Londa Schiebinger, Stanford
University) |
"Hybrid Knowledge and Agnotology: The
Gender Politics of Plants in the Eighteenth-Century Atlantic
World" |
This paper focuses on the movement, mixing,
triumph, and extinction of different knowledges in the course
of eighteenth-century encounters between Europeans and the peoples
of the Caribbean. The last several years have witnessed renewed
interest in seventeenth- and eighteenth-century botany, the
"big science" of early modern Europe. Historians have
begun to analyze the importance of plants for the economic expansion
of major western European states, and to explore the role of
botany in European colonial expansion. This paper explores in
particular a new methodology "agnotology" the study
of culturally-induced ignorances that serves as a counterweight
to more traditional concerns for epistemology. Agnotology refocuses
questions about "how we know" to include questions
about what we do not know, and why not. The paper will take
up the case of how plants used to induce abortion poured into
the Caribbean from Europe, South America, and Africa, and will
look at how women mixed these knowledges morphing them into
new hybrids suitable to their particular time and circumstance.
The paper also documents how gender politics in Europe and the
Caribbean led to the extinction of certain of these knowledges
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ロバート・プロクター(Robert Proctor, Stanford
University) |
"When did humans become human? Evidence
and Ideology in Modern Paleoanthropology and Human Origins Research". |
Human origins is now an
intense field of research. New fossil skeletons and ancient
tools or art are discovered every year, and it is hard to imagine
a science more exciting, more in flux, or more controversial.
Broad disputes rage over the timing of many "firsts"--first
fire or language or clothing or jewelry, for example--and there
are struggles about whether speech was even possible prior to
the "Big Bang of the Mind" some 50,000 years ago.
Many of these debates center around differing notions of the
power of time--whether traits such as language or artistic representation
emerged relatively suddenly, for example, or over prolonged
periods of time. There is also widespread disagreement about
the significance of early tools--how Acheulean handaxes could
have been so broadly dispersed and unchanging over time, for
example--and big disputes swirl over questions such as whether
the Neandertals should be considered Homo sapiens. Some critical
anthropologists challenge the search for "origins"
itself as a flawed enterprise, pointing to the progressivist
and controlling impetus behind such a search. Cliches and stereotypes
of visual representation of ancestors are well known, as is
the narrative conventionalism of many "origins stories,"
but there are also cliches carried even in phyletic diagrams.
Human origins research can be read as a form of identity quest,
insofar as ancient human qualities are used to buttress the
idea that "we truly are what we once were." The reality
and significance of race is deeply intertwined in origins research,
with accusations of racism on all sides (e.g., in the question
of whether Neandertals were "human" question). Phyletic
diversity is celebrated in many realms, but hominid diversity
is sometimes suspected as racist--and it is hard to know whether
any two creatures really were separate species. Out of Africa
is also politicized, insofar as the exodus is celebrated as
a triumph. Ultimately many aspects of deciding when humans became
humans are moral questions without well-defined answers.
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萩原眞一(慶応義塾) |
‘Versemaking and Lovemaking’ −イェイツとシュタイナハ回春手術をめぐって |
