書評の目次

Laura Otis,
Networking: Communicating with Bodies and Machines in the Nineteenth Century.


石塚久郎
リン・ハント編
『ポルノグラフィの発明 猥雑と近代の起源 1500-1800』
正岡和恵・末廣幹・吉原ゆかり訳 (ありな書房、2002)

鈴木晃仁
“Defects”:Engendering the Modern Body
Edited by Helen Deutsch and Felicity Nussbaum.
University of Michigan Press,2000. xi + 332pp.

石塚久郎

田代和生
『江戸時代 朝鮮薬材調査の研究』
(慶應義塾大学出版会、2000)

鈴木晃仁

Elizabeth Lunbeck,
The Psychiatric Persuasion: Knowledge, Gender, and Power in Modern America
(Princeton: Princeton University Press, 1994);

Jack D. Pressman,
Last Resort: Psychosurgery and the Limits of Medicine
(Cambridge: Cambridge University Press, 1998).

鈴木晃仁 


書評  
Laura Otis,
Networking: Communicating with Bodies and Machines in the Nineteenth Century.

石塚 久郎

 私達がパソコンや携帯電話といった通信機器(communications systems)を使用する際に感じる機械(テクノロジー)と有機体との一種独特な融合・連結感と疑念――私達の手や神経は通信機器の一部なのだろうか、それとも通信機器のワイヤーは私達の手や神経の延長なのだろうか――は、IT革命やコンピューター・サイエンスの到来と共に起こったわけではない。また、そうした連結感を「ネットワーク」や「ウエッブ」という比喩で言い表そうとするのも今に始まったことではない。電信(telegraph)が発明され電信網が飛躍的に発展した19世紀ヴィクトリア朝に人々は既にそうした身体感(観)を持っていたし、網の目の中の自己というイメージやネットワークのメタファーも当時の物理学者、神経生理学者、電信機器の発明家、そして小説家によって共有されていた。19世紀の文学と医科学とをこのところ精力的に研究しているLaura Otisが近著Networkingで示してみせるのはそうした事態である。

 ワールドワイド・ウェッブに代表される網(web)とネットワーク(network)の隠喩は私達が思っているほど現代に特有のものではない。神経組織(nervous system)の謎――神経インパルスはいかにして意味あるものになるのか――に取り組んでいた神経生理学・解剖学者と電信――電気シグナルをいかにして意味に変えるか――を開発しようとしていたテクノロジスト、物理学者はそれぞれの分野における知見を相互に参照しつつ、生体の情報伝達機構(通信網)である神経システムと社会の通信網(情報伝達機構)である電信システムとをアナロジカルにとらえ、複雑なフィードバック方式の中で相互に鼓舞し合っていた。共通する認識の網の中で、神経学者は生体に通信網を見、物理学者は社会体に神経網を見たのだ。しかし、ネットワークや網という隠喩は本当に適切な比喩なのだろうか。そうした比喩は万人に認められたものではない。生体と機械とは根本的に異なるという理由からそうした比喩に懐疑的な者も現れる。とはいえ、より根源的な次元において懐疑的な者も有機的網という考えを分かち合っていた。神経細胞を巡る論争――神経細胞が独立のものか(neuronists)それとも網目状に連結したものか(reticularists)――にもその一端が垣間見られる。神経細胞の自立性を主張する者は機械的な電信網によって有機体を喩えることは出来ないとするが、有機的連結と成長のイメージ(有機的網)は手放さなかった。世紀末のテレパシー実験における「思考伝達」(thought transmission)のメカニズムでさえ電信と神経のネットワークによって理解され、テレパシー現象は「ワイヤーの無い網」としてイメージされたのだった。

 Otisはこうした19世紀の「ネットワーク」を巡るアナロジーと隠喩の問題をやや散漫にではあるが興味深く論じ、テクノロジーの身体(生体)への影響という従来重視されがちになる路線を、生体からテクノロジーへあるいはそれらの相互作用といった面を強調することで変更しようとする。NetworkingにおけるOtisのこの目論みは説得力があり成功しているといえるが、もう一つの目論み、科学と文学の関係、についてはそうもいえない。当時の文学作品を取り上げることでOtisが更に目論んでいるのは、科学から文学へという一方的な影響関係ではなく、文学テクストと科学の言説が文化という共通基盤の上で、ある種のメタファーを共有している様を示すことである。George EliotのMiddlemarch読解にその意欲が最もよく現れているが、文学テクストの読解になると議論に締りがなくなりやや論点がぼやけた感じになってしまうのが残念である。(これはOtisの前作Membranes [1999]にも見られた点である。)科学と文学、そして文化を連結するメタファーは医科学と文学を論じる際の重要な鍵となるだけに、一方的な影響関係から相互関係ないしは共有関係へと重点を移しただけでは、それなりの成果はあるにはせよ議論が浅いように思われる。曖昧な文化的共有関係へと短絡的に還元するよりも徹底的な(とは、より具体的で精緻な)「影響」関係を解明する方がまだ生産的だと言えるかもしれない。

 Otisが取り上げている文学テクストはその他に、Ella Cheever ThayerのWired Love (1880), Henry James, "In the Cage" (1898), Bram Stoker, Drakula,そしてtelegraphersによって創作されたtelegraphersのための"telegraphic fiction,"Lightning Flashes and Electric Dashes (1877)等である。最後の"telegraphic fiction"というマイナーなジャンル発掘はOtisの貢献の一つであろう。

