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◆概念の確認
#1 |
空間
FIGURE:{俳優 ―(演技)― 登場人物}
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(演技)
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観客
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演劇においては、俳優と観客が<演技>という行為によって結ばれている。俳優と登場人物はやはり<演技>という行為によって結ばれている。観客にとっては、俳優と登場人物は常に一つの現象として存在するが故に、“Figure”とする。 |
#2 |
空間
身体<肉体[物理的纏まり]−(感覚)−意志[精神的纏まり]>
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◆要旨
1. ルネサンス時代、内面が外面と対立的に意識され、この考え方が宗教・哲学に止まらず広く人口に膾炙する。
2. 弁論術で説かれる感情移入と同化の原理は演技術と共通する。動作は内面の表出と考えられ、これに生理学的な根拠が与えられた。
3. 俳優の能力とは、自己変容(self-alteration)と自己離脱(self-abdication)である。想像による情念によって掻き立てられた精気〔spirits〕は力の波を創りだしエーテルを通って観客に伝わる。
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T 内面と外面の共存
もはや喪服を脱ぎ捨て父の死を悼むのを止めよと促すガートルードに対して、所詮外面的態度は内面の真実を表わすことはできないとハムレットは説く(Hamlet,
1.2.77−86)。リアは、長女ゴネリルと次女リーガンの実意のない甘言を信じて自らの破滅を招く。オセロは、イアゴーの虚言を信じて、外面どおりの誠実な妻を信じることが出来ない。さらに、反逆者コードーの領主の処刑を告げるマルコムに対して、ダンカン王は“There's
no art / To find the mind's construction in the face: / He was a gentleman on
whom I built / An absolute trust−”(Macbeth, 1.4.11-14)という感慨をもらしつつマクベスの城へと向かい、結果的に同じ過ちを繰り返すことになる。実際、シェイクスピアによって扱われる内面と外面の対立は、あらゆる階層の人物によって、非常にしばしば様々なかたちで言及されるようになっていた。
勿論、外面と内面の対立は、二世紀後半ギリシャの懐疑派セクストゥス・エンピリクス(Sextus Empiricus)、あるいはプラトンまで溯ることの出来る主題であり、また、聖書が、外面に表れた態度とともに、神に対する内面的服従の重要性を頻繁に説いていることは言うまでもない。しかし、英国ルネサンスにおいては、それは哲学的・宗教的問題に留まらず、社会風潮として、あらゆる階級、宗教的党派にまで広がった。その結果、人間というものは、外面的行動と内面的感情を併せ持って始めて人物となるという確信が生まれ、それと共に、舞台に載せられるキャラクターもまたその両者を併せ持つことが、写実的な人物描写に不可欠となった。ルネサンスは、内面と外面の総体としての「身体」がさらに先鋭化してとらえられるようになったわけだ。グリーンブラッド(Stephen
Greenblatt)が、笹山隆による近松門左衛門とシェイクスピアの比較に対して述べた指摘は正鵠を射ている。すなわち、「シェイクスピアとりわけ彼の悲劇に置ける感情は、人の性格から容易に引き離せない。観客にとって、それらの感情を独立したものとして―劇が上演されているあいだは私たちと同じだけの実在性を主張するように感じられる強烈な個人から離れた美的体験として−賞味することは難しい。私たちが知ることになるのは、憂愁、嫉妬、絶望ではなく、ハムレットの憂愁、オセロウの嫉妬、マクベスの絶望である。」このような感覚が、我々ものであると同時に、英国ルネサンスの同時代人の感覚であったことは疑い得ない。内面は個人のものであり、個人は内面を持ったものであるということが自明のこととして人口に膾炙にしてきたということである。
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U 外面に対する内面の影響:弁論術と演劇の蜜月
クインティリアヌス【Quintillian, c.35-c.100】は『弁論術教程』(Institutio Oratoria)のBook 6冒頭において、自分の家族を襲った悲劇的な出来事を述懐する。クインティリアヌスの弁論術は、アリストテレスの以来の伝統にそって、人物になりきる、すなわち感情を経験するということであった。その為にどうすればよいか。映像(visions)を心に呼び起こすことだという。言いかえれば、想像力によって具体的な映像を心に描くことであり、この点でアリステレスの「想像力によって事物は生まれる」(Fortis
