「ロマン派的身体――Percy & Mary Shelleyを中心に」 | ||
アルヴィ 宮本 なほ子(千葉大学) | ||
1.序論
2.プロメテウス神話の変奏――Blake, Mary and Percy Shelley 3.結論
1. 序論 Barbara StaffordはBody Criticism(1997)で、18世紀後半から19世紀初頭に、医学と芸術が手を取り合い、蝋の人体模型の公開等を通じて科学の啓蒙が行われたのだと説く。異臭を放つ屍の解剖、アルコール漬けのグロテスクな標本から蝋の人体模型へという医学的展開は、イタリアとフランスの多くの蝋細工職人たち、つまり宗教芸術の工人の手によって実現された。解剖された身体と殉教した聖人の身体が美の同じ工程で制作される時、生命の神秘という神の領域に解剖学者がメスをふるう時、皮膚の下に隠された生物学的部分は白日の下に曝されて蝋の人体模型の中に永遠に凍結される。スタフォードの言うように、科学と芸術が手を取り合った啓蒙主義の勝利である。だが、そのような模型の制作過程にまつわる「闇」や「恐怖」は、啓蒙主義の光の前に放逐されたというわけではない。蝋の人体模型(ceroplastics)が17世紀後半、シチリアの蝋人形師Gaetano Zumboに始まった時、人々はペストの恐怖を具現したズンボの作品に恐怖したが、その100年後、教育を旨としたフィレンツェのFelice Fontanaの蝋の人体模型の精巧さを見た人々は、その制作過程での分断された身体の部分とその接合を想像してやはり身震いしたのである。 フォンタナが監督し1775年にオープンしたフィレンツェの人体模型博物館には多くのイギリス人がForsythのガイドブック、Remarks on Antiquities, Arts, and Letters, during an Excursion Italy in he years1802 and 1803(1813)を持って訪れた。Frankenstein: or Modern Prometheus(1818)を書いたメアリー・シェリーも1820年、Gabinetto Fisico訪問している。夫のパーシーやメアリーが参考にしていたフォーサイスは、しかし、「この恐ろしい領域」の一般公開に諸手をあげて賛成していたわけではない(34)。啓蒙主義の科学の粋を具現したフォンターナ制作の等身大の多色の人体解剖模型は、ズンボのバロック的な恐怖の蝋細工の対極にあるとスタフォードは論じるのだが(65‐66)、当時の人々は、一般公開による教育効果だけでなく、医学者のみが知るべき神秘を見る恐怖とその制作過程への恐怖をひしひしと感じていた。「恐ろしい」地下工房のイメージは、ズンボの作品を見たアメリカ人Longfellowの感想に詳しいが(Outre-Mer 233-34)、ここで興味深いのは、ロングフェローが想像する、ズンボの暗い想像力と地下工房の記述は、スタフォードが想像するフォンターナの工房とそっくり同じであり(66)、それはまた、メアリー・シェリーのヴィクター・フランケンシュタインが怪物を創造した部屋と重なる。20世紀になっても人々の感性はそう変わらない。ロジェ・グルニエが「フラゴナールのフィアンセ」(1982)で描く解剖学者アンリ・オノレ・フラゴナールのエコルシェ(皮剥標本)―皮膚を剥がされ、骨や腱、筋肉や血管が露出した騎馬像―は、彼の従兄弟の画家ジャン・オノレ・フラゴナールが啓蒙主義の光を体現したとすれば、その闇の恐怖を、グルニエの読者を含めて見る者に与える。 ヴィクターやフラゴナールには”Modern Prometheus”の暗い側面が纏わりつく。HazlittがJohn Hunterの解剖の技ををミケランジェロが大理石から芸術を切り出すのに喩える時(“The Indian Jugglers”[1821])、そこには輝かしいプロメテウスのイメージがある。どちらの場合も、一人の人間の中で医者、芸術家、工人の境界は曖昧になり、創造者として神の領域に限りなく近い創造――プロメテウス的創造――が行われる。ロマン主義の時代の身体観を考える時、プロメテウス的芸術・創造・身体――分断された身体とその有機的統合――は無視できない。以下、このような創造/想像行為が生み出す身体の光と闇について考察する。
