3月29日(月) |
「Fasting (Wo)men―20世紀転換期の食とジェンダー」
宇沢美子(都立大学)
19世紀拒食症は本当に女の病だったのか?アメリカではanorexia nervosaの病名よりも、俗名fasting
girlsの方が多く使われていたし、Mollie Fancherはじめ、1910年代までにジャーナリズムの奇妙な花と化した長期にわたる拒食を実践する拒食者たちは確かに女性ばかりだった。神経学者のWilliam
A. Hammondらは、同時期に流行していたヒステリーと結びつけ、長年食べていないという拒食者たちの主張を騙りと断じた。その結果、拒食は女の、それも嘘つきな女の病というイメージが作り出された。だが、拒食が病と化し拒食症として1870年代に登場する以前/同時期/以後をみてみると、そこにはもっと違う、拒食のあり方が複数存在していたこともまた事実だった。
19世紀を通して拒食は病気という以上に、より広い文化的コンテクストを担った行為であった。たとえば紳士淑女を作るための家庭教育、食欲のみならず性欲を抑制させる食餌治療、アメリカ知識人の病としての消化不良の流行、20世紀転換期に流行した究極のmasculinityを求める断食療法等において、拒食はさまざまな意味を付加され、実践されていた行為であった。
こうした幅広いコンテクストから読み直すことでむしろ、拒食症=女の詐病という定義づけ自体の特異性が浮き彫りになるのではないか、という問題提起を本発表では試みた。
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「『ダロウェイ夫人』における<食餌と身体>のジェンダー・トラブル
−「食えない女」の物語から「食えない男」「むさぼり食う女」の物語へ」
加藤めぐみ(東京学芸大学非常勤)
ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)は、自身が生涯、拒食症的な症状に悩まされていたが、『ダロウェイ夫人』(1925)の主人公クラリッサ・ダロウェイもまた「控えめな食欲」「拒食症的な身体」を持つ上流階級の婦人として、「食えない女」「痩せた女の身体」が審美化されはじめたヴィクトリア朝以降の「食餌、身体、ジェンダー」をめぐる表象システムに従って描かれている。そのようなクラリッサの表象、およびテクスト全体には「身体より精神、女性性より男性性、感情より文明」に優位をおく「拒食症的論理」(Leslie
Heywood)が一貫して見出されるが、その論理は、テクストに「食えない男」セプティマス、「むさぼり食う女」ミス・キルマンが描かれることで破綻を来たす。「去勢された拒食症的男性」「過食症的フェミニストの過剰な欲望」はまた、男性性への不安、女性性への恐怖といった大戦間のモダニストたちが抱いていたジェンダー・トラブルの表れでもある。さらにテクストは「ダロウェイ夫人/食えない女の身体=死体」への危険な欲望/快楽を、テクストの最後に刻印することで「拒食症的論理の破綻」を補完している。
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「漱石の食事法」
阿部公彦 (東京大学)
漱石作品には頻繁に「食」の場面が出てくる。漱石は「食べる」という行為について非常な自意識家であった。その主人公たちにとって多くの場合、生きるということは「いかに食べるか」と同義でさえあった。ただし、作品中でハイライトされるのは食べ物の美味しさや美しさではなく、食べる主体自身の問題である。味覚や料理をめぐる趣向などよりも、食欲や、消化具合や、食事に伴う事件こそが重要となる。初期三部作といわれる『三四郎』、『それから』、『門』に焦点をあててこの問題を考えてみると、興味深い事実が見えてくる。それはどちらかというと観念や隠喩として使われていた「食」が次第に、言葉では言い表せないような、えも言われぬ生のリアリティを担わされていくということである。「食」の重心が、観念的な「腹」から生理的な「胃」へと移る。なぜか?『門』は漱石の精神病発病期に書かれた作品である。「食」を人格造形の芯に置き、「胃的なるもの」を土台として人物の意識や病の感覚、リアリティの基盤などを構築することが、同時に、「神経」の問題と関
係してくるのである。「食」の意識は、漱石が終生が抱えていた「狂える自己」の意識と対になっている。胃弱者として「食」とのデリケートな関わりの中でアイデンティティを確立するということは、精神の病をコントロールすることとつながるのである。
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「バイオグラフィア・ディスペプシア――カーライルの身体と“胃弱”の発見」
石塚久郎 (上智大学)
