文献紹介の目次
原稿が事務局に寄せられた順に掲載しております。
最終更新日2006年02月22日
(26)
new
George S. Rousseau,
Nervous Acts: Essays on Literature, Culture and Sensibility

(25)
Sander L. Gilman,
Fat Boys: A Slim Book

(24)
Caroline Walker Bynum,
Metamorphosis and Identity


(23) Courtwright, David T.,
Forces of Habit: Drugs and the Making of the Modern World

(22) Davidson, James,
Courtesans & Fishcakes: The Consuming Passions of Classical Athens

(21) レベッカ・L・スパング、
『レストランの誕生――パリと現代グルメ文化』

Laura Otis,
Networking: Communicating with Bodies and Machines in the Nineteenth Century.
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(20)
Susan Merrill Squier,
Babies in Bottles: Twentieth-century Visions of Reproductive Technology


(19) Peter N. Stearns,
Fat History: Bodies and Beauty in the Modern West.

リン・ハント編
『ポルノグラフィの発明 猥雑と近代の起源 1500-1800』
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(18) Alan Richardson,
British Romanticism and the Science of the Mind.
(17) James Elkins
Pictures of the Body : Pain and Metamorphosis
(16) Yve-Alain Bois and Rosalind Krauss
Formless: A User's Guide.
(15) Jane Caplan ed.,
Written on the Body: The Tattoo in European and American History
(14) Michael Anton Budd,
The Sculpture Machine: Physical Culture and Body Politics in the Age of Empire
(13) ディディエ・アンジュー
『皮膚─自我』
(12) Ed. Anne Hunsaker Hawkins and Marilyn Chander McEntyre
Teaching Literature and Medicine
(11) Joseph R. Roach
The Player’s Passion
(10) Hall, Thomas S.
History of General Physiology, 600 B.C. to A.D. 1900. 2 vols.
(09) Gilman, Sander L.
Sexuality: An Illustrated History:Representing the Sexual in Medicine and Culture from the Middle Ages to the Age of ADIS.
(08) Gilman, Sander L.
Making the Body Beautiful: A Cultural History of Aesthetic Surgery.
(07) Yolton, John W.
Thinking Matter:Materialism in Eighteenth-Century Britain.
(06) Rousseau, G.S. ed.
The Language of Psyche: Mind and Body in Enlightenment Thought.
(05) Bewell, Alan
Romanticism and Colonial Disease.
(04) Fletcher,Anthony
Gender, Sex & Subordination in England 1500-1800.
(03) Vila, Anne C.
Enlightenment and Pathology: Sensibility in the Literature and Medicine of Eighteenth-Century France.
(02) Barker-Benfield, G.J.
The Culture of Sensibility: Sex and Society in Eighteenth-Century Britain.
(01) Stafford, Barbara Maria.
Body Criticism:    Imagining the Unseen in Enlightenment Art    and Medicine.


文献紹介
 

George S. Rousseau,
Nervous Acts: Essays on Literature, Culture and Sensibility.
Palgrave, 2004. Xii+395pp.
   文学と医学の脱領域的研究、とりわけ神経を巡るそれをリードしてきた碩学G.S. Rousseauが過去30年あまりに渡って書き連ねた「神経と感受性」を巡る一連のエッセイを纏め、70頁に及ぶイントロを付す。過去の論文を一つに纏める手法や長文のイントロ、一つ一つの論文に付された著者の序文、大分の参考文献目録などルソーらしい一冊といえよう。ロマン派に連なる文芸的想像力の基礎・起源を17世紀中葉の解剖・生理学に求め、この分野でパイオニア的な研究となった、1969年発表の「想像力の発見」に関する論文や、「感受性の起源」を17世紀中葉の脳・神経解剖学、特にトマス・ウィリスのそれに求めた論考「神経、精気、繊維――感受性の起源を求めて」(1975)、神経と「母親の想像力」(1972)、「神経と人種」(Le Catの神経学)についての論文(1973)、Bienvilleのニンフォマニアについての論文(1982)、そしてより最近の18世紀啓蒙期の神経言説の様々な分野への波及を論じた2論文、「神経の言説」「神経のセミオティックス」など、1969年〜1993年までに発表された論考8本を収める。最初の5本はルソーの集大成ともいえる三巻本(Enlightenment本)の中に収められてはいるが、彼の神経関連のエッセイを纏めて見たいという人にはお薦め。ルソーも語るように、18世紀からロマン派(あるいはそれ以後)における感受性と想像力の台頭と復権に内在する「神経・精気・繊維の神経学的パラダイム」というテーゼは、90年代以降になってようやく注目を浴びるようになった。30年前、18世紀の感受性の勃興を論じるのに、また、ロマン派の想像力を論じるのに誰がウィリスやチェイニーを語っただろうか。今や、ウィリスの脳神経学はこうしたテーマを論じる際の必須アイテムの一つとなっている。この分野においてルソーがいかにパイオニア的だったかを改めて確認できる。巻末の文献目録はfurther readingとしても有益だろう。つまらない揚げ足とりになるが、7章と8章に付された序文が逆になっている。これもルソーらしいミスといったら叱られるだろうか。(石塚久郎) 目次に戻る