2.プロメテウス神話の変奏――Blake, Mary and Percy Shelley イギリスの伝統的プロメテウス像は、SpenserのFaerie Queeneに見られる。“It told, how first Prometheus did create / A man, of many partes from beasts deriued / And then stole fire from heauen, to animate / His worke, for which he was by Ioue depriued / Of life him self, and hart-stings of an Aegle riuved(Book II, canto x, stanza 70)ここで語られているプロメテウス神話は、ローマ神話の土から人間を創造する人類の文明の祖としてのプロメテウスであり、「動物と混ぜて」というのはホラティウス以来である。スペンサーがここで述べている「人」とは、妖精族なのだが、18世紀を通じてプロメテウスが泥土から人間を捏ね上げる(Erasmus DarwinのBotanic Garden[1791]ii.112)というイメージは連綿と続く。 このようなラテン系のプロメテウス神話に対して、ギリシアの火の神、アイスキュロスの描く天上の火を盗み人類に文明をもたらした反逆の徒としてのプロメテウスは、ゲーテの「プロメテウス」(1773)に見られるように、18世紀後半、新しい神話としてヨーロッパを席巻する。神に反抗する人間、ヨーロッパ的知・文明の祖としてのプロメテウスは、ラテン起源の創造者としてのプロメテウス像を取りこみ、ロマン派の時代の新しいプロメテウスは、ヨーロッパ的知――生命の火を司る医学を含めた科学――と芸術のシンボルとしてヨーロッパ規模で迎え入れられることになる。 ヴィンケルマンは、『古代美術史』(1764)の銅板画の一つに、古代の浮き彫りに基づく人間を創造するプロメテウスを入れた。芸術の起源を、ばらばらになった身体各部を組み合わせて人間を創造するプロメテウスに求めたのである。自立した自由な人間の身体と有機的に統一された芸術作品は等号で結ばれるのであるが、断片化された各部分から有機的統一体を創り出すプロメテウスという起源の光景は、神の如き「無からの創造」ではなく、分断と「混沌からの創造」(『フランケンシュタイン』1831年版序文)である。分裂・断片と統合の関係は、決して前者から後者への一方的進化ではなく可逆的である。誕生以前の部分化、断片化された状態から統一された身体を夢想するように、有機的統一体から誕生以前の部分の集積の状態を否応なく想起してしまうからである。 イギリスでは、この時代に様々なプロメテウスのイメージが生れる。ヨーロッパロマン主義のシンボルである、医学、芸術の祖としてのプロメテウスに加え、縛られたプロメテウスというイコンは、政治的コンテクストでは圧政に喘ぐ非ヨーロッパの国を象徴した。このコンテクストでは、虐げられる者として女性のプロメテウスも現れる。BlakeのVisions ofthe Daughters of Albion (1794)では、“the soft American plains”(I.20)が女性のプロメテウスとして鷲に陵辱されている。様々なプロメテウス像が現れるなか、ヴィンケルマンの図版に示されたようなバラバラな体・部分から人間(生命・作品)を創造するプロメテウスはイギリスではどう変奏されたか。このことを、ブレイクとメアリー・シェリー、パーシィ・シェリーの作品から見ていく。 ブレイクにおいては、工人・生命の創造者としてのプロメテウスは、“The Tyger”(1794)で、”fearful symmetry”「恐ろしき均衡」を誕生させる。夜の森で煌煌と燃えるエキゾティックな生命体を創造したのは誰かと問うこの詩では、「造物主」(=神)は、プロメテウスのイメージを持ち、新しい生命=作品(”work”)は炉で鍛え上げられる。しかし、神は不在である。ナレーターは、造物主はこの「作品」をみて微笑んだろうかと想像するだけである。Jean-Jacques Lecercleは、ナレーターは、質問することで、不在の創造者に代わって殆ど創造者の位置を獲得していると言う(The Violence of Language 46)。そして、ブレイク自身は答えを出している。