 関連文献として、19世紀のtelegraphの発明・発達については、Tom Standage, The Victorian Internet: The Remarkable Story of the Telegraph and the Nineteenth Century's On-Line Pioneers (New York, 1998)がジャーナリスティックなものであるが面白く読める。Telepathyと世紀末文学(文化)については、Otisの著書と同時期に出版されたPamela Thurschwell, Literature, Technology and Magical Thinking, 1880-1920 (CUP, 2001)がある。Otisと重なる面もありつつまた違った解釈も提示しいてOtisと合わせ読むと面白いだろう。ちなみにJHI 63(2002)に発表されたOtisの論文、"The Metaphoric Circuit: Organic and Technological Communication in the Nineteenth Century"はNetworking(2001)の要約バージョン(文学作品の読解は除く)とも言えるものである。ついでながら、つい最近出版されたOtis編集のLiterature and Science in the Nineteenth Century: An Anthology (OUP, 2002)は、19世紀の科学と文学のテクストを網羅的に配列、抜粋していてとても参考になる、教科書的編集本である。


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リン・ハント編
『ポルノグラフィの発明 猥雑と近代の起源 1500-1800』
正岡和恵・末廣幹・吉原ゆかり訳 (ありな書房、2002)
鈴木 晃仁

 1919年にサン・モーリッツに滞在していたニジンスキーは、すでに奇怪なふるまいが目立ち、公の場で踊ることを止めていたが、後に『手記』として知られることになるノートを取り憑かれたように書き綴っていた。その中で、この発狂した不世出のダンサーは次のように記している。「日本などの猥雑な本を読んで肉体的な愛にふけり、あらゆる体位を試し、性的な遊びに溺れる夫婦はきらいだ。私は肉体である。だが肉体的な愛ではない。」 
 ニジンスキーと彼の時代のヨーロッパにとって、さまざまな体位を教えてくれる「猥雑な本」というものは「日本」から来るものだったのだろう。それから300年ほど前、シェイクスピアの時代のイギリス人にとっては、そのような書物はイタリアかフランスからやって来るものであった。たとえアムステルダムやロンドンで印刷されていたとしても、カトリックの他者性は、ポルノグラフィの危険と魅力の双方を成り立たせるのに必須のものだった。猥雑な書物は、ルネサンスからフランス革命までのヨーロッパの各国を横断して地下水脈のように流れていたのである。本書『ポルノグラフィの発明』が取り上げるのは、この猥雑な出版物の歴史である。さまざまな体位の性交を描いた版画にアレッティーノのソネットを添えた16世紀イタリアの『性技集』から、サド侯爵の諸作品を含むフランス革命期のポルノグラフィまで、有名な作品とほとんど知られていない作品をとりまぜて、数多くの図像とともに分析される10本の論文はいずれも力作である。その中でも、日本で既に著作の翻訳があるリン・ハントやジェイコブの記述は、ポルノグラフィの問題を近代初頭の歴史の大きな枠組みの中で明快に整理して位置づけたものであり、歴史、文学、メディア論、ジェンダー論の分野での必読文献になるだろう。
 本書が猥雑な出版を位置づける文脈は、ニジンスキーが記したような、夫婦の寝室ではない。結婚という枠組みを強化し、社会を改善するための結婚のエロス化が、セクソロジストらによって本格的に始められるのが20世紀初頭だということを考えると、ニジンスキーの時代のヨーロッパの夫婦たちが、性愛の快感を高めるためにウキヨエの四十八手を使っていた、という想像は、あながち荒唐無稽なものではない。しかし、本書が取り上げるポルノグラフィ、たとえばアレッティーノの『性技集』は、現在のインターネット書店の売り上げランキングの上位にも並んでいる充実したセックスライフを楽しもうとするカップルご用達の書物と、似て非なるものである。たとえ、多様な体位という形態的には同じものを描いていたとしても、その系譜と起源が大きく違う二つのジャンルである。
 冒頭のリン・ハントによる優れた序論が、本書の基本的な視点を簡潔にまとめている。「ポルノグラフィは、既定の事実ではなく、それぞれの時代に繰り広げられた、作家、画家、版画家と、スパイ、警官、聖職者、役人との間のさまざまな闘争によって規定されたものであった。」 この姿勢は、80年代以降のポルノグラフィの研究を、好事家の密かな楽しみと、単調な「表現の自由論」から救い出した、ウォルター・ケンドリックの『秘密の博物館』の、「ポルノグラフィとは、事実ではなく、闘争を名づけたものだ」という洞察を引き継いだものである。ケンドリックは、出版が文化の民主化・大衆化を生み出し、それは逆に権力による規制を生む、という力学の中で「ポルノグラフィ」というカテゴリーの形成を理解した。つまり、出版の民主化がエリートの文化への脅威だと感じられたときに、権力が禁止と規制のために作った政治的・文化的な範疇こそがポルノグラフィだ、というのである。このケンドリックの洞察に多くを負う一方で、本書の論者たちは、闘争の別の面に注目して、そこに歴史性を見出していく戦略を取っている。つまり、禁止する権力の側でなく、ポルノグラフィを通じて教会、王権、アカデミーなどのさまざまな権威に反抗していった著者、挿絵作家、出版者たちのアクティヴな活動に焦点を合わせているのである。その意味で、本書は、ロバート・ダーントンの「革命前夜の地下出版」の問題意識を忠実に継承している。知のエスタブリッシュメントから疎外された三文文士たちが、政治と哲学と性の過激な言説を生み出していたダーントンのパリと同じパターンは、近代初頭のオランダ、イングランド、フランスなどの大都市のいたるところで繰り返されていた。教会や王権に反対する政治的なパンフレット、キリスト教に批判的な自然哲学思想、そして猥雑な書物の著者たちと出版者たちが作り出す、「過激な啓蒙主義」の世界である。そこには、古典文学、人文主義、自然哲学などのエリートたちのハイカルチャーに影響されながら、それらをダイナミックに換骨奪胎していくモダニティがあった。本書によれば、この空間こそがポルノグラフィの生誕地である。ポルノグラフィは、権力とそれに対する抵抗がせめぎあう場としての公共圏が「出版市場」のメカニズムに根ざして確立されていくさまを分析するのに絶好の素材であり、近現代の社会と文化全体を理解するのに不可欠な視角を与えてくれることを、本書は見事に示している。
 本書に欠けている大きな視点が一つあるとすれば、ハントも認めているように、それはポルノグラフィがどのように購買され消費されたか、という問題である。出版市場こそが近代的なポルノグラフィを作り出した場である、ということを繰り返し強調している本書だが、トランバックの論文を除けば、ポルノグラフィの作り手という供給サイドのみに着目しており、読者という需要サイドの問題は論じられていない。この問題についてのリサーチが私たちに明らかにしてくれるのは、書斎にこもって片手に『娘の学校』を、もう片手に直立したカツオを持つピープスなのか、売春宿で乱痴気騒ぎをする男たちなのか、あるいは不妊に悩むカップルなのか ―― そのことは、私たちのポルノグラフィ理解、そして、それを生み出した近代という時代そのものの理解を大きく変えるだろう。