Sander L. Gilman,
Fat Boys: A Slim Book
(Lincoln: U of Nebraska P, 2004) xii+ 310pp.
 ギルマンによるデブ男の文化史。肥満(fat)と女性については様々な角度から研究されてきた。脂肪(肥満)はフェミニストの争点とされるが故に隠されてきたのが、男性と脂肪(肥満)との、歴史的に見てより親密で中心的ともいえる関係だ。ギルマンは、太った女性という病理的対象が出現したのは、つい最近(20世紀)になってからのことであり、長い歴史からすれば、むしろ脂肪・肥満・デブ(fat)は男性の問題として定位されてきたとし、古代ギリシアから現代に至るまでのデブ男の医学的、文学的表象を幾つかの視点から辿る。Peter Stearnsが肥満の歴史で指摘したように(Book Notice参照)、20世紀以前には男性にとって「でっぷりとしていること(太っ腹)」(plumpness)は「富」や「成功」の徴ではあった。しかし、ギルマンが言うに、「太っ腹」とは受け入れがたい過度に太った身体、病的肥満に対する男性の不安や怖れはマージナルではあるが常に男性の心の中に付き纏っていた。デブ男のボディ・イメージは、ノーマルで理想的な男性性と自己イメージのリミットとして西洋の男性につきつけられてきた。デブで肥満な身体は、時に、大食漢という七つの大罪の一つと結びつき怠惰さと罪あることを体現し、そしてある時には、好色でありながら脱‐性化され「女性化」された身体を、またある時には、あまりの体重で身動きがとれないという意味で市民の義務(労働)を果たせない「失敗した」身体を具現する。肥満はまた、愚鈍な知性に結び付けられ、またある時は、意志の病(abulia)の徴となる。なにより肥満体は、糖尿病などの病に罹り易く、寿命も短い。肥満体であることは、すなわち、既に常に「老いている」ことと同義だ。ギルマンは、歴代のダイエッターの点描や文学作品の中のデブ男の描写の分析を通して、ジェンダー、性、老い、病といった肥満にまつわる意味付けを明らかにする(主に1,2章)。フォルスタッフの肥満する身体の成長(=老い)の過程とその後の彼に対する「医学診断」の歴史を辿った3章、神経医学において「脂肪」が好意的に解釈され、それが19世紀末から20世紀前半にかけての「太った推理探偵」という新たな登場人物をつくりあげたことを説く4章、20世紀アメリカの野球選手の身体、特に太ったベイ・ブルースの身体性とスポーツ医学の発展を論じる5章というように、全体的に見て(恣意的な?)ケース・スタディの寄せ集めであり、議論もうまく纏まっているとはいえず、更に図版も皆無というのだから正直な所少々期待はずれだが、サブタイトルにあるように、デブ男の文化史を一挙に引き受けるものではなく、あくまで点描であり、この研究をベースにしてこれから「デブ男」の身体とそのファンタジーの複雑な文化史が解明されることが期待される。(石塚久郎) 目次に戻る