“What the hand, dare seize the fire?”(stanzas 2, 8) と言う時、”fire”が当時詩的想像力の輝きを意味していたことを考えれば、プロメテウスの炉は想像力の炉であり、その燃盛る火を捉えるのは詩人である。第4スタンザ、“What the hammer? What the chain, / In what furnace was thy brain? / What the anvil? What dread grasp, / Dare its deadly terrors clasp?”が想起させるのは、“A Divine Image”(Supplementary Plate)の詩人=工人のLosが、鉄床に創造の大ハンマーを撃ちつけ、創造力/想像力のシンボル太陽を詩の言葉へと精錬している図であろう。そして、そこには、テクストとデザイン両方を統合した光彩版画を創り出す詩人=工人・鍛冶師ブレイクが重なる。 だが、この「恐ろしき均衡」、1行目で夜の森で燃盛る虎は、金色と黒のストライプに分断され、第二スタンザ以降、創り出された作品も不在の創造者も”hand,” “eye(s)” “feet,” “heart,” “brain,” “wing”などの部分に解体され、後にフランケンシュタイン博士が”the instruments of Life”と呼ぶ”hammer,” “chain,” “furnace,” “anvil”という創造行為のメトニミーのみが強調される。ヴィンケルマンと同様に、ブレイクも統合された有機的身体を作り上げる溶鉱炉の作業が、断片化の作業を前提とするという恐ろしい均衡の上に作品を成立させている。ここで生れるのは、未知の恐ろしい生命体、あるいは、恐ろしい均衡を持った芸術である。だが、プロメテウス的創造によって新しくうまれた「生命」=「芸術」が何故猛獣なのか、しかも、アジアの。この問題は、シェリー夫妻の作品にも関連してくる。 シェリー夫妻は、プロメテウス的創造の医学的、神話的コンテクスト両方に精通しており、時代を牽引した医学者、William Lawrenceと交流があった。パーシィは、“Physician”になろうと真剣に考えていた時期があり(Letters 1:144)、1813から1814年にかけて、医学書を読み漁り、John Abernethyの解剖学の講義に出た。この解剖学講義で実験助手をしていたのが、Blumenbachの比較解剖学の翻訳を出し(1807)すでに有名になりかかっていたローレンスで、彼は、1815年からパーシィのホームドクターとなる。1816年3月、ローレンスは、”On Life”と題された記念講演で、生命とは、生命体が行う“assemblage of all the functions” であると述べる。メアリーのヴィクター・フランケンシュタインにも通ずる部分・機能の集積である身体という考え方が披瀝されている。同年6月シェリー夫妻はスイスへ向かい、バイロンとの交流の中でFrankenstein: or Modern Prometheusの着想が生れた。帰国後、パーシィは再びローレンスにかかり、イタリア行きを決意する。 メアリーの”Modern Prometheus”は、ギリシア、ローマの流れを汲むプロメテウス神話に現代の神話として科学――天上から盗まれる生命の火は電気の火花となる――を付け加えたものであるが、生命の神秘を司る現代の医学者は、土塊を捏ね上げるプロメテウスのイメージを踏襲している。第1巻3章でヴィクターは、 “I pursued nature to her hiding places….I dabbled among the unhallowed damps of the grave, or tortured the living animal to animate the lifeless clay”(36)と述べる。下敷きになっているのは、プロメテウスの人類創造と神によるアダムの創造であるが、”dabble”という動詞は”to move. . . in shallow water or liquid mud, etc.”(OED)ということで、土を捏ねているプロメテウスを想起させる。この動詞は、Waldmanが講義で近代化学を讃辞するところでもまた使われる。