19世紀ヴィクトリア朝を席捲した新しい流行病「ディスペプシア」(“胃弱”“消化不良”)とはいかなる病だったのか。本発表は、胃弱のイコンとなったヴィクトリア朝を代表する文人、カーライルの生涯に渡る胃弱の身体経験とその(食)養生法(バイオグラフィア・ディスペプシア)を通して、ディスペプシアの日常的な諸面を検証した。資料となったのはカーライルが残した膨大な書簡集である。『回想録』の中での胃弱者の「告白」にもかかわらず、書簡集の中では、持病を「胆汁」の病(biliousness)として捉えていたことを最初に検証した。肝臓疾患ともされる「胆汁」の病は一般大衆レベルでは、ディスペプシアが担う消化器系を中心とした慢性病の総体として使われていた。カーライルが持病を胆汁病と認識していたのもこのためである。カーライルの書簡に記される胃弱な身体への対処法たる食餌法と彼の愛用薬であるカスター・オイルの使用法を見ることで、胆汁病やディスペプシアが日常的些細事と自己が折り重なる所に「発見」されること、カーライルの身体がその発見を生きていることを検証した。最後に、ディスペプシアの死なない病としての側面をカーライルの人生の凡庸さと長生きに重ね合わせて考察した。
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「中世イスラーム世界の美味しい料理と体によい料理」
尾崎貴久子 (防衛大学)
本発表は、中世イスラーム世界における“美味しい料理”と“体によい料理”とはどのようなものだったのか、を9世紀から編纂されたアラビア語料理書・医学書類から検討したものである。料理書のレシピから、中世イスラーム世界において最も好まれた料理とは、酸味と甘味で味付けがなされた、羊肉あるいは鶏肉の煮込み料理であった。酸味料としては、酢や乳製品、そして果汁類が、甘味料には蜂蜜、砂糖、ナツメヤシが用いられた。
アラブ医学では、ギリシャ医学の体液病理説を受け継ぎ、各人の体液のバランスに影響を与える重要な要素として食べ物は位置づけられた。中世イスラーム世界の都市の支配者層や富裕層に属する人々にとって、そうした食べ物の医学的性質および効能、どの食品や料理が自分の体質に適しているかを見極める知識は、身につけるべき教養のひとつであった。実際にアラブ医学理論に基づく食養生法を彼らは忠実に実践していた。
医学者ラージー(ラテン語名ラーゼス)をはじめ多くの医学者が食養生書に関する書を執筆した。彼らによって提唱された食養生法とは、“体によいもの”を選択し、“美味しい料理”が体に適さない場合は控えるといった食物の取捨選択ではなかった。各種の美味しい料理を、“いかなる体質の人間にも適する、体によい料理”とするために、医師が提供する施策(材料、調理法の選択、食べ合わせ)を選択し実行することであったといえよう。
イスラーム世界の“美味しい料理”は、ヨーロッパでのアラブ医学の受容に伴いアラビア語名のまま14世紀以降にヨーロッパでも伝播し、各地の料理書に記録された。
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「『NOBU:ザ・クックブック』に見られるアメリカにおけるジャパニーズ・フードの再発見」
今井祥子 (東京大学・院)
近年のグローバリゼーションの与えた、人々の食生活の多様化という影響の一つの事例として、アメリカ合衆国での日本食の人気隆盛の現象がある。ノブこと、松久信幸は、日本において寿司の修行を積み、アメリカにてレストランMatsuhisa、NOBUの開業で成功を収めた。そして、2001年に『NOBU:ザ・クックブック』を出版し、彼がこれまでレストランで提案してきた、「ノブスタイル」と呼ばれる彼独自の新しいジャパニーズ・フードを集大成させた。彼の料理は単に伝統的な日本料理という枠組にはとどまらず、南米での経験から現地のスパイスやソースを使った料理や、西欧風の味付けや食材を使用した料理が組み合わされた、いわゆる融合料理(fusion
food)である。「ノブスタイル」の提唱は、これまで定着しつつあったアメリカ人の嗜好に合わされたテリヤキなどの肉料理とは異なり、近年のスシの流行をうまくとらえ、日本の伝統的な料理法と彼の異国での経験によって生み出された、魚介類を中心とした斬新で創造的な試みであるといえる。それらが人々に受け容れられているという事実がアメリカにおける、新たなジャパニーズ・フードの「再発見」の現象である。新しい創造性の高い「ノブスタイル」はエキゾチックでありながらも本格志向の料理として、文化、階級の象徴としての食やアイデンティティの問題を包含しつつ、人々に受け容れられているといえる。
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3月30日(火) |
「哲学者の食卓 : わたしたちは、誰と食べ、いかに食べ、何を食べるのか」
河野哲也 (防衛大学)