Caroline Walker Bynum,
Metamorphosis and Identity.
(New York: Zone Books, 2001) hardback, 280pp.
 Holy Feast and Holy Fast (1987) で一躍脚光を浴び、その後も華々しい研究を発表し続けている現代屈指の中世史家バイナムの「変化とアイディンティティ」を軸にした4つの論考を纏めた論集。題材は12世紀から13世紀にかけての中世の神学、文学、自然科学だが、バイナム流に現代的問題とも対話させていて面白い。変わるとは本性に係わることなのだから、そもそも変化の問題とアイディンティティの問題は切っても切り離せない。何かに変わるとは、一つには本性が別の何かに置きかわることである(replacement-change)が、他方で、我々が歳をとるように、同じものが本性を保ちながら変化(進化)する変化の様態(evolution-change)もある。前者はラディカルな置換を後者は本性の持続を強調している。バイナムが注目するのは、12世紀末から13世紀初頭にかけて「変化」の概念をめぐって後者から前者への変遷があったにもかかわらず、本性(identity)のラディカルな置換(変容)に対する執拗な抵抗が、例えばこの時期リバイバルする狼人間(werewolf)等の変身物語に顕著に見られるということだ。変容(metamorphosis)にはアイディンティティの喪失とともに必ず本性を示唆する身体的残滓がついてまわる。バイナムがかくなる変身物語の変容の様式に見出すのは、他でもない、現代我々の移ろい行く自己(アイディンティティ)――時間のなかで変化すれど私であるこの自己――を可視化するのに有効なメタファーでありイメージであり物語である。ハイブリディティ(hybridity)と変容(metamorphosis)という基本的に異なる変化の様態――前者は空間的、視覚的で、本性を維持するのに対して後者は時間的、流動的で、ナラティブの中で展開する――を援用して、中世の怪物や変身物語を現代のアイディンティティの問題へと繋げるスリリングな論考である。本年度のテーマである「身体改変」を考える上でも基本文献となろう。(石塚久郎) 目次に戻る

Courtwright, David T.,
Forces of Habit: Drugs and the Making of the Modern World
(Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2001).
 近年、タバコやドラッグは政策上の論議の焦点のひとつになっている。それらを「意識変容物質 psychoactive substance」として捉え、タバコ、アルコール、カフェインといった合法的なものと、アヘン系・コカイン系・カナビス系などの非合法なものを区別しながらも、ひとつの枠組みのなかでまとめ、巨視的・鳥瞰的な歴史を書いた書物。薬物と、それを生産し販売する生産者と、それを利用する消費者の身体と精神のグローバル・ヒストリーである。大航海時代からの「薬物のグローバライゼーション」、そして19世紀の末からのヨーロッパ諸国の方向転換という、ケレン味がないクロノロジーを豊かに肉付けした書物で、この問題につき、まず最初の読まれるべき基本文献になるだろう。(鈴木晃仁) 目次に戻る

Davidson, James,
Courtesans & Fishcakes: The Consuming Passions of Classical Athens
(New York: HarperCollins, 1997).
 この数十年間、ケネス・ドーヴァーとフーコーの「権力」モデルの影響下にあったギ リシアのセクシュアリティ研究の基本的な枠組みを全面的に書き換えた作品。「挿入する者とされる者の間のゼロサムゲーム」という、小文字の政治分析を超えて、ポリスにおける大文字の政治性の中に欲望を位置づけた。この大きな書き換えの突破口になり、導きの糸になったのが、食物と酒への欲求の分析である。おかずの魚ばかり食べてパンを食べないのは、なぜいけないのか?ワインはどのくらいの水でわるのがいいのか?こんな問いから、アテネの民主主義とギリシア哲学の本質を問い直した。該博な知識と深い洞察を軽々とまとった文体も魅力である。同じ筆者による “Dover, Foucault and Greek Homosexuality: Penetration and the Truth of Sex”, Past and Present, No.170(2000), 3-51は、セクシュアリティに限ってドーヴァーとフーコーを正面から取り上げた論文である。(鈴木晃仁) 目次に戻る

レベッカ・L・スパング、
『レストランの誕生――パリと現代グルメ文化』
小林正巳訳、青土社、2001年
(Rebecca L. Spang, The Invention of restaurant: Paris and Modern Gastronomic Culture, Harvard UP, 2000)

 本来は体力を回復させる食べ物ないしは薬を意味していた「レストラン」がいかなる経緯において現代的な意味でのレストラントになったのかを詳細に追った、この数年間での食に関する研究の最良の成果の一つ。これまでの美食列伝的レストランの逸話的記述とは全く異なる高度な学術的歴史記述となっている。18世紀半ば過ぎのパリにおいて、回復食であった「レストラン」を虚弱体質で繊細な人々――彼らは夕食を口にすることが出来ないか、厄介な食欲を持っている――に専門に提供する店が現れる。これが後にレストランと呼ばれるものの始まりである。レストランはその初期の段階において18世紀の「感受性の文化」の産物としてあったともいえよう。レストランの顧客(=患者)は、敏感な心と繊細な精神の印である食欲不振と消化不良を人工の乳ビたる「レストラン(肉のエキス、コンソメ)」を食することで自らの感受性を誇示したのだから。その20年後にはレストランは個々人の味覚にあった料理を提供する場となる。私的な食欲と個人の創出がレストランという公共圏の異端児のなかで出会う。革命の混乱期においてレストランを巡る議論は政治化されるが、19世紀初頭に現代的な意味におけるレストランが美食学と美食家とともに登場する。レストランはもはや繊細な虚弱体質者への食餌を提供する場でも、革命期の友愛の食事会の場でもなく、それ自体独立した文化社会的制度となる。以後レストランはフランスのグルメ文化の象徴として多種多様な言説(美食文学を筆頭に)の中に取り込まれ、そうした言説を通してフランス料理の優位性と美食の国民性を表すイコンとなる。現代の「食通」の美食文化史家はこうしたレストラン文化の産物に過ぎない。スパングの研究によって最近まで信じられていた、レストランの出現はフランス革命の副産物であるという「俗説」は見事に吹き飛ばされた。美食列伝に縛り付けられてきたこれまでのレストランの歴史は、この書によって新たな道を歩むこととなろう。(石塚久郎) 目次に戻る