老教授は、ヴィクター同様、科学者は自然(=女性)の隠れ家へと侵入し(”penetrate”)、その手は、”dabble in dirt”をするためににみ創られたように思われると言う(I:30)。ヴィクターの「土塊に生命を吹き込むために動物を苦しめた」という記述は、スペンサーの動物の部分を混ぜて創られた人間のエピソードを異種間の臓器移植の現場へと、フォンターナの工房以上の暗い恐怖、神の領域へと一線を越えた近代科学が与える恐怖へと作り変えている。 ヴィクターが見た「狂気の夢」は、「アダムの夢」が反転したものであり、健康に輝く恋人エリザベスが医学(ヴィクター)の死のキスで病死した母親に変わり、それが蛆虫、死体、そしてついてにはモンスターへ変容する(I:39)。目覚めた時ヴィクターが見たのは、“Oh! No mortal could support the horror of that countenance. A mummy again endued wit animation could not be so hideous as that wretch.”(I:40)であった。”mummy”という言葉には、死体(”Dead flesh”)、ミイラ、母親(18世紀後半から”mamma”の口語体として子供が使うようになった[OED参照])の3つの意味が重層的に響きあい、彼が捏ねていたものが何かを示すヒントになる。 ヴィクターは、美しさ、均整に気を配って各部分を配置して新しい人間を作ろうとした(” His limbs were in proportion, and I had selected his features as beautiful”[I.39])。しかし、現代のプロメテウスが捏ねた死体、母/女=土は、均衡の欠けたひたすら恐ろしいものを生み出すことになる。”Beautiful!?Greaet God! His yellow skin scarcely covered the work of muscles and arteries beneath; his hair was of a lustrous black, and flowing; his teeth of a perly whiteness; but these luxuriances only formed a more horrid contrast with his watery eyes, that seemed almost of the same colour as the dun white sockets in which they were set, his shrivelled complexion, and straight black lips.”(I.39)漆黒の髪と黄色い皮膚からモンスターの黄色人種説が生れるのだが、ブレイクの虎も、黒と黄色を特徴とするアジアの獣であったことを思い出そう。 では、ロマン派のプロメテウス的創造は、異国の恐ろしい異形のものを創り出してしまうのか。こういう結論に飛びつく前に、1820年のパーシィの”The Witch of Atlas”を考えてみる。約600行のこの詩作品は、ギリシア神アポロとアフリカのミューズの間に生れたハイブリッドな少女神を主人公とし、彼女の誕生の地アトラス山からエジプトに至るアフリカ大陸横断旅行を描いている。ロマン主義の時代の「オリエンタル」物は、『アラビアンナイト』も含むことからわかるように、ヨーロッパ以東の「エキゾティックな」場所――北アフリカ、エジプト、エチオピアからインドまで――を想定していたので、パーシィの作品も広義のオリエンタル物である。だが、この詩は単に幻想のオリエント/アフリカを夢想したものではなく、そのテーマは、当時アフリカ協会がやっきになって行っていた暗黒大陸探検、”Hybrid”という言葉が科学者たちの間で引き起こしていた論争と深くリンクしていた。18世紀後半、”Hybrid”という言葉は、異種の植物間の”monstrous production”であり、”The seed of hybrid plants will not propagate”(3rd edition of the Encyclopaedia Britanica [1797] 8:795)と定義されていた。