食卓とは、個人的な生理(欲求・快楽)が社会的交流にさらされる場である。食卓は社会のモデルであり、食卓の何に配慮するかはその時代の社会像を反映する。食卓は個人の生理が陶冶される場であり、どのように食事を取るかはその時代の真理(知識・教育)観を反映する。本発表では、古代ギリシャ・ローマのプルタルコス、人文学復興期のエラスムス、ロックとヴォルテールの近代のテキストを検討し、哲学者の食卓・食事観の変遷を追った。
古代ギリシャでは、食卓(社会)は教養ある議題について語り合い、自らの知性を陶冶する場と見なされていた。食物(真理・知識)は自由な議論によって得られ、人々に共有されるべきものだった。エラスムスでは、食卓=社会は個人主義的な利益追求の場となる。それゆえこの時代では、市民階級においてもテーブル・マナー(公共の場での相互制限のルール)が求められるようになる。食物=真理の摂取は個人化されると同時に方法論化される。近代のテキストでは、食卓=社会は異質な文化的グループの混合の場となる。食卓=社会は異質性を包含できる「寛容さ」をもつべきであり、そのことによってのみ社会は近代的国家として発展しうる。しかし国家という枠組みの外におかれた文化的グループ、すなわち、植民地においては「寛容さ」が適用されることはなく、搾取の対象となるだろう。現代の哲学はむしろギリシャの知恵に戻り、食べることのただしさ、すなわち、知識陶冶の場として公共空間の可能性を追求すべきだろう。
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「カントと「食」――味覚と吐き気の拒絶する自由と距離――」
知野ゆり (法政大学・院)
カントの「食」の命法は、「よく味わってから食べなさい」。換言すれば、主観が味覚・趣味・理性によってよく吟味してから対象を享受しなさい、である。「享受(Genus)」は味わう主観と味わわれる対象の個別性を排した一体化を意味するのに対し、「味覚[趣味](Geschmack)」はお互いの個別性を保ったまま主観が対象を受容すべきか否かを判断する。そしてこの味覚[趣味]による社交の場=食卓は、カントにとって人間を「開化」へと導く最高の舞台であった。カントは(1)食物を味覚によって、(2)食事仲間を会話の趣味によって、(3)自分自身を自らの理性が規定する養生法によって、吟味し、支配する。そして、享受を押し付けてくるもの――腐敗した食物の臭い、エゴイズム、心気症、香水の匂いや音楽(!)ですら――に対しては、味覚[趣味]とともにその裏側で「吐き気(Ekel)」が作動し、拒絶する。カントにとって味わう主観と味わわれる対象とは、いずれの場合でも、完全に個別ではなくしかし完全な一体化でもない、距離を保った付き合い方が必要なのである。
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「近代的生活様式と食文化―近代的生活様式と食の多様化」
長島隆 (東洋大学)
「欲望」は本源的欲望であるBeduerfnisと意識性を媒介にする社会的欲望Begierdeとに区別される。この後者こそが今日のわれわれの子どもから大人への「陶冶」において問題となる。欲望とは本来自己が欠如していることを意味する。欲望充足によって自分の外にあるものを自分のうちに取り入れることによって、外にあるものと内なる自己との区別が自分の中身を作り出すことになる(内化)。
子どもは欲望充足を介して、母親と自己の一体性から母親と自分を分離し(第1次反抗期)母親―自己−父親の関係を作り出す。したがって子どもが欲望を介して自らを陶冶する家庭は子どもが自分の世界を作り上げる「世界形成」のプロセスである。
食とは、婚姻した家族、妻と夫の「文化闘争」によって新しい文化形成の頂点にある。この闘争によって作られた文化の社会への窓口は子どもの食であり、新しい食材とかさまざまな味覚は子どもを介して流入する。この新しい食材、味覚にたいして開放的であるかどうかによって食文化が洗練されるのか崩壊するのかは決定されるだろう。
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「媚薬――中国性技法における“食”」
梅川純代 (ロンドン大学PhD)
“色、食、性なり”という孟子の言葉に代表される人間の欲求としての性と食。また、養生というカテゴリーにおける房中術と服食法という、生命のための性と食。本発表では、人間の欲求と生命という二点を端緒として、中国における性と食を、房中術の服飾技法、特に媚薬に焦点を絞って考察した。性の技法である房中術に関する認識的な変化は宋代(960〜1279)に顕著となり、「医学」ではなく「道教」の技法であるとする意識が高くなった。媚薬に求められる効能及び摂取法も宋代を境として変遷が見受けられる。生命維持のセックスを支える食という役割から、性快楽や性欲を増進する食へと、その守備範囲が広がる一方で、媚薬という固体は口からだけではなく性器からも摂取されるようになっていった。こうした媚薬の変化に関しては、社会・思想背景と重ね合わせた考察が今後必要であるが、生命維持から快楽という欲求への需要がより高まっていったということは指摘できるだろう。