Susan Merrill Squier,
Babies in Bottles: Twentieth-century Visions of Reproductive Technology

(New Brunswick, N.J.: Rutgers U. P., 1994)
 Squierは1985年にVirginia Woolf and Londonという研究書を出版しているウルフ研究者でもあるのだが、本書では文学・科学のテクストを縦横に分析する学際的な文化研究に成功している。彼女が着目しているのは、新しい遺伝学、生物学、優生学が発展した1920、30年代の英国。産児制限が一般化し、もっと生殖機能をコントロールできるのでは、という人々の期待を科学技術の進歩が刺激して「生殖技術をめぐる言説」が広く流通した時代である。J.B.S.Haldane, Julian Huxley, Aldus Huxleyなどの一般向けの科学の読み物や近未来を描いた文学テクストを俎上にのせ20世紀初頭の生殖技術に関する論争に潜むイデオロギー性を暴露。そうすることでさらには20世紀末の生殖技術、生命倫理の問題点を逆照射しようと試みている。
 タイトルの "babies in bottles"とはそれらの言説から共通して浮上してくる "ectogenesis" (体外発生/人工子宮による妊娠)を表象するイメージのこと。胎児を母体から切り離し人工的な容器の中で哺育するectogenesisという概念は「生殖とセクシュアリティ」を切り離し「ジェンダーの関係」を再編すると同時に個人と種、大人と子供、人間と動物と機械の関係をもぬり変えていく可能性を孕む。ゆえに1920年代の「生殖技術をめぐる論争」には優生学者、フェミニスト、社会主義者など、あらゆる政治的立場の人々の利害が錯綜しているのである。
 本書の明察は何より、ectogenesisの表象に見られる「人間の生殖機能を科学的に操作、支配したい」という欲望が男性/科学の無意識的な「母体羨望」の表れ、と指摘している点だろう。自分の身体ではなし得ない妊娠・出産という営みを女性の身体から奪い「科学」の力によって「完全な人間/サイボーグ」を創造したい。そんな男性の欲求が生殖技術の進歩の原動力となっていたとは!Babies in Bottlesはこれから何かを産もうとする人、必読の書である。(加藤めぐみ) 目次に戻る

Peter N. Stearns,
Fat History: Bodies and Beauty in the Modern West.
(New York: New York University Press, 1997). ISBN: 0814780709; paper; xvi + 294pp.
 現代のダイエット文化はいつ、どのような社会的背景の中で起こったのだろうか。第2次大戦後の商業的搾取に重点を置いていた従来のダイエット史に代わってStearnsが打ち出すのは、世紀転換期(1890―1910)における根本的変化である。アメリカの白人中産階級はこの時期fat(太っていること、肥満)に対する全面攻撃を開始し、19世紀までドミナントであったボディ・イメージ――太っていることは豊饒と富の徴、痩身はその逆――を反転させた。以後、太っていることは消費主義の物質的成功ではなく、自己抑制不可能なことの徴、ひいては人格上の欠陥を暗示するものとなる。何故人々はこれほどまでfatに対して感情的嫌悪、道徳的反感を抱くのか、それもヴィクトリア朝時代の様々な面における道徳的価値が緩やかになってきた時期に。情動の歴史家Peter N. Stearnsの解釈の面白さは、一般の人々の情動(不安と罪悪感)に焦点をあて、少なくともアメリカではファッションやfaddistsを含めた医学におけるfatに対する攻撃よりも一般人の情動的反感の方が先行していた点に注目し、ダイエットという自己に向けられた新しい規律・拘束が、消費主義と快楽主義が、まさに世紀転換期において勝利しようという時に生じた巧妙な道徳的補償――性、仕事、消費の規制緩和によってもたらされた道徳的不安に対する食べることの抑制という補償――だとする点にある。消費主義の可視的象徴たるfatは、この補償の対象としてうってつけという訳である。同時代のフランスにおけるダイエット文化の勃興をも辿り、フランスではfatが道徳的問題というよりも美的な問題であったことを詳らかにし、fatに対する感情のアメリカの独自性も指摘する。その他、アメリカとフランスの食習慣の違い――美食の伝統を誇るフランスがまさにその食の伝統故に、痩身のボディ・イメージを獲得するのにダイエットを介してアメリカほど戦闘的にならなかったこと、ダイエットにおける性差の問題――時に女性のダイエットに重心が置かれるがちになるが、女性がターゲットになったのは古い性差の基準が消えつつあった1920年代になってからだということ、そして、壮大なダイエット・キャンペーンにもかかわらず20世紀のアメリカにおいては逆に平均体重が増えたこと――それはダイエット文化の非効力性をも示唆している――等、食の文化史、ダイエットの社会史を考える上で非常に参考になる文献といえよう。Fatnessに関する文化的表象の問題を扱った最近の論集に、Jana E. Braziel and Kathleen LeBesco (eds), Bodies out of Bounds: Fatness and Transgression (University of California Press, 2001)がある。(石塚久郎) 目次に戻る