 


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“Defects”:Engendering the Modern Body
Edited by Helen Deutsch and Felicity Nussbaum.
University of Michigan Press,2000. xi + 332pp.

石塚 久郎

 本書はミシガン大学出版から刊行されているシリーズ「身体性(Corporealities)――ディスアビリティの言説」の中の一巻である。このシリーズの刊行が示している様に、ディスアビリティ研究(disability studies)は近年の人文・社会科学における新しい研究分野の一つとなっている。とはいえ、ジェンダー、人種、階級といった特権的な差異カテゴリーが恐ろしいほどの勢いで同じ人文・社会科学の諸分野を席巻していることを考えれば、ディスアビリティというもう一つの「巨大」マイノリティー・グループ(人口比率12から15パーセントとも言われている)がその偏在性にもかかわらず、諸研究の視野に入ってきたのがつい最近だというのはいささか驚きではある。本論集はかくなるディスアビリティ研究を啓蒙期(18世紀)研究に取り込み、近代初期がいかにディスアビリティ研究にとって重要な時代であるかを示唆する。

 

 本書で俎上に上げられているのはいわゆる「障害者の身体」(disabled bodies)のみではない。“Defects”という語によってより広い意味での「ディスアビリティ」の身体が取り上げられている。フリーク、怪物、怪物と見なされた「女性」、宦官、老人、審美的醜さ、そして比喩としての「怪物性」等である。こうした「アブノーマル」な身体は近代初期において、ノーマルな身体性と主体性の形成に寄与するために社会的・文化的に呼び出されたのだ。サブタイトルの「近代的身体の出生」とはかくなる事象を物語る。

 

 3部構成からなる本書は第1部でディスアビリティに関する3論文、第2部で怪物性をめぐる4論文、第3部で欠損(imperfections)というテーマのもとに3論文が序論と後書きを前後にして収められている。「欠陥」(defects)という幅広いテーマを反映してか、取り上げられる題材も多枝にわたる。様々な「欠陥」の持ち主であるジョンソン博士(片眼を失明、片方の耳の聴覚を奪われ、顔は天然痘で損なわれ、身体はチック(不随意痙攣)で異様な様を呈し、精神的にも重度の鬱とヒポコンデリィで自殺衝動に駆りたてられる)は二人の論者によって取り上げられている。Lennard J. Davisはジョンソン博士の表象が18世紀におけるディスアビリティの2つの言説のなかでいかに矛盾を孕んだものになったかを検証し、Helen Deutschは別の観点からジョンソン博士の「欠陥」を彼の文学スタイルとの参照のもとに捉え直している。Barbara M. Benedict は文壇から社会へ目を転じ、1790年ロンドンで起きたRenwick Williamsの婦女暴行事件を取り上げる。Benedictが論じるに、啓蒙思想(感受性・センティメンタリズム)が否定したかに見える性的欲望・人間の獣性がこの事件によって(中産階級の)人々の心に喚起される。甦った性的欲望は、偶然にもセンティメンタリズムの文化価値コード(洗練性、感受性、社交性等)を具現しているWilliamsに、その価値コードに近いからこそ排除されなければならない「怪物」として投影され、人々は中産階級の身体・主体性を取り戻す。同じ怪物でも、Joel ReedはCharles Smith(アングロ・アイリッシュ)のテクストを検証することで、18世紀アイルランドの民族意識(アイデンティティ)の形成において民族を代表しその誇りとなる「著名人」以上に民族の「怪物」が民族の「独自性の感覚」を生み出すのに貢献したとし、それは取りも直さず、植民地下にあったアイルランドの「怪物的民族性」の特殊性であったとする。ここにおいて「欠陥」はノームからの逸脱どころかノームそのものとなる。

 