この概念はJ.F.Blumenbachの”On the Natural Variety of Mankind”の第3版(1795)で、人類は一つの種であるというmonogenesis説の枠組みの中ではあったが、人類にあてはめられるようになる(201-18)。当時は、異なる人種間の混血とは主に白人種と黒人種の混血が考えられており、イギリスの科学者たちは、monogenesis説を支持していたが、ローレンスが、Lectures on Physiology, Zoology, and the Natural History of Man (1819) で、人類は”varieties of a single species”(235)としながらも、人間の混血と動植物の交雑種とのアナロジーを認め、両方とも”the fruit of such unnatural intercourse”(255)とした時、ターニングポイントが訪れる。異なるものとの結合、接合は、”monstrous” “unnatural”なのである。以後ヨーロッパは人種差別への道を進むのであるが、イギリスロマン主義文学運動において、同時期に2人の美しいハイブリッドが生れ――バイロンのDon Juan第二カント(1819)のギリシア人の父とムーア人の母を持つHaideeとパーシィ・シェリーの”The Witch of Atlas”の主人公――文学が、時代の流れに反応しながら時代を超える可能性を示していたことは注目に値する。 パーシィ・シェリーの詩の主人公は、アポロがアトラス山で美しいニンフを陵辱して生れる。母親はアポロのaura seminalisの中で溶けて消え、子供はアトラスの洞窟を子宮として、光に包まれた女神として誕生する。しかし、彼女の容貌で強調されているのは黒である。黒い髪と眼を持つ黄金の光に包まれたこの人物もまた、ブレイクの虎やヴィクターの作ったモンスター同様、黒と黄金色のコントラストが鮮やかである。しかし、このコントラストの「恐ろしい均衡」は、ここでは、光と闇、不死の神と死すべき運命の地上の者、ヨーロッパとアフリカのハイブリッドの特徴として現れる。さらに問題を興味深くしているのは、この主人公と医学、プロメテウスとの関係、彼女が材料を「捏ねて」創る両性具有の“Hermaphroditus”(338)である。 彼女の父親アポロは、もちろん詩神であるが、「ヒポクラテスの誓い」で誓われる神々の一人でもある。彼女の洞窟に蓄えられた宝物の中には薬(パナシア)があり(177‐80)、洞窟には火の泉がある(56,278-80)。医学と火を属性とするアフリカの混血の女神とは、芸術と医学を統べる異国生れの女性のプロメテウスではないのか。女性のプロメテウスという造型は、先に見たように、ブレイクにもあるのだが、ブレイクのものは、ヨーロッパ(男)に陵辱される虐げられた非ヨーロッパ(女)のプロメテウスだったのだが、パーシィの主人公は、アポロから独立し、アフリカ全土を軽やかに飛び回る全能の女神である。18世紀−19世紀の「エキゾティックな」アフリカの物語ではアフリカは邪悪な魔道師が溢れた地域である。詩の題は、典型的なアフリカの幻想物語を暗示するのだが、読者は詩の中に全く新しいタイプの混血の女神を見ることになる。 彼女はアトラスから旅に出るに際し、旅の友を創ろうとする。この場面は、様々な点で、メアリーの「現代のプロメテウス」ヴィクターが創り出した”hideous progeny”を反転させて、ハイブリッドは怪物かそれとも新しい美しい創造なのかという問いに、新しい答えを提示しようとしている。異郷の女のプロメテウスは、雪と火という正反対の”the repugnant mass”に”liquid love”を混ぜて捏ね(”kneaded”)、“a fair Shape”を創り出す(321‐25)。「愛」を決定的に欠いていたヴィクターが集めた美しい部分は、美と均整を欠いた醜いモンスターになるのに対し、ヘルマフロダイタスはピグマリオンが石から切り出した彫像よりも美しく、その顔は芸術家の技を永遠化し(326-28, 334-36)、その身体は両性の長所のみを持った若さの美を体現する。(330-33)。 もちろん、ここに時代の暗い影を反映した問題点がないわけではない。主人公もヘルマフロダイタスも”sexless”(329, 589)とされているのは、当時の学説であるハイブリッドの生殖不能性を意識している。しかし、ここには、オリエンタリズムとオリエンタリズム批判のぎりぎりの「均衡」もあるのだ。