Alan Richardson,
British Romanticism and the Science of the Mind.
Cambridge Studies in Romanticism 47 (Cambridge: Cambridge University Press, 2001) ISBN 0521781914; hardback; xx + 243pp.
 骨相学が十九世紀科学的人種主義の一端を担ったことで汚名を着せられていたGallが、近年の神経科学・認知科学において、骨相学(phrenology)の創始者としてではなく現代脳科学の先駆けである「器官学」(organology)――精神は器官(神経と脳)に こそある――の創始者として名誉回復を遂げている。しかし、生物学的・解剖学的 「脳」を精神の基礎に置くGallの脳科学と一般に身体を超越した精神性が強調される ロマン派とは合い入れないものと見なされてきた。この間隙をAlan Richardsonは当 時の最新の脳科学――Gall, Spurzheimに加えてE. Darwin, Cabanis, W. Lawrence, C. Bellらのラディカルな脳神経学――を拠り所に埋めてみせる。ロマン派を身体か ら切り離された精神性(disembodied mind)によって特徴付けるのがいかに反ロマン派 的であるかを、Coleridgeにおける「新しい無意識」、Wordsworthにおける言語と感 情の問題、Austenの『説得』における脳損傷、神経と感受性の問題、Keatsにおける 脳の栄光化等を通して論じている。最後の章では、短いながらも人種問題に関して、 啓蒙期(普遍主義と環境主義に立つ文化的人種差別)とヴィクトリア朝(近代的科学 的人種差別)の狭間に位置する(初期)ロマン派がいかに微妙な位置にあるかを論じ ている。ロマン派的生物学的精神の理解が必ずしも科学的人種主義とはなり得ないこ とを指摘して、ロマン派を近代科学的人種主義(生物学的身体の中に差異が刻まれて いる)の黎明に位置付けることに留保を付ける。Richardsonの論は明快で説得力はあ るが、同時に、身体と精神の問題をロマン派という非常に短い期間に限って論じるこ との難しさ(Richardsonがいうロマン派的心理学、「新しい脳科学」と啓蒙期におけ る心身論、特に脳神経科学と根本的にどう違うのか)、啓蒙主義とロマン派という古 くて新しい問題の陥穽(Richardsonは前者の受動的精神と後者のアクティヴな精神と いう疲弊した対比を繰り返している)、そしてとりわけ心身二元論という普遍的な問 題の難しさを露呈している。(石塚久郎) 目次に戻る