imaginato generat causum ? “A strong imagination begets the event itself.”)と共通する。映像が生まれると強い感情(パトス―怒り、嫌悪、恐れ、憎しみ、悲しみ、哀れみ)が生まれる。さらにこれは、感情を意識的な計算の上で呼びさますか、映像から流れ出る自発性に任せるかという議論にまで展開する。クインティリアヌスは真実と区別できないほど迫真的な感情を呼び起こすべきであるとし、さらに、真実の感情とは作られた感情だと結論する。
クインティリアヌスの理論は18世紀の演技論に至るまで影響力を持った。それは、肉体をどのように動かすかという医学的な思考に基づいたものであったからだ。古代において感情は、体液と精気によって生み出された。アポロの巫女は神々から発せられる蒸気を口や他の穴から吸い込み、それが彼女に神託を語らせるとされた。クインティリアヌスの時代には、神託は巫女の生得的な肉体に由来すると考えられ、横隔膜が感情のバロメーターと考えられた。感情を呼び起こす力はエーテルを吸収したプネウマが精気として血液に染み、それが心臓や肺から発散されて内面感情や外面動作を引き起こす。エーテルは火・水・空気・土とは異なる5番目のエッセンスである。感情(emotion<emovere「動かす」)という言葉自体、語源的に精気(vital
spirit)の存在を前提としているのである。17世紀には弁論術と演劇の関連性はT.ヘイウッド(Apology for Actors, 1612)、T.ライト(The
Passions of the Mind, 1604)など至る所に見られる。
17世紀、情念の肉体表現は弁論術、心理学、医学においても扱われた。内面と外面表現の関係について多くの著作がなされ、その内、Marin Cureau de
ChambreのLes characteres de passionsはその代表的なものである。さらにT.ヘイウッドのApology for Actorsに見られるようにactionという概念がinvention,
disposition, elocution, memory, pronunciationに続いて加わる。実際プルタークによるデモステネスの逸話にあるように、アクションがレトリックに不可欠であることが言われるようになる。この言葉の定義としては、T.ライトがThe
Passions of the Mindにおいて、“external image of an internal mind”としている。
17世紀で最も纏まった動作表現に言及したのは、BulwerのChirologiaとChironomiaである。これらは演劇史家の間ではしばしば言及されるが、Bulwerの科学的知識については看過されることが多い。彼は医者であり、彼自身医者なのだ。かれは方法論的に、ベイコンの動作について科学的分析を継承しようとした。彼はChirologiaを第二『ノヴム・オルガヌム』と呼び、しかも彼の方法論はSylvia
Sylvarumに酷似している。Bulwerは古今東西の著作から博引傍証を行うが、その中には、同時代の医学文学であるロバート・バートンのAnatomy of
MelancholyやHelkiah CrookeのMikrokosmographia, a Description of the Body of Manにも言及する。
実際Chilologiaは弁論術のマニュアルではなく、Bulwerは外面動作は言葉を越えて人間一般に普遍的なものであると信じていた。なぜなら、動作は内面の表出だからである。従って、そこで引用された動作は舞台で見られる動作の観察結果なのであり、理想的な動作の指導書ではない。逆にChilonomiaにおいてBulwerは自然動作がいかにレトリックの伝統に規定されているかを説いた。このことの例として「泣く」時の手を絞る動作、またマクベス夫人の夢中歩行の場の手を洗う動作が挙げられる。 |
V 肉体的変容としての演技:弁論術と演劇の決別
しかしながら、弁論術は、その目的からして、自ら主張するところを説くのための効果的な肉体表現を生み出す技術に重点がある。他方、演劇の目的は、現実の空間とは異なる世界―肉体―を提示するところにある。前者がスキルとして想像力を利用するのに対し、後者は想像力によって生み出される非現実を成立要素として要求するのである。
Anatomy of Melancholyによれば、想像力はimago animiから流れ出る。肉体はその媒体であり犠牲者でもある。ガレン以降、妊娠している女性はなるべく妄想を避けるように警告されたし、ヘリオドルスのエチオピア女王はペルセウスとアンドロメダの肖像を見ていて白い赤ん坊を産んだ。法王ニコラスV世の妾は、熊を見ている内に「怪物のベッドへ運ばれた」と言われた。病気のことを考えると病気になり、高みを思うと転落する。アグリッパは、想像力によって、男は狼に、女は男に、あるいは男がロバ、犬、その他様々な形に変容すると報告している。