 論文の多くは「怪物」としての「女性性」の文化的構築にページを割いている。これは本書の特徴といっていい。性差は時に「怪物性」「欠陥」として表象され、女性はその本性から「欠陥」を持っているものと見なされる。「自然の欠陥」は「女性化」され、男性性とは明確に区別される。逆に男性にとって「過剰な女々しさ」(effeminacy)が男性性を脅かす「欠陥」として立ち現れる。「欠陥」のある身体と「怪物」としての女性はどちらも、台頭しつつあった中産階級の身体を、ノームを軸として調整・差異化し一つに纏め上げる権力機能の一部であったとされる。ここにおいて、ディスアビリティ研究とジェンダー研究は共闘の可能性を持つ。ディスアビリティ研究とジェンダー研究とを接合することは序論で述べられている様に本書の目的の一つである。Nussbaumはアフラ・ベンとイライザ・ヘイウッドの作品を取り上げ、そこに登場する知覚障害を持つヒロインと宦官の表象をめぐって論を展開し、こう示唆する。18世紀を通して、トマス・ラカーのいう通約不能な差異としての女性性のみではなく、「欠陥」としての女性性――アマゾン的女性とその裏返しである宦官に代表される――がそれに拮抗していたのだと。トマス・ラカーのテーゼを敷衍し論を展開しているもう一人の論者は18世紀後半における植物学を取り上げたElizabeth Heckendorn Cookである。18世紀に生じた自然な性と社会的性、セックスとジェンダーの分離を、植物学は性(動物とのアナロジーによる生殖器と生殖行為)を指標とした植物の分類によって際立たせた(それは人のスタンダートな性のあり方とは多くの場合矛盾する)。と同時に、それだからこそ植物学はその分離を修繕しようとした。Cookは植物学におけるこうしたダメージ・コントロール機能をエラズマス・ダーウィンの著作に読み込む。『植物の愛』は牧歌的な詩とそれに対応する科学的な脚注という2層構造から成っている。牧歌的なロマンス詩は女性(植物は擬人化されている)の慎ましいまでの宮廷愛的物語であるのに対し、それに付された科学的注は、女性の生殖活動に対する積極的参加や女性の生殖器官をあからさまに描写している。これは、慣習的な女性性(牧歌的な詩によって代表される)を科学的な脚注によって転覆しているのだと読むことができるが、その反対に、科学(植物学)によって顕わになった性とジェンダーの分離(怪物的な女性性)をパストラル化することで回収したのだとも言える。それだから『植物の愛』をラディカルな自由愛(特に女性のそれ)を歌った詩とする開放的読解にCookは修正を求める。そうした読みはテクストの内部にある諸矛盾(怪物性)を解消して初めて成り立つのであり、リンネ植物学のパストラル化とも呼べる行為の延長である。同じ女性でもJim Campbellが扱うのは老女である。Campbellは最初に18世紀の絵画に見られる老いの捉え方に注目し、それが大まかな量的モデル(減るか増えるか)に基づいているとする。楽観的な老いの見方によれば、威厳・繁栄の徴として「咽のぜい肉」(dewlap)が歳を重ねるごとに増えている姿が描かれる(皺はめったに描かれない)。あるいは、老人の顔が成長し続けるかのようにやや大きく描かれたりもする。他方、悲観的な見方(風刺に多いが)によれば、老いは肉を剥がれ次第に骨になるような姿で描かれる。それは威厳と人格が削がれていくのと等価である。次にCampbellは女性における老いへの移行の仕方に注目し、それが時間性の否定の上に成り立つ突然のものであることを指摘する。若さ(美と等価)を失えば突然に老い行く。余生(after-life)とは若さを失った後の長い人生のことを指す。女性は余生において身体性を否定し霊的に生きる様に求めらる。しかし、それは老いる姿が(しばしば男性の目から見れば)恐怖と映るからに他ならない。徐々に老いるという時間性を非時間的タブローに凍結させることでその恐怖を戦略的に回避できるのだ。これは18世紀後半にJames Grangerによって老人が身体的「不具者」と同じカテゴリーに分類されたことを考えると興味深い。

 

 「欠陥」のある身体はポープ、ジョンソン博士、バイロン卿といった著名な文筆家にもみられるし、あるいは、サラ・スコットを始めとする小説の中にもたびたび登場する。例えば、フィールディングの『アメリア』の鼻が欠けているヒロイン(それにもかかわらず、彼女はあたかも美しいかのように描かれているのだか)、フランシス・バーニーの『カミラ』のユージェニア、オースティンの『説得』のスミス夫人等。文学の世界を離れても障害者である下院議員のウイリアム・ヘイが18世紀半ばホガースの美学を流用して、「欠陥」のある身体(彼の場合、歪曲した背骨)が美しいとするエッセイを書いている。こうした「可視性」にもかかわらず、身体的「欠陥」は近代初期・啓蒙期研究において無視され続けてきた。これは裏を返せば、この時代において「欠陥」のある身体は我々が感じるような「問題」のあるものではなかった、それ故研究するものの視野にも入って来なかったということなのかもしれない。「欠陥」のある身体はそこにはあったが、医学的、病理学的、社会的に徴付けられてはいず、ただ漠然と怪物性、奇形性、ディスアビリティ、欠陥といった諸カテゴリーが渾然一体としていたのだと。しかし、それはLennard J. Jonesが力説しているように、事実の半面でしかない。18世紀は後向きに見ればディスアビリティの言説が欠如していたと取れるが、前向きに見ればディスアビリティの新たな言説の形成の時期でもある。この新たな言説によって、ディスアビリティは、驚異の眼差しから臨床医学の眼差しの下に追いやられ、医学によって包囲され、時には隔離され、法的道徳的に定位される存在となる。もはや、ディスアビリティは個人的なものではなく(例えば、母親の想像力によって生まれた奇形児)集団的なものとなる。ボズウェルにみられるジョンソン博士の「欠陥」身体の記述が矛盾を孕んだものであること――それは呼び起こされると同時に否定される――は相反する2つの言説が拮抗するする時代にあったからだと言える。その証拠に19世紀にはジョンソン博士はその「欠陥」的障害を乗り越えた偉大な文人(障害があればこそ成功したというディスアビリティの神話・物語)として称えられるのだから。

 