James Elkins
Pictures of the Body : Pain and Metamorphosis
(Stanford University Press, 1999)
Yve-Alain Bois and Rosalind Krauss
Formless: A User's Guide.
(Zone Books, 1997)
 〈痛み〉を感じるとき、自分の体の〈かたち〉を突如として意識することがある。あるいは逆に、その〈痛み〉によって体の〈かたち〉が崩されてしまいそうになることもある。眼と手は協同して、そのような体の〈かたち〉を定めようと皮を描き、膜を仕切るが、皮や膜は知らぬ間にも〈かたちなきもの〉へと散らばり、〈かたちなき〉液につつまれ、〈かたちなきもの〉へと溶け、〈他なるもの〉へと姿を変えていく。〈かたち〉を定める皮や膜は〈他なるもの〉に汚され、刻まれ - 刺青のように - 、解かれることに開かれており、自らに穿たれ埋めこまれた穴や腺や神経によっても〈他なるもの〉へと繋がっていく。眼と手はそのような〈かたちなきもの〉や〈他なるもの〉に不安や嫌悪を覚えながらもそれに魅かれ、布や幕によって〈かたちなきもの〉や〈他なるもの〉を隠そうとしながらもそれを露にしてしまう。Pictures of the Bodyの著者James Elkinsは90年代後半から驚くほど多数の美術論・視覚論を発表し続けている気鋭の美術史家。Body CriticismのBarbara Maria Staffordに捧げられたこの身体-表象論は、ルネサンス期の人体デッサンや解剖図、一八世紀の骸骨図や顕微鏡を使った細密画、サルペトリエール病院の女性ヒステリー患者の写真集、ジャコメッティやベーコンの人体絵画、核磁気共鳴映像(MRI)、ジョン・カーペンター監督のホラー映画等々、数多ある西洋の身体画像を〈痛み〉と〈メタモルフォシス〉という二つの軸にそって配列しようとする野心的な試みである。〈かたちなきもの〉については、今を代表する美術批評家Yve-Alain BoisとRosalind Kraussの二人が著わした「裏モダニズム美術辞典」Formlessも、その多彩な図版とあいまって、やはり面白く、身体-表象論をさらに展開していくうえでの示唆に満ちている。蒐集された「辞典」の項目は、「死体」・「卑しい唯物論」・「液体語」・「無気味なもの」・「閾穴」・「エントロピー」・「緩慢」・「パルス」など。(榑沼範久) 目次に戻る

Jane Caplan ed.,
Written on the Body: The Tattoo in European and American History
(Princeton:Princeton Univ. Press, 2000)
 私の記憶が正しければたしか鈴木さんが紹介して去年(2000年)の夏に局地的に盛り上がった刺青をめぐる談論のきっかけとなった思い出深い(?)本。ジャネット・ウィンターソンに同題の小説があったっけ。 それはともかく、編者がIntroductionで西洋における刺青の歴史を簡潔にまとめているので、それを読んだあとで各自の興味に従って14本の論文から選択していけばよいのでは。私はやはりヴィクトリア朝英国の刺青文化を扱ったJames Bradleyの論考が面白かったな〜。19世紀後半には王室を含む上流階級で隠れた刺青ブームがあって、日本人の彫師Hori Chyoさんが活躍したんだって。 目次に戻る

Michael Anton Budd,
The Sculpture Machine: Physical Culture and Body Politics in the Age of Empire
(New York: New York Univ. Press, 1997)
 ドイツから移住して、ミュージックホールの肉体芸人から英国王のトレーナーにまで昇りつめ一世を風靡した、ボディビルディングの祖ユージン・サンドウの 19世紀末から20世紀にかけての活動を中心に置いて、この時代の筋肉&肉体文化を、帝国、産業機械文化、消費社会の文脈で捉えた興味深い論考。 日本の肉体文化、柔術の英国における受容などについても触れられていて、その点でも面白い。 目次に戻る

ディディエ・アンジュー
『皮膚─自我』
(言叢社、1993;原題Le Moi-peau;英訳The Skin Egoもあり)
 鏡像段階以前の身体像をめぐる論考として、フランソワーズ・ドルトの『無意識的身体像』(L’image inconsciente du corps)やカジャ・シルバーマンのThe Acoustic Mirrorとともに読まれるべき興味深い試み。精神分析における身体性の忘却を批判し、前個人的な自己形成における触覚─皮膚の役割の中心性を考察する。乳幼児は母の腕に抱かれながらその語りかけを聞くことから、触覚と同時に聴覚的に包まれることによる自我形成についても一章を割いて詳述している。 目次に戻る

Ed. Anne Hunsaker Hawkins and Marilyn Chander McEntyre
Teaching Literature and Medicine
NY: MLA, 2000

 文学と医学を一つのInterdisciplinary Fieldとして研究・教育する試みの論文集です。”Teaching”シリーズの性格上、教室での実践に重点がおかれていますが、 HawkinsとMcEntyreの共同執筆である序論部分“Introduction:Literature and Medicine: A Retrospective and A Rationale”は、北米の大学での「医学と文学」の ここ30年の概観―1972年Pennsylvania大学医学校にJoanne Trautmann(Banks)が文学の教授として着任、その10年後Johns Hopkins大学の学術雑誌Literature and Medicineの 発刊、現在北米の医学校の約1/3で文学の講座があること―が簡潔に纏められています。