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「江戸人の消化:こなれのイメージとハラの病」
大道寺慶子 (ロンドン大学・院)
江戸時代末期、平野重誠による養生書『病家須知』を中心とし、当時の消化の概念と消化不良、特に「食傷」を取り上げハラの病との相関性の一端を探った。江戸文学などでは食傷は専ら食あたりと理解されるが、中国伝統医学では、食傷はもともと過食・不摂生な食事が原因とされる。その乖離は何故生じたのか。その背景に「こなれ」のイメージが深く関わっているのではないかという推測を基に考察を進めた。
『病家須知』を初めとする江戸の養生書で、消化に関する最も一般的な語は「こなれ」である。語義的な解釈から、こなれには(1)食べ物を臼で挽く(2)体内にある釜で食物を煮炊きしどろどろにする、というイメージがつきまとう。そこから、食べ過ぎると食物はこなれず胃中に停滞し腐敗するという説も現れた。
ここで一旦食傷に目を向けると、その発想はより明らかになる。食べ過ぎると、臼の目がすり減るように、釜の火力が足りなくなるように、食物はこなれず胃中に滞る。停滞した食物はこなす「熱」で「腐敗」し「毒」を生成する。このように体内で食物を腐らせるのは、腐敗物・毒物を食すのと同じく危険であるとみなされた。また暑い夏に食物が腐りやすくなるのは自然の摂理である。こうして毒・熱・腐敗という共通因子でつなげられ、過食に因る食傷と、食中毒としての食傷がだぶったのではないかと思われる。
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「Bram Stoker のDracula(1897) と ヴィクトリア朝のGreat
Food Question 」
小宮彩加 (明治大学)
ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』(1897)を書いたヴィクトリア朝末のイギリスでは、肉食の大衆化が見られた一方で、ヴェジタリアニズムが流行するようになっていた。その結果、人間はそもそも肉食動物なのか、それとも菜食動物なのだろうかという疑問(Great
Food Question)を人々は抱くようになった。ブラム・ストーカーはヘンリー・アーヴィングのマネージャーとして、彼のライシーアム劇場でビーフ・ステーキ・クラブの運営にも関わっており、肉食派であるように見える。しかし、『ドラキュラ』を「食」に注目して読み直すと、この作品には肉食社会の行く末を案じるストーカーの不安が表れていることが分かるのである。ドラキュラと、ドラキュラを退治する男たち、そして肉食動物患者レンフィールドの食を中心に『ドラキュラ』を考察し、一見ハッピーエンドに見える『ドラキュラ』の結末に秘められた不穏な続きを明らかにする。
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「肉食という体格改良への道
―明治期日本における牛肉食導入プロセスと身体改造―」
真嶋亜有 (ICU・院修了)
明治期日本における牛肉は、文明開化の象徴としての、文化的記号だけではなく、国民国家の形成過程における政治的記号の意味も併せ持っていた。それは日本の牛肉食文化の形成が朝鮮植民地産業によって維持発展されたという歴史的事実に基づいている。即ち、近代日本の帝国としての象徴を、肉食は担っていた。
明治期日本の牛肉食導入の原動力となったのが、肉食という食餌の主体的選択による身体改造であった。明治初期の漠然とした身体的劣等意識と宗教的嫌忌意識が交錯した抽象的肉食論は、明治中期には医学雑誌を中心に身体改造手段として具体化する。特に日清戦争を契機に高揚し始める国家的自尊心によって、肉食論は単に栄養学的見地を越え、牛肉食こそが国家的生存競争に打ち勝つ強国の鍵であり、文明化を図る指標となる。
然し明治期日本には、牛肉を主体的選択出来るほどの食用牛は無く、実質的に生産体制化されるのは、朝鮮植民地化以降であった。「天が与えた一大牧場」と絶賛された朝鮮畜産業は格好の植民地産業となり、同時に朝鮮半島へ移住した多くの日本人による豊富な牛肉食体験を通じ、牛肉は帝国の味覚として、漸く日本人の嗜好に浸透し始めるのである。
かくして牛肉食は次第に浸透しつつも、理想と掲げた身体改造が牛肉によって実現はしなかった。身体改良は生活全体の変革を必要としたからである。然し意識と実質との距離が乖離していたかつての肉食が、100年後の現代に"牛丼センチメンタリズム"を共有する程の牛肉食文化となった背景には、近代日本の歴史的過程において人々が肉食に託した身体改造という幻想と其の残響が刻まれているのである。
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