主人公の鏡像イメージのような受動的なヘルマフロダイタスは物語の途中で消え、その代わり、主人公は、ナイル河畔で人間の暗い皮膚の下に輝くばかりの美しい魂があることを発見し、その魂と自分のスピリットを混ぜ合わせる(”mingle”)。魔術の国アフリカの黒髪の「魔女」でありながら黄金の光に包まれて空を飛ぶこの少女=プロメテウスは、「恐ろしい均衡」を体現するアジアの「虎」のアフリカ・ヴァージョンでもある。人間の都市を訪れながら成長していくこの若い「魔女」の無性性は、不毛性であるというよりむしろ思春期前の状態であり、パーシィが彼女を10代の少女に留めておいたことの意味は、世紀末の「アフリカの魔女」のイメージと対比すれば明らかである。H. Rider HaggardのShe(1892)の火の泉のある洞窟に住むAyesha、炎に包まれるAyeshaやその官能的な肢体、それを視覚化した1892年版のLongmanのMarice GreiffenhagenとCharles H. M. Kerrの挿絵を見れば、世紀末のオリエント・アフリカ幻想がいかに帝国主義の時代の気運と深く絡み合い、パーシィの可愛らしい少女プロメテウスをヨーロッパの冒険心と下半身を誘惑する肉感的な「アフリカの魔女」に変容させてしまったかが一目瞭然である。「帝国の不安」と「恐ろしい均衡」のバランスは、前者に大きく傾いてしまうのである。
3.結論 理想的身体と理想的芸術のアナロジーは、外科手術、医学知識の飛躍的増大、蝋の人体模型の制作と公開、ギリシア彫刻の分析から始まるプロポーションの思想を核にした芸術論などにより、ロマン派の時代に一気に進み、医学と芸術の交錯は、ヨーロッパ文明の祖、医学と芸術を司るプロメテウスのイメージのに集約される。生命の神秘を明らかにしつつあった医学者、解剖学者たち、人体の全てを蝋細工に再現した工人たち、理想の芸術として有機的な統一体を夢想した芸術家たち、皆がそれぞれプロメテウス的特徴を持っていた。そして彼らの神の領域に踏み込む仕事は、分断された部分から「恐ろしい均衡」を持つ有機的統一体を創り出すプロメテウス的創造であった。部分、断片は、理想的全体へと医者あるいは工人の手によって、あるいは芸術家の想像力によって、創造あるいは再創造(修復)されることになる。 有機的統一体の創造の夢、全体化の夢は、異質なものの取りこみによって成立する。泥を捏ねることは、様々な要素を混ぜることであり、バラバラな身体が再構成される時、異種の混交、繋ぎ合わせが不可欠になる。だが、それは純粋化の夢とは矛盾する。だから、分断された身体が想像力の炉の中で一つの「種」となった時、それは「恐ろしい均衡」として誕生する。その恐ろしい美にいかに読者が魅きつけられようとも、それは読者もその生みの親の造物主でさえも支配できない新しい「種」なのである。新しく生れるものがヨーロッパと異なるものとなり、しかもヨーロッパより優位なものであるという事態がうまく受け入れられないので、異種の取りこみで生れるものは、虎やモンスターやアフリカの魔女となってしまう。もちろん、ロマン主義の時代の想像力は、このヨーロッパと非ヨーロッパの融合から生れる新しいものの「恐ろしい均衡」を肯定し、「外国」の要素を受け入れようとする。醜いモンスターを創造した『フランケンシュタイン』でさえ、「異なるもの」が新しい創造に不可欠であることは十分認識しており、終始、外国とその知を持ちこもうとしている。ヴィクターは、ドイツのインゴルシュタットへ行き、スコットランドへ行き、モンスターが人間の社会に受け入れられることをまだ期待していた時自己を重ね合わせていたのはアラビア娘のサフィーであった。パーシィの主人公は、「アフリカの魔女」であって「アフリカの魔女」ではない。「プロメテウス」であって「プロメテウス」でない。彼女はその体にアフリカとヨーロッパの痕跡を残しつつ、どちらとも違う新しい種としてアフリカを軽やかに横断する。そこには、ロマン主義のプロメテウス的創造が産み出したハイブリッドな身体の新しい可能性が示唆されている。これがプロメテウス的創造の成功例であろう。ただし、全体化の夢と純粋化の矛盾、異種の取りこみへの恐怖は、19世紀を通してのオブセッションとなるのだ。 |
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