 この序論の後は4部構成で、第1部”Model Courses”、第2部”Texts,Authours,Genres”、第3部”Literature in Medical Education and Medical Practice”、 第4部”Resources for Teachers and Scholars in Literature and Medicine”となっています。文学畑の人の関心は第2部ですが、『ボヴァリー夫人』、『ヴェニスに死す』 などヨーロッパ文学まで射程に入っている一方、イギリス関係ではLnglandからいきなり18世紀に飛び、ルネサンスがそっくり抜け落ちていて惜しいです。

 この分野の入門者には、第4部のオンライン・ソース、データベースも含む文献的案内が非常に優れた水先案内になります。めぼしい学術雑誌、「医学と文学」の一次資料のアンソロジーと 二次資料の、「医学史」の一次資料と二次資料などが16ページに渡って掲載されています。(アルヴィ宮本なほ子) 目次に戻る


Joseph R. Roach
The Player’s Passion
(1985; Ann Arbor: University of Michigan Press, 1993)
 演技の歴史を、感情に関する生理学との関連で論じています。17世紀初頭からスタニスラフスキーに至る、西洋の演技論を科学的知の展開を背景に説明する視点は新鮮でもあり非常に面白い本です。従来、演技論ではしばしば戯曲作品に関する知識が要求されましたが、この本では戯曲に殆ど触れていません。Roachは演劇理論学者で、 Janelle Reineltと共編のCritical Theory and Performance (Ann Arbor: University of Michigan Press, 1992)もあります。 (小菅隼人) 目次に戻る

Hall, Thomas S.
History of General Physiology, 600 B.C. to A.D. 1900. 2 vols.
(University of Chicago Press)
 9番までの文献(以下に紹介した文献)のほとんどが最近もののだったので、一つぐらい古典的なものを入れてもいいのではと思い、これをあげました。タイトルから見てわかるように、生理学(広い意味での)の歴史を古代から19世紀末まで概観してます。要所要所をしっかり押さえており、解説も明快、まさに教科書と呼ぶにふさわしい本です。1969年初版のタイトル、Ideas of Life and Matter: Studies in the History of General Physiology, 600 B.C?A.D. 1900が後に変更。(石塚久郎) 目次に戻る

Gilman, Sander L.
Sexuality: An Illustrated History:Representing the Sexual in Medicine and Culture from the Middle Ages to the Age of ADIS.
(Wiley,1989)
 [邦訳、『「性」の表象』青土社、1997年]Gilmanの代表作の一つ。Staffordに匹敵するイラスト(図版)のすごさが光ります。Gilman御得意の「投影」理論を使って、性の表象・表現を中世から現代(AIDS)までたどっています。性のイメージは自己(主に男性)の「抑えきれない」性的欲望とそれに由来する無秩序の外界への投影であり、それゆえ幻想である、というのが骨子ですが、とにかく読み応えあります(こちらも前者同様ダブリはあります)。ちなみに、図版は原本のほうが大きさ、美しさにおいて翻訳より勝っています。翻訳は人物名の表記にやや難あり。(石塚久郎) 目次に戻る  

Gilman, Sander L.
Making the Body Beautiful: A Cultural History of Aesthetic Surgery.
(University of Chicago Press, 1999)
 Gilmanの本は他の人もあげていると思いますが、数あるGilman本(そしてダブり、使いまわしの多い)の中でも美容整形という新しい分野に挑んだ最近のヒット作(?)ではと思いあげました。(といってもいつものように、ダブりはあります。)近代美容整形の出現を19世紀から20世紀初頭の人種差別に連関させて論じています。人種の他者性(劣等性)を示す顔の特徴を外科のメスによって治療し、社会に同化できるようにする。それを「通過」(pass)というキーワードで説明してます。同じ問題を扱ったもので、翻訳のあるエリザベス・ハイケン、『プラスチック・ビューティー:美容整形の文化史』(平凡社、1999年)はアドラーの「劣等感」という概念が、美容整形の社会的認知に大きな役割を果たしたことを指摘していて面白いです。ハイケンも人種について論じています。(石塚久郎) 目次に戻る

Yolton, John W.
Thinking Matter:Materialism in Eighteenth-Century Britain.
(University of Minnesota Press, 1983)
 文学研究者に以外と知られてないのではと思い、これもしいてあげました。Lockethinking matterという示唆に端を発する18世紀materialismの哲学・思想史。特に、chapter 8, ‘The Physiology of Thinking and Acting’は短いながらも18世紀における認知と行為をめぐる生理学をうまく整理整頓していて勉強になります。(石塚久郎) 目次に戻る