 「欠陥」というタームによって示唆される指示範囲の広さ故か、全体を通して見ると、やや纏まりに欠けるといった感が否めない。「欠陥」という大風呂敷の下ではmonstrosity,

disability, deformityといった概念がどの様に分節されていたのか――それらは等価な概念だったのか、それとも18世紀において差異化されつつあったのか――が見えてこない(先のJonesによればそのどちらでもあったということになるが)。もちろん、現代的意味でのディスアビリティという概念は18世紀において流通してはいなかったが、身体的、精神的「障害者」がどう扱われていたのか、彼らの身体がどのような眼差しに晒されていたのか、どのような言説に包囲されていたのか、特に「感覚」の世紀である啓蒙期において知覚障害がどのような位置を占めていたのか等、ディスアビリティ研究をこの時代に引き込んだ場合争点となるような部分が弱いように感じられる。反対に、本書の目論見の一つであるこの時代におけるディスアビリティ研究とジェンダー研究の結託は成功しているようだ。しかし、比喩としての「怪物性」「欠陥」と現実の「欠陥」身体とを同じ土俵で論じると読み手もやや混乱するのではないだろうか。ディスアビリティの歴史が階級、ジェンダー、人種といった近代の重要な概念形成と密接な関係にあるのなら、この部分を丁寧に解説して欲しい気がする。ややもすると、ジェンダー研究(フェミニズム批評)の活性材料としてディスアビリティという新たな戦闘概念を加えた(だけ)という疑念を抱かせる危険性もある。とはいえ、これらは贅沢な不満である。本書は近代初期・啓蒙期における「欠陥」という可視性を忘却の深い闇から拾い上げたという点で記念碑的なものとなろう。これから我々が着手しなければならない作業は、編者の一人であるNussbaumが言う様に、ディスアビリティ、「欠陥」、畸形等の批判的歴史と系譜学の丹念な分析・記述であろう。 

 

関連文献:

Cohen, Jeffrey Jerome. Monster Theory: Reading Culture. University of Minnesota Press, 1996.

Davis, Lennard J. Enforcing Normalcy: Disability, Deafness, and the Body. Verso, 1995.

……… ed. The Disability Studies Reader. Routledge, 1997.

…….. “Who Put the The in the Novel?: Identity Politics and Disability in Novel Studies”. Novel 31 (1998), pp.317-34.

Deutsch, Helen. Resemblance and Disgrace: Alexander Pope and the Deformation of Culture. Harvard University Press, 1996.

Stiker, Henri-Jacques. A History of Disability . Trans. William Sayers. Forward by David T. Mitchell. University of Michigan Press, 1999. [原著(仏)は1982年 に出版、97年にリバイズされる。“Corporealities”シリーズの一つ。]

Thomson, Rosemarie Garland. Extraordinary Bodies: Figuring Physical Disability in American Culture and Literature. Columbia University Press, 1997.  

 


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田代和生『江戸時代 朝鮮薬材調査の研究』(慶應義塾大学出版会、2000

鈴木晃仁

 優れた歴史のモノグラフは、歴史学のさまざまなディシプリンにまたがって分類することが可能であることが多い。現在であれ過去であれ、人間の活動は多数のファクターが絡み合っている複合体であり、その活動が記された資料を的確に把握しようとすれば必然的に多面的な考察が必要になる。あるアーカイヴの豊かさを損なわずに全体像を捉えようとした歴史研究が、「××史」という区分けを拒むことがしばしばあるのは必然的であると言ってよい。田代和生『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』は、まさにこのタイプの著作である。田代の労作は、享保期の日本外交史・日朝関係史の書物と考えることも、財政政策史への貢献として読むことも、あるいは博物学史の作品として評価することも可能であろう。そのような可能性を念頭に置いた上で、ここでは田代の書物を「医学史・医療史」、特に「薬の歴史」の研究の文脈の中に位置付け、ヨーロッパを中心にした研究者の視点から書評を試みたい。

 ヨーロッパとアメリカの医学・医療の歴史の研究は近年になってめざましい充実を見せている。その中で、病気の治療法 (therapeutics)の歴史の大枠がやっと見えてきたのは比較的最近のことである。治療の歴史の研究が遅れた大きな理由は、何と言っても20世紀に入るまで「治療」は西洋医学の恥部であったからであろう。ヨーロッパの内科医学は、話を「治療」に限れば20世紀の前半までほぼ全面的に無力であり、無益で往々にして有害な治療法を患者に施しつづけてきた。(ある医学史家によれば、医者にかかったほうが患者の生存のチャンスが大きくなるのは1920年代だという。)過去の医学の進歩と栄光を記すことに情熱を注いできたかつての医学史家たちが治療の歴史を正面から取り上げることを躊躇ったのは、そこに顕彰すべきものがあまりに少なく、理解に苦しむような「蒙昧さ」があまりに多かったからだったという事情が大きく影を落としている。言葉を換えると、治療の問題が医学史の本格的な研究対象になるためには、「進歩」とは別の枠組みでその歴史を眺め始める必要があったのである。

 現代の私たちが病気を治したり予防したりする方法は大別すると三種類ある。ガンや脳梗塞にならないために、タバコを止めたり食事内容に気をつけたりエアロビクスに通ったりするのが一つ。病気になった時に「薬を飲む」のが一つ。そして外科的な手術によって病気の原因となっている部分を切り取ったりするのがもう一つである。この三者のなかで、最後の外科的な侵襲を除き、第一と第二の方法はヒポクラテス以来、歴史上長い期間にわたって広く治療・予防の手段として用いられてきた。ヨーロッパの医学的伝統の中で、前者は regimen (養生)と括られ、後者は medicine (薬)として捉えられる、医者の立場から見ても患者の立場から見ても大きく異なった原理に基づいて病気をコントロールする方法であった。患者の側から見たとき、regimen は数ヶ月から数年、あるいは一生にわたった生活習慣の改変を要する長期にわたって持続される行為であり、また食事、運動などの生活上の習慣を選択するという意志の力を用いて主体的に行う行為である。それに対しmedicine の方は、比較的短期間で完了するニートな行為であって、薬を飲みさえすればそれでことが済むと言ってもよい、患者の主体的なかかわりの程度が低い行為であった。

