本書はミシガン大学出版から刊行されているシリーズ「身体性(Corporealities)――ディスアビリティの言説」の中の一巻である。このシリーズの刊行が示している様に、ディスアビリティ研究(disability
studies)は近年の人文・社会科学における新しい研究分野の一つとなっている。とはいえ、ジェンダー、人種、階級といった特権的な差異カテゴリーが恐ろしいほどの勢いで同じ人文・社会科学の諸分野を席巻していることを考えれば、ディスアビリティというもう一つの「巨大」マイノリティー・グループ(人口比率12から15パーセントとも言われている)がその偏在性にもかかわらず、諸研究の視野に入ってきたのがつい最近だというのはいささか驚きではある。本論集はかくなるディスアビリティ研究を啓蒙期(18世紀)研究に取り込み、近代初期がいかにディスアビリティ研究にとって重要な時代であるかを示唆する。
本書で俎上に上げられているのはいわゆる「障害者の身体」(disabled bodies)のみではない。“Defects”という語によってより広い意味での「ディスアビリティ」の身体が取り上げられている。フリーク、怪物、怪物と見なされた「女性」、宦官、老人、審美的醜さ、そして比喩としての「怪物性」等である。こうした「アブノーマル」な身体は近代初期において、ノーマルな身体性と主体性の形成に寄与するために社会的・文化的に呼び出されたのだ。サブタイトルの「近代的身体の出生」とはかくなる事象を物語る。
3部構成からなる本書は第1部でディスアビリティに関する3論文、第2部で怪物性をめぐる4論文、第3部で欠損(imperfections)というテーマのもとに3論文が序論と後書きを前後にして収められている。「欠陥」(defects)という幅広いテーマを反映してか、取り上げられる題材も多枝にわたる。様々な「欠陥」の持ち主であるジョンソン博士(片眼を失明、片方の耳の聴覚を奪われ、顔は天然痘で損なわれ、身体はチック(不随意痙攣)で異様な様を呈し、精神的にも重度の鬱とヒポコンデリィで自殺衝動に駆りたてられる)は二人の論者によって取り上げられている。Lennard
J. Davisはジョンソン博士の表象が18世紀におけるディスアビリティの2つの言説のなかでいかに矛盾を孕んだものになったかを検証し、Helen Deutschは別の観点からジョンソン博士の「欠陥」を彼の文学スタイルとの参照のもとに捉え直している。Barbara
M. Benedict は文壇から社会へ目を転じ、1790年ロンドンで起きたRenwick Williamsの婦女暴行事件を取り上げる。Benedictが論じるに、啓蒙思想(感受性・センティメンタリズム)が否定したかに見える性的欲望・人間の獣性がこの事件によって(中産階級の)人々の心に喚起される。甦った性的欲望は、偶然にもセンティメンタリズムの文化価値コード(洗練性、感受性、社交性等)を具現しているWilliamsに、その価値コードに近いからこそ排除されなければならない「怪物」として投影され、人々は中産階級の身体・主体性を取り戻す。同じ怪物でも、Joel
ReedはCharles Smith(アングロ・アイリッシュ)のテクストを検証することで、18世紀アイルランドの民族意識(アイデンティティ)の形成において民族を代表しその誇りとなる「著名人」以上に民族の「怪物」が民族の「独自性の感覚」を生み出すのに貢献したとし、それは取りも直さず、植民地下にあったアイルランドの「怪物的民族性」の特殊性であったとする。ここにおいて「欠陥」はノームからの逸脱どころかノームそのものとなる。
論文の多くは「怪物」としての「女性性」の文化的構築にページを割いている。これは本書の特徴といっていい。性差は時に「怪物性」「欠陥」として表象され、女性はその本性から「欠陥」を持っているものと見なされる。「自然の欠陥」は「女性化」され、男性性とは明確に区別される。逆に男性にとって「過剰な女々しさ」(effeminacy)が男性性を脅かす「欠陥」として立ち現れる。「欠陥」のある身体と「怪物」としての女性はどちらも、台頭しつつあった中産階級の身体を、ノームを軸として調整・差異化し一つに纏め上げる権力機能の一部であったとされる。ここにおいて、ディスアビリティ研究とジェンダー研究は共闘の可能性を持つ。ディスアビリティ研究とジェンダー研究とを接合することは序論で述べられている様に本書の目的の一つである。Nussbaumはアフラ・ベンとイライザ・ヘイウッドの作品を取り上げ、そこに登場する知覚障害を持つヒロインと宦官の表象をめぐって論を展開し、こう示唆する。18世紀を通して、トマス・ラカーのいう通約不能な差異としての女性性のみではなく、「欠陥」としての女性性――アマゾン的女性とその裏返しである宦官に代表される――がそれに拮抗していたのだと。トマス・ラカーのテーゼを敷衍し論を展開しているもう一人の論者は18世紀後半における植物学を取り上げたElizabeth