詩人イェイツは最晩年、シュタイナハ手術と称される回春手術を受けた。オーストリアの著名な生物学者の名を冠したこの手術は、一方ではsexとcreationをめぐる20世紀前半の最新のホルモン理論に基づきながら、他方では旧来の2つの連結したパラダイム――'spermatic
economy'(肉体内のエネルギーを閉じたシステムで捉え、ある器官・組織で過度にエネルギーが消費されると、別の器官・組織でエネルギーの消耗・枯渇が起きるという19世紀の生理学的思考)と'seminal
energy'(生殖において最も重要な原動力は男性的原理が担い、女性的原理は受動的で副次的な役割しか果たさないという考え方)――に立脚している。この点を明らかにした上で、医療テクノロジーにより身体を工作したイェイツの抱懐する、性愛と詩的想像力を直結させる詩作観が、同時代の科学的な言説と直接・間接に共振現象を起こしていたのではないかということを推察した。
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神山彰(明治大学) |
「日本演劇の近代化と身体 ― 演ずることと見ること」 |
日本演劇の「近代化」は多面的に考えなければならない。従来「見物」と呼ばれていた観客の立場からすると、「近代化」の一つの側面は、椅子席に座り、固定された視点で舞台を見続ける姿勢をとらされるということでもある。それは、「芝居茶屋」に代表される多様な楽しみを含んだ空間が、客席と舞台という対立的な空間に限定されていく過程でもある。
演者の立場からの「近代化」は、一言で敢えていえば、「約束事」としての表現が解体されていく過程といえる。それは、従来は、約束事として表現されていた「歩く」「走る」という「芸」を、実際に舞台上で、直進し、歩き回りつつ、台詞をいい、演技をするという転換だった。また、音声の上からも、台詞のレトリックの妙が否定され、「簡潔な表現」が価値化される。また、従来の下座音楽やツケの効果音が満ち溢れる、いわば「装飾された沈黙」という「約束事」から離れた、沈黙の表現がなされる過程でもあったのである。
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中村哲子(日本医科大学)
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「見せしめ/抵抗 のviolated bodies ― 悲劇的インタールードを中心に」 |
イギリスでは、1560年代に、登場人物のviolated bodiesを直接舞台上で提示するという特徴をもつインタールードが登場する。『カンビュセス』(Cambises)、『アピウスとヴァージニア』(Appius
and Virginia)、『ホレステス』(Horestes)において、それぞれに登場する蹂躙される身体は、悪事を犯した結果として見せしめの意味をもつとともに、権力側の暴力に抵抗する身体の表象ともなっている。そのどちらを観客が感得するかは、暴力を加える権力者が為政者としての正義と法に則っているかどうかに関わってくる。権力者に対する観客の判断が、その被害者の身体の意義を左右するのだが、その判断はまた被害者のviolated
bodiesが舞台上でいかに提示されるかにもかかってくる。この一連の劇的身体の扱いは当時認識されていた「王の二つの身体」の問題とも関わっており、エリザベス朝初期の政治的混乱期に、王のthe
body politicの重要性を認識していた劇作家の存在を示している。
<コメント>
末松良道(武蔵野大学)
中村先生はこの発表で、インタールードにおける蹂躙された身体がどのようにステージ上に提示されたか、あるいは、逆に提示されずに使者により報告されるなど、背景として描写されるだけか、ということを、観客の視点から跡づけ、劇作家が、暴力の提示の有無や方法において、観客心理を操作しようとしたかを議論された。簡単に言えば、蹂躙された身体をみせるか、あるいは隠すか、見せる場合にどれだけをどう見せるか、ということに帰結するだろう。これを中世イギリス、ギリシャ、ローマの演劇の伝統の中で位置づけるべくコメントした。
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小菅隼人(慶応義塾大学) |
「身体切断と〈嘆き〉―『タイタス・アンドロニカス』を中心に」 |
本論では、『タイタス・アンドロニカス』(The
Most Lamentable Roman Tragedy of Titus Andronicus, 1593年頃制作)における〈嘆きの台詞〉(Dramatic
Lament)の使用法を考察した。この劇において、最も悲惨かつ不幸な事件はラヴィニア(Lavinia)の陵辱と身体切断にあるが、その際、身体を失うことに作者が持たせた意味に重点を置きつつ、第2幕第4場と第3幕第1場の陵辱された娘の登場と叔父および父親との対面の場を、本発表では中心的に扱った。ラヴィニアと対面する際の叔父マーカス(Marcus
Andronicus)と、次に対面する父親タイタス(Titus Andronicus)では、〈嘆きの台詞〉の造型と効果が大きく異なる。本論において、筆者は、まず第2幕第4場を、続いて、第3幕第1場を考察した後、特にタイタスの〈嘆きの台詞〉の意味を、観客受容における復讐の正当化との関連で明らかにしようとした。
<コメント>
安田比呂志(日本大学)
ジャスパー・ヘイウッドは、『ティエステス』の「梗概」で主人公が「"wonder"を喚起するように苦悩した」と解説しながら、原典にはない5幕4場を付け加えて「嘆き」を強調している。"wonder"は、シドニーが悲劇を定義する際に用いた"admiration"と密接に関連する言葉であり、「嘆き」は悲劇の本質的要素であった。小菅論文は「嘆き」を「文学テキスト」としてよりは「演劇の台詞」として体系的に分析しようとする点で示唆に富む新しさを持っている。
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野村伸一(慶応義塾大学) |
「観音の姿態変容と東アジアの演戯文化」 |
中国南部では中元を中心として目連戯という祭祀芸能がおこなわれている。これは千年近い歴史のあるもので、なぜこのようなものが維持されたのかはいろいろ探究される価値がある。私見では、その要因のひとつに観音信仰との結びつきがあると考える。今日、目連戯が最も盛んなのは福建省の中南部であるが、そこでは観音が若い女性、あるいは力強い女神として現れる。
今回は東アジアにおける観音の姿態変容に注目してその展開過程をあとづけようとした。観音はインドから中国に伝えられ、はじめは男性の菩薩として崇拝された。しかし、六朝から唐の時代以後に女性化していく。そして、そのことで、観音は多彩な姿態変容を遂げていく。その際、東アジア宗教文化の根柢に女神信仰があったこと、女性の山の神とそのもとにおける竜蛇への信仰や霊魂の再生観念などが観音信仰と何らかのかたちで結び付けられたこと、また、中世の苦難の時代の経験とそこにおける代受苦の女性が観音の化身とみなされること、観音の住む補陀落浄土への往生願望が盛んになったこと、そして、語り物や芸能による再生産(とくに竜蛇の姿態変容というかたちで仏教、道教の世界へ導くこと)がみられたことなどは重要である。
要するに観音の文化は複合的なものである。そして目連戯という祭祀芸能は、この文化複合のなかにはいりこむことで、中国南部の多くの人びとを惹きつけてきた。以上のことを図版を通して概観した。
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坪川達也(慶応義塾大学 生物学教室) |
「進化生物学から見た個体の生と性」
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今回、私は究極の生物学的「身体改変」であります「進化」に挑戦し、生物の伝達する情報的側面を取り上げ、それは物質の存在に依存する一次的情報であることに注意を促し、進化生物学とは情報としての生物を扱う数学であることを説明しました。情報伝達には間違い(突然変異)が生じることは避けられませんが、進化生物学的には、これは情報の劣化ではなく、情報の表現型(機能)に影響の無い中立なもので、情報の多様性(ハイブリティティ)をもたらします。この多様性は、特に環境が悪化した場合に真価を発揮し、その環境により適応できる情報と機能を持つもののなかから、有利さの2倍の平均値という「偶然」を勝ち取ってで生き残り、新しい集団へと変化(メタモルフォーゼ)するのです。真核生物及び多細胞生物では、2倍体と性というシステムを使ってより効率的に生きていますが、上記の議論は情報伝達をする生物全体に当てはまり、決して最も有利なものが絶対に生き残るのという訳ではないのです。
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