 近年の研究の進展により、17世紀から20世紀までの regimen medicine の歴史において、幾つかの大きなシフトがあったことが明らかになりつつある。その中で特に注目に値するのが、 Harold Cook, Roy Porter らが唱えた、17世紀から18世紀における regimen の衰退と medicine の興隆のモデルである。かいつまんで言うと、CookPorter らが提唱しているシナリオは、イングランドやオランダといったヨーロッパの先進地域の都市部の上流・中流層において、病気の治療は、長期間にわたり意志力を絶えず行使してライフスタイルを選択するという行為に依ることが少なくなり、薬を飲むという単純で局限された行動によって行われるようになった、というものである。治療の重心がこのように変化した背景にあった事情として、二つのファクターが考えられている。即ち、専門職(内科医)とギルド(外科医と薬種商)のタイトな支配のもとにあった医療の領域が、新たに市場経済の波に洗われて徐々に変容した結果、「商品の購買によって健康になる」という受療のパラダイムが優勢になったこと。第二に、宗教改革の厳しい禁欲と彼岸性の希求から、現世での善と功利を追求する啓蒙期へとヨーロッパの先進地帯の文化が変容したこと。この二つの事情を背景に、処方箋がなくても代金を払えばすぐに買え、しかも時間と意志力のコストをかけずに「健康」になれるという謳い文句の「薬」の重要性が上昇したこと、というのが、医学史家たちが今のところ受け入れているシナリオである。

 このようにして重要な商品となった薬とそれの原材料となる動植物は、17世紀から啓蒙期にかけてのヨーロッパの文化と商業活動の中で大きな関心の対象になる。いわゆる大航海時代から始まった新世界の動植物採集と、その中から薬効があるものを確定する作業はさらに拡大していく。新大陸由来とみなされることが多かった梅毒に対する治療薬は、ヨーロッパの外に自生する植物から得られるに違いないという期待のもと、伝統的な水銀と並んで、南アメリカから輸入されたグアイヤックが治療薬としてもてはやされ、輸入業者のフッガー家に大きな富をもたらした。1630年代にイエズス会士がペルーで発見したキナの木の皮は、現在のマラリアにあたる熱病の特効薬として注目され、その「特効性」は当時の治療のパラダイムの根本を揺るがすものとして議論を呼んだ。1687年にジャマイカに滞在した医者のHans Sloane は、700点に上る植物のイラストと押葉標本(現在ロンドンの Natural History Museum に素晴らしい状態で保存されている)、そして当地で医薬品として使われていたカカオを持ちかえった。このカカオをミルクと混ぜるレシピ(すなわちチョコレート)の特許からスローンが得た財産は、大英博物館の起源となったコレクションを買い集めるための重要な資金源になった。患者の受療行動が支えた薬物への需要は「博物学の世紀」を駆動する力の一つであったと言ってよい。

 こういったヨーロッパの動きに微妙に関係しながら、江戸時代の日本においても本草学と自然誌が興隆したことは、木村陽二郎らの優れた研究が既に示したことである。これまでの日本本草学史の研究は「自然誌家」naturalist というグループに分類しうる個人たちを研究の基本的な焦点とし、彼らが残した本草学・自然誌の書物をグリッドとして、そこから自然誌と言う知的営みの内実とそのコンテクストを再構成しようというスタイルをとっている。このスタイルは、特に自ら植物学者である木村にとって極めて自然なものではあるが、メリットとデメリットの双方を持っている。科学的な思考・活動の過程と変遷・差異をつぶさに検討できるということがメリットであり、一方デメリットは、本草学という営みが行われた社会的な文脈は見えにくくなるということである。木村らの文脈化への努力は、無論ある程度の成果を上げているが、近年のヨーロッパの自然史研究が、博物学の社会的・経済的・政治的な広がりを明らかにしているのと較べると、制約を感じるのは筆者だけではないだろう。

 田代の仕事の大きな意義は、「科学者と科学書」を基本的な研究単位とするタイプの江戸期の医学史・科学史研究に久しくつきまとい、そこに閉塞感と言ってもよいものすら漂わせてきた資料的な限界を突破したことにある。やや乱暴な纏め方を許してもらえるなら、「外交文書を使って医学史を研究する」ことが可能であることを鮮やかに示したことであると言ってもよい。田代が用いた資料の核は、1718年から1751年にかけて、対馬藩宗家が幕府の命を受けて朝鮮の倭館において行った、『東医宝鑑』に記載された薬材の原料となる動植物を確定した作業の記録である。田代の緻密な研究は、この一見すると地味な資料をして、当時の日本の薬学が営まれていた文脈を雄弁に語らしめている。そして田代が明らかにしたのは、評者には同時代のヨーロッパの状況を思い起こさせずにはおかない、薬をめぐるダイナミックな動きである。田代によれば、18世紀の薬材調査の背景に存在した第一のファクターは、17世紀の後半から日本では朝鮮人参の大ブームが起きていたことである。(対馬藩が幕府の認可のもとで輸入していた朝鮮人参の江戸の小売所「人参座」には徹夜行列ができるほどであったという。)第二のファクターは、この朝鮮人参の代価として銀が支払われ、国内の銀が対馬藩を通して流出していることに幕府が問題視していたことである。そして第三のファクターは、八代将軍吉宗が構想した、朝鮮人参を中心に朝鮮医学の薬材を日本で栽培・生産し、自給しようという壮大な計画であった。朝鮮薬材調査とはすなわち、1)国内の需要、2)貨幣政策、3)殖産興業政策を背景にした、自然誌という知的な営みであったことが、田代によって明らかにされたのである。外交・貿易・行政文書というこれまで医学史家たちによっては必ずしも丁寧には読まれてこなかったタイプのアーカイヴから、田代は圧倒的な豊かさと広がりを持って、18世紀の日本の薬学・博物学・本草学の政策的な文脈を描き出し、医学史・医療史の新しい可能性を確かな形で示唆している。巻頭に全掲された美しい動植物の図録、巻末の詳細な資料とともに、これからの医学史が向かうであろう新しい方向において高いスタンダードを示す道標として本書が読まれることを評者は確信している。