Heckendorn Cookである。18世紀に生じた自然な性と社会的性、セックスとジェンダーの分離を、植物学は性(動物とのアナロジーによる生殖器と生殖行為)を指標とした植物の分類によって際立たせた(それは人のスタンダートな性のあり方とは多くの場合矛盾する)。と同時に、それだからこそ植物学はその分離を修繕しようとした。Cookは植物学におけるこうしたダメージ・コントロール機能をエラズマス・ダーウィンの著作に読み込む。『植物の愛』は牧歌的な詩とそれに対応する科学的な脚注という2層構造から成っている。牧歌的なロマンス詩は女性(植物は擬人化されている)の慎ましいまでの宮廷愛的物語であるのに対し、それに付された科学的注は、女性の生殖活動に対する積極的参加や女性の生殖器官をあからさまに描写している。これは、慣習的な女性性(牧歌的な詩によって代表される)を科学的な脚注によって転覆しているのだと読むことができるが、その反対に、科学(植物学)によって顕わになった性とジェンダーの分離(怪物的な女性性)をパストラル化することで回収したのだとも言える。それだから『植物の愛』をラディカルな自由愛(特に女性のそれ)を歌った詩とする開放的読解にCookは修正を求める。そうした読みはテクストの内部にある諸矛盾(怪物性)を解消して初めて成り立つのであり、リンネ植物学のパストラル化とも呼べる行為の延長である。同じ女性でもJim
Campbellが扱うのは老女である。Campbellは最初に18世紀の絵画に見られる老いの捉え方に注目し、それが大まかな量的モデル(減るか増えるか)に基づいているとする。楽観的な老いの見方によれば、威厳・繁栄の徴として「咽のぜい肉」(dewlap)が歳を重ねるごとに増えている姿が描かれる(皺はめったに描かれない)。あるいは、老人の顔が成長し続けるかのようにやや大きく描かれたりもする。他方、悲観的な見方(風刺に多いが)によれば、老いは肉を剥がれ次第に骨になるような姿で描かれる。それは威厳と人格が削がれていくのと等価である。次にCampbellは女性における老いへの移行の仕方に注目し、それが時間性の否定の上に成り立つ突然のものであることを指摘する。若さ(美と等価)を失えば突然に老い行く。余生(after-life)とは若さを失った後の長い人生のことを指す。女性は余生において身体性を否定し霊的に生きる様に求めらる。しかし、それは老いる姿が(しばしば男性の目から見れば)恐怖と映るからに他ならない。徐々に老いるという時間性を非時間的タブローに凍結させることでその恐怖を戦略的に回避できるのだ。これは18世紀後半にJames
Grangerによって老人が身体的「不具者」と同じカテゴリーに分類されたことを考えると興味深い。
「欠陥」のある身体はポープ、ジョンソン博士、バイロン卿といった著名な文筆家にもみられるし、あるいは、サラ・スコットを始めとする小説の中にもたびたび登場する。例えば、フィールディングの『アメリア』の鼻が欠けているヒロイン(それにもかかわらず、彼女はあたかも美しいかのように描かれているのだか)、フランシス・バーニーの『カミラ』のユージェニア、オースティンの『説得』のスミス夫人等。文学の世界を離れても障害者である下院議員のウイリアム・ヘイが18世紀半ばホガースの美学を流用して、「欠陥」のある身体(彼の場合、歪曲した背骨)が美しいとするエッセイを書いている。こうした「可視性」にもかかわらず、身体的「欠陥」は近代初期・啓蒙期研究において無視され続けてきた。これは裏を返せば、この時代において「欠陥」のある身体は我々が感じるような「問題」のあるものではなかった、それ故研究するものの視野にも入って来なかったということなのかもしれない。「欠陥」のある身体はそこにはあったが、医学的、病理学的、社会的に徴付けられてはいず、ただ漠然と怪物性、奇形性、ディスアビリティ、欠陥といった諸カテゴリーが渾然一体としていたのだと。しかし、それはLennard