Rousseau, G.S. ed.
The Language of Psyche: Mind and Body in Enlightenment Thought.
(University of California Press, 1990)
 G.S. Rousseauは18世紀(啓蒙期)における文学と医科学のインターフェイス的研究の大御所といっていい人なので、本来ならば彼の3巻からなる論集(Enlightenment Crossing; Perilous Enlightenment; Enlightenment Borders [Manchester UP, 1991])をあげるべきかもしれませんが、大分になるのでこの本をあげました。UCLAのClark Library Lectures, 1985-86の論集。Roy Porter, Simon Schaffer, Richard Popkin等、どれも力作ぞろい。Further Reading(文献)も参考になります。(石塚久郎) 目次に戻る

Bewell, Alan
Romanticism and Colonial Disease.
(Johns Hopkins University Press, 1999)

 この分野におけるロマン派プロパーの文献で推薦できるようなものはあまりないので、しいてこれをあげてみました。宮本さんもあげているかと思います。(宮本さん書評お願いします。)Bewellの書いた論文にはいつも驚かされます。以外な視点とコロンブスの卵的発見。同じ分野を研究するぼくにとってはとても刺激的です。Medical geographyという観点からロマン派をきっていますが、それにとどまらず、tropical invalids(熱帯植民地で虚弱体質になって帰ってきたイギリス人)という植民地支配の負の要素をロマン派のテクストに読みこんだのが面白かった。この本の前身となった論文、 ‘Jane Eyre and Victorian Medical Geography’, ELH 63(1996), を読めば大体のところはわかるので、一冊読むのがしんどいと言う人にはこの論文がお薦めです。(石塚久郎) 目次に戻る


Fletcher,Anthony
Gender, Sex & Subordination in England 1500-1800.
(Yale University Press, 1995)
 ラカーのMaking Sexは他の人があげていると思うので、あえてこれを紹介しました。(著者には留学中Essex大学でお世話になったということもありますので。)ラカーやシービンガーらの論点をうまく(ジェンダー中心の)社会史に展開させ、かつ、これまでの先行研究を消化吸収し要領よく(といっても400頁にもなりますが)纏め上げた本です。男性性と女性性の社会的構築に力点をおいています。(石塚久郎) 目次に戻る

Vila, Anne C.
Enlightenment and Pathology: Sensibility in the Literature and Medicine of Eighteenth-Century France.
(Johns Hopkins University Press,1998)  
 感受性と文学を18世紀のフランスでやるとどうなるのかの御手本のような文献。扱っているのはフランスだけれど、part 1の啓蒙期の医学における感受性を解説している部分はわかりやすくてお薦め。イギリス小説版は、Ann Jessie Van Sant, Eighteenth-Century Sensibility and the Novel: The Senses in Social Context (CUP, 1993)で見られます。こちらも良書。(石塚久郎) 目次に戻る

Barker-Benfield, G.J.
The Culture of Sensibility: Sex and Society in Eighteenth-Century Britain
(University of Chicago Press, 1992)

 18世紀は感受性(sensibility)の世紀だというのはいろんな方面から言われていたが、それを包括的に扱ったものはこの本が出るまでなかった。医科学も視野に入れているが、特に強調されているのは、中流階級の女性と消費社会、フェミニズムの躍進と感受性(特にMary Wollstonecraft)、文化・社会の女性化、感受性のジェンダー化などである。18世紀研究の大御所Rousseau, Trumbachの両氏に酷評されるも、18世紀感受性の文化の基本文献におさまっている。(石塚久郎) 目次に戻る


Stafford, Barbara Maria.
Body Criticism:   Imagining the Unseen in Enlightenment Art and Medicine.
(MIT Press, 1991)

 言わずと知れたというべきか、Staffordの名を一躍有名にした啓蒙期における身体(論的)視覚文化論。晦渋な文体だが大まかな論旨・図式は明快といえば明快。著者の目論見は、啓蒙期に貶められた「イメージ」(image)の復権(研究・教育双方において)、それに尽きる。言葉vs.映像という2項対立項が様々な形で変奏される。テクスト文化と視覚文化、ロゴス中心主義と感覚・経験主義、ネオ・プレトニズムとロマンティシズム(あるいはバロック)等。著者はいずれにおいても後者に価値を置く。Visual images(図版)でもって読者を啓蒙しようとするStaffordの姿勢には圧倒される。翻訳はStaffordを敬愛する高山宏によって続行中。この後に出たArtful Scienceは高山訳で産業図書より出版済み。(石塚久郎) 目次に戻る