 しかしながら、本書が描き残したこともまた多い。モノグラフである本書に18世紀日本の薬の歴史の諸問題の総花的な扱いを期待することはフェアではないし、また「この問題についてもっと知りたい」という気持ちを起こさせることは、ある書物の欠点と言うよりむしろ長所であることを筆者は考えていることを断った上で、本書に「欠けている」視点を敢えて二つだけ指摘したい。まず第一に、ヨーロッパ諸国の薬学と博物学との比較があれば、と思うのは評者だけではないだろう。田代が描く享保期の日本の薬学の状況は、驚くほど同時代のヨーロッパの状況と似ている。田代の学識を持ってすれば、さらに共通点や相違点を浮き彫りにし、薬物の比較史の視座を築けたことは疑いない。もう一つは、「薬を資料とした身体感覚の社会史」の視点である。より具体的には、いったい「なぜ」この時代に朝鮮人参を人々は欲したのだろうか、という問いである。アメリカの医学史家、Charles Rosenberg の至言によれば、薬は患者の身体を媒介にした医者と患者のコミュニケーションの道具である。過去において用いられた薬は、医者と患者が言葉を用いずに行っていたコミュニケーションが封じ込められたタイムカプセルであり、過去の患者の身体感覚が刻み込まれたタブレットであると言うことができる。医学書の症例に記載された処方、病院の膨大なカルテに記載された処方――これらは、「身体感覚の社会史」を計量的に行うことを可能にする極めて豊かな資料である。医学史家たちがまだ手にしていないのは、多くの歴史家たちにとってまったく未知のタイプの「資料」である「薬」を「読み解く」ための方法論である。田代を含めた日本の医学史の研究者たちから、この社会史の一分野を切り開くブレイクスルーが達成されることを祈ってこの書評を閉じたい。

(『三田学会雑誌』2000年より転載)

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Elizabeth Lunbeck, The Psychiatric Persuasion: Knowledge, Gender, and Power in Modern America (Princeton: Princeton University Press, 1994); Jack D. Pressman, Last Resort: Psychosurgery and the Limits of Medicine (Cambridge: Cambridge University Press, 1998).

鈴木 晃仁

 ここに取り上げた二冊の書物は、それぞれ異なったトピックにフォーカスを当てながら、20世紀のアメリカの精神医学の構造転換を論じた大作である。エリザベズ・ランベックの書物は1995年のアメリカ科学史学会の賞をはじめとして3つの賞を、ジャック・プレスマンの書物は99年のアメリカ医学史学会の賞をそれぞれ受賞している。背景になっているリサーチの質といい、議論の射程といい、どちらも歴史学の優れた仕事であることは疑いない。それと同時に、この二冊の書物は大きく異なったアプローチを取っていることにも注目したい。この二冊の書物を同時に書評するのは、近年のアメリカにおける二つの大きな成果が取っている方法の違いを対比することで、現在の精神医学史研究の方向を整理することができるだろう、という狙いに基づいている。

 

ランベックの書物の基礎になっている資料は、ボストン精神病質者病院(Boston Psychopathic Hospital, BPH) 1912年に開設されてからの20年ほどの初期のアーカイヴ、特にサンプリングされた膨大な患者記録である。1970年代以降の精神医学史研究は、二つの研究方向で特に重要な成果を上げてきた。一つは患者記録の統計的な分析や精神病院の行政文書を主として利用した「社会史」の方向であり、いまひとつは精神医学の「言説分析」の方向である。前者の方法のメリットである歴史的な正確さと、後者のメリットである根本問題をえぐりだしていく分析とを融合させたランベックの仕事は、野心的な試みであり、またアメリカにおける精神医学史研究の成熟を物語っている。

本書の基本的な主張は、BPHで営まれた精神医学は、文化と科学の周縁部で閉塞していたアメリカの精神医学が転換していく重要な転機になった、というものである。BPHは、19世紀の重症患者の長期拘禁型の精神病院に対するアンチテーゼとして、知的中心都市の内部に建設され、比較的軽症の患者を科学的に研究することを目的とした施設として構想された。施設の性格の変化に伴い、「正常」の対極としての精神病、「他者」としての「狂気」というよりむしろ、正常と異常の間のゆるやかな推移をあらわす「精神病質」へと医学の理論的な関心も移っていく。その結果、家族関係の軋轢、職場での心理的な問題、そして性の問題といった、程度の差こそあれ誰もが経験する問題が精神医学の中心的な問題として設定される。BPHのプログラムは、アメリカの精神医学の中心問題を「狂気」から「正常と異常」へと拡大し、精神医学を日常生活の心理全体を研究する科学として改造し、その結果として精神医学の思想が社会に広く浸透することに貢献した、というのがランベックの立論である。

 この方向の議論には、狭義の精神医学の理論や実践のみならず、精神医療が営まれている空間がどのように構造化されているか、という考察が不可欠である。ランベックの書物の中で最も注目に値するのは、彼女が、BPHの内部の問題と外部の問題を同時に射程に収めて議論しているころである。病院の中で行われた行為、たとえば診断や治療などと、病院の外の問題である、患者がそれぞれの家庭や職場で経験したさまざまなトラブルなどは、一続きの連続した問題として把握されている。すなわち、この書物は、病院にベースを置く精神医学と、一般の人々の日常生活とが、双方向の密接な関係を持つようになってきた構造の形成を、アメリカの精神医学のモダニティとして捉えているのである。ランベックの議論の大枠そのものはさして目新しいものではない。アッカークネヒト(あるいはそれ以前)から、20世紀の精神医学を閉塞から救ったのは、入院型ではなく外来の病院であり、そして特に神経症患者たちとの接触であった、という解釈は標準的なものになっている。ランベックが行ったことは、新しい問題関心(フーコーとジェンダー)と、より広い射程の中で、この馴染み深い物語をスリリングな語り口で語りなおしたことである、と言ってもよい。 