J. Jonesが力説しているように、事実の半面でしかない。18世紀は後向きに見ればディスアビリティの言説が欠如していたと取れるが、前向きに見ればディスアビリティの新たな言説の形成の時期でもある。この新たな言説によって、ディスアビリティは、驚異の眼差しから臨床医学の眼差しの下に追いやられ、医学によって包囲され、時には隔離され、法的道徳的に定位される存在となる。もはや、ディスアビリティは個人的なものではなく(例えば、母親の想像力によって生まれた奇形児)集団的なものとなる。ボズウェルにみられるジョンソン博士の「欠陥」身体の記述が矛盾を孕んだものであること――それは呼び起こされると同時に否定される――は相反する2つの言説が拮抗するする時代にあったからだと言える。その証拠に19世紀にはジョンソン博士はその「欠陥」的障害を乗り越えた偉大な文人(障害があればこそ成功したというディスアビリティの神話・物語)として称えられるのだから。
「欠陥」というタームによって示唆される指示範囲の広さ故か、全体を通して見ると、やや纏まりに欠けるといった感が否めない。「欠陥」という大風呂敷の下ではmonstrosity,
disability, deformityといった概念がどの様に分節されていたのか――それらは等価な概念だったのか、それとも18世紀において差異化されつつあったのか――が見えてこない(先のJonesによればそのどちらでもあったということになるが)。もちろん、現代的意味でのディスアビリティという概念は18世紀において流通してはいなかったが、身体的、精神的「障害者」がどう扱われていたのか、彼らの身体がどのような眼差しに晒されていたのか、どのような言説に包囲されていたのか、特に「感覚」の世紀である啓蒙期において知覚障害がどのような位置を占めていたのか等、ディスアビリティ研究をこの時代に引き込んだ場合争点となるような部分が弱いように感じられる。反対に、本書の目論見の一つであるこの時代におけるディスアビリティ研究とジェンダー研究の結託は成功しているようだ。しかし、比喩としての「怪物性」「欠陥」と現実の「欠陥」身体とを同じ土俵で論じると読み手もやや混乱するのではないだろうか。ディスアビリティの歴史が階級、ジェンダー、人種といった近代の重要な概念形成と密接な関係にあるのなら、この部分を丁寧に解説して欲しい気がする。ややもすると、ジェンダー研究(フェミニズム批評)の活性材料としてディスアビリティという新たな戦闘概念を加えた(だけ)という疑念を抱かせる危険性もある。とはいえ、これらは贅沢な不満である。本書は近代初期・啓蒙期における「欠陥」という可視性を忘却の深い闇から拾い上げたという点で記念碑的なものとなろう。これから我々が着手しなければならない作業は、編者の一人であるNussbaumが言う様に、ディスアビリティ、「欠陥」、畸形等の批判的歴史と系譜学の丹念な分析・記述であろう。
関連文献:
Cohen, Jeffrey Jerome. Monster Theory: Reading Culture. University
of Minnesota Press, 1996.
Davis, Lennard J. Enforcing Normalcy: Disability, Deafness,
and the Body. Verso, 1995.
……… ed. The Disability Studies Reader. Routledge, 1997.
…….. “Who Put the The in the Novel?: Identity Politics and
Disability in Novel Studies”. Novel 31 (1998), pp.317-34.
Deutsch, Helen. Resemblance and Disgrace: Alexander Pope
and the Deformation of Culture. Harvard University Press, 1996.
Stiker, Henri-Jacques. A History of Disability . Trans. William
Sayers. Forward by David T. Mitchell. University of Michigan Press, 1999. [原著(仏)は1982年
に出版、97年にリバイズされる。“Corporealities”シリーズの一つ。]
Thomson, Rosemarie Garland. Extraordinary Bodies: Figuring
Physical Disability in American Culture and Literature. Columbia University Press,
1997.
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