この変容の考え方が弁論術と演劇を分けることになる。そして名優がプロテウス【『オデュセイア』で言及される、予言と変容の能力をもつ「海の老人」】に喩えられるようになる。この比喩に暗示される俳優の能力とは、自己変容(self-alteration)と自己離脱(self-abdication)である。フレックノーによるリチャード・バーベッジの回想、トマス・ランドルフによるトマス・ライリーへの言及、トマス・ヘイウッドによるエドワード・アレンへの言及、そしてバルワーも役者をプロテウスと呼ぶ。役者の変容の能力とは、比喩的な意味ではなく、文字通りの変化を意味する。さらに、コリー・シバーもベタートンの肉体コントロールと表現能力を賞賛する。
作者不詳のThe Laureat (1740)はベタートンの変容能力と共に、観客に対する影響を記している。すなわち、ベタートンによって表現された“Tremor”は“felt
so strongly by the Audience, that Blood seemed to shudder in their Veins likewise”であった。シバーはハムレット(ベタートン)が亡霊に出会った時の演技を次のように記している:“he
open’d with a Pause of mute Amazement! then rising slowly, to a solemn, trembling
Voice, he made the Ghost equally terrible to the Spectator, as to himself!”役者の演技は感情レヴェルだけではなく肉体レベルでも伝染するということだ。“Thus
we moove, because by passion thus wee are moved, and as [passion] hath wrought
in us so it ought to worke in you”(Wright, Passions of the Minde)という記述、あるいは、『ハムレット』の2幕2場最後の独白中での言及がこれにあたる。想像による情念によって掻き立てられた精気〔spirits〕は力の波を創りだしエーテルを通って離れた人間に伝わる。ロバート・バートンの記述:“So
diversely doth this fantasy of ours affect, turn, and wind, so imperiously command
our bodies, which as another ‘Proteus, or a chameleon, can take all shapes; and
is of such force (as Ficinus adds), that it can work upon others, as well as ourselves’”(Anatomy)。このような伝達方法は、元来神の力であったソクラテスはこの力を磁石に擬える。神はムーサを動かし、ムーサは詩人を動かし、詩人は朗唱者を動かし、朗唱者は観客を動かすのである。これが“ionization”のプロセスであった。「それはちょうどエウリピデスはマグネシアの石と名づけ、他の多くの人びとはヘラクレイアの石と名づけている、あの石にある力のようなものなのだ。つまり、その石もまた、単に鉄の指輪そのものを引くだけではなく、さらにその指輪の中にひとつの力を注ぎこんで、それによって今度はその指輪が、ちょうどその石がするのと同じ作用、すなわち他の指輪を引く作用を、することができるようにするのだ。…これと同じように、ムゥサの女神もまた、まず自らが、神気を吹きこまれた人びとをつくる。すると、その神気を吹きこまれた人びとを介して、その人びととは別の、霊感を吹きこまれた人びとのくさりが、つながりあってくることになるのだ」(『イオン』第5節、128)。ベーコンも『学問の発達』において、同じく「伝達」に言及し、それを眼の力に帰した。
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W 結び
弁論術と演技術は殆ど同化しうるまでに近接しながら、結局二つのものとして分かれた。それは、概念の確認#1で示したように、演劇においては、俳優、登場人物・観客が同時的かつアプリオリに存在するものであり、個別に集積して生成されるものではないからである。この意味で、演劇は俳優、登場人物・観客を主要部分とする生命体であり、一部の要素の変容によって、他の要素および全体が変更を余儀なくされる。このことは、概念の確認#2で示した俳優の肉体と感情の関係においても同様であり、どちらを先行させるかという技術的な問題以前に、演劇が冒頭に定義した意味での「身体」を必要とすることを意味するのである。 |
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