BPHのアーカイヴの分析は確かにランベックの解釈を支えている。しかし、精神分析でもアドルフ・マイヤーでもなく、BPHのパラダイムこそが、20世紀のアメリカ精神医学の転換の鍵であるとしたランベックの主張の根幹の部分には、全く証明が与えられていない、という厳しい、そして的確な批判をしたのが、ジャック・プレスマンである。(Bulletin of the History of Medicine, 1997) そして、この書評の翌年に出版されたプレスマンのLast Resortは20世紀のアメリカの精神医学について全く異なった歴史を語っている。
 プレスマンの書物は、精神外科、特にロボトミーの問題を正面から取り上げている。1935年から50年代の半ばまで、少なくともアメリカでは20,000人の患者に施されたこの「治療」は、精神医療の歴史の中で、おそらくもっとも「悪名高い」治療である。映画『カッコーの巣の上で』のエンディングに象徴されるように、精神医学が患者の人間性を踏みにじる暴力の象徴として、一般の人々と多くの医者たちの心の中にロボトミーは根付いている。この汚辱にまみれ、論争の渦中にあった治療法の歴史を書くとき、パルチザンの立場をとらないことはきわめて難しい。それを「誤った精神医学」として糾弾するか、あるいはロボトミーがもたらした「効果」を一方的に強調して正当化するか、である。プレスマンは、このどちらの陥弄からも距離をおいて、ロボトミーが「なぜ」受け入れられたか、という問いを厳密に歴史的なものとして答えようとする。そこにある姿勢はしかし、ロボトミーの歴史を過去の一つのエピソードとして扱おうという「醒めた」ものではなく、厳密な考察だけが可能にしてくれる根本的な構造的問題を明らかにしようという真摯な迫力である。
 プレスマンはアドルフ・マイヤーの精神医療の改革のプログラムから話を説き起こす。1920年代にマイヤーは、これまで別々に営まれていた@アサイラムの精神医学、A神経学、B一般診療の三者を包括した新しい問題系を立てる野心的なプログラムを提示していた。プレスマンは、このマイヤーの精神医学を再構築のためのプログラムの一つの現われが、ロボトミーであるということを指摘する。ロボトミーは、神経学者・神経外科医が開発したテクニックがアサイラムに適用された治療法だからである。アメリカにおけるロボトミーの開始に指導的な役割を果たしたのは、エール医学校の神経学者John Fulton であったが、フルトンから実際のロボトミーが行われた場に至るまでの距離はきわめて大きい。オクスフォードのシェリントンやハーヴァードのクッシングの愛弟子で30歳にしてエールの生理学教室の主任となり、国際的な神経学の舞台で颯爽と活躍していたダンディなエリート科学者とそのサークルの間で1930年代初頭に生まれたテクニックは、それから15年後には、自らの汚物にまみれて鎖に繋がれた全裸の患者たちがまるでおびえた獣たちのようにうずくまっている州立の精神病院の病棟へと移植されたのである。
この「移植」が可能であった、それどころか必要ですらあったのは、当時の州立の精神病院が直面していた深刻な問題による。ジャーナリズムは州立病院の悲惨な状況を暴露した。さらに深刻なことに、ジャーナリストたちに改めて言われなくても、州立病院の精神医たちは、自分たちの仕事が到底「医学」とは言えないことを知り尽くしていた。慢性的・絶望的に不足しているスタッフのもと、医者たちは病院の「管理」に明け暮れ、患者を治療するような「医学的」な行為は悲しいほど少なかった。一方で、インシュリン・コーマや電気ショックなどのヒロイックな治療の部分的な成功などによるオプティミズムの中で、州立病院の患者たちになんらかの「治療」が行われなければならない、という雰囲気があった。ロボトミーはもともと急性の興奮性のうつ病の患者などに適用されて大きな「ゲイン」を上げていたテクニックだが、州立の病院に移植するときには慢性的な分裂症が大きなターゲットになった。慢性の分裂病患者は当時の病院においては、管理上・経営上の最大のトラブルであり、このグループに対して何らかの効果がある行動がとれる(そしてそれを「医療」と呼ぶことができる)のは大きな魅力であった。こういった状況にあわせて、「治療」の概念そのものが、描きなおされる。患者の攻撃性・能動性を失わせ、行動を沈静化し管理しやすくなるというゲインが、ロボトミーが「治療」として有効か否かという試金石となる。大まかにいって、こういった事情が、ロボトミーが正当な科学的な治療として大々的に行われた理由である、とプレスマンは結論する。

ランベックとプレスマンの書物がその方向において最も大きく異なるのは、精神医学という領域の「開放性」と「自律性」をどう捉えているか、の違いである。ランベックの書物においては、精神医学は社会・患者・家族・ソーシャルワーカーたちとダイナミックに関連を持っている。自らの外のファクターに働きかけてそれを変えると同時に、自らも外から働きかけられて変わっていく。ランベックが描くのは、基本的に社会の中でフレキシブルに姿を変えながら浸透していく精神医学の言説である。一方プレスマンが描くのは、精神医療上の一つのテクニックが、ためらいと反対とを押し切って自らを貫徹させた姿である。そこにあるのは、精神医学内部の硬直したロジックがすさまじい力を患者に行使した姿である。前者が患者とクライアントに対してしなやかな精神医学の姿であるとすれば、後者は有無を言わせぬ精神医学の姿である。この二つのアスペクトが複雑に錯綜している有様を見極めることが、これからの精神医学史の一つの大きな仕事になっていくだろう。


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