研究の全体的な狙い (申請より抜粋)

 

 

1.  研究の全体的な目的

【歴史の重層の複合体としての医学史】

この研究は、近現代の日本の医療を、病気・医者・患者の三つの枢要な要素の複合体ととらえ、それぞれが作り出す1)身体環境の歴史、2)専門職の行動の内実と文脈の歴史、3)文化=社会的な行動としての病気経験と受療の歴史の三者が複合したものとして医療の歴史をとらえる。そのうえで、三者が相互に影響を与えながら、それらの要素の内実と要素間の関係がどのように変化したのかというダイナミズムを明らかにする。さらに、そのダイナミズムにおける、鋭角的な改革・ゆるやかな変化・古くからある特徴の復興や再強調が、どのような<歴史の重層>となって、日本の医療の全体としての構造が形成されたのかを描き出すことを目標とする。

 

2.研究の学術的背景

【新しい医学史と、歴史と医学の対話のための概念枠組み】

1970年代から主としてヨーロッパ・アメリカで発展した新しい医学史研究は、かつての狭く定義された「学問としての医学」に関心を集中させた医学史から、広い意味での「実践としての医療」の歴史へと関心を広げた。この視点を得た医学史は、現代社会が直面する医療をめぐる議論の背景を提供する学問領域となった。このような関心の拡大と、より深く問題を掘り下げる作業の中で、実践としての医療を構成するいくつかの構造的な要素が明らかになり、それらの要素を理解するべき多様な文脈も明らかにされた。(Bynum and Porter, 1992; Cooter and Pickstone, 2000

この海外の動向に直接・間接に影響されると同時に、国内におけるさまざまな医療の問題にも触発されて、日本を対象とした医学史においても、人文社会系の学者がこの領域に参入し、本格的なリサーチと洗練された概念装置に基づいた優れた学術書・論文が数多く出版されるようになり、それまでこの領域における主たる研究者であった医学系の学者たちに刺激を与え始めている。(藤野、1993; Johnston, 1995) 

日本における新しい医学史は、主として歴史学の視点から問題を設定し、それに答えることを通じて優れた成果を上げてきた。その成果と洗練された問題意識を、現代にも通じる医療の基本構造の文脈におくことで、医療と歴史学・人文社会科学が創造的な対話をする概念枠組みを作り出し、それに肉付けすることがこの研究の目標である。

 

【病気・医者・患者の歴史的変化モデル】

その概念枠組みの中心は、「ヒポクラテスの三角形」と呼ばれる、病気・医者(治療者)・患者の三つの要素が医療のコアを形成するという発想である。歴史を通じて現代に至るまで、「患者が病気にかかって、医者がそれを治す」という三つの要素からなる構造は、医療の本質として変わらない。(Rosenberg,1992) この三要素が複合して起きる医療という現象の歴史的な変化を模式図化すると図1のようになる。(図1)そこでは、医療全体を変化させる一つの原動力があるわけではなく、環境・科学・政治・経済・文化など、社会の中のさまざまな領域が、多様な経路を通って医療の三つの構成要素に独立に働きかけて変化させ(矢印群A)、その変化を被ったそれぞれの要素が別の要素に影響を与え(矢印群B)、医療という場を構成し、さらに、その変化をこうむった要素がループを描いて社会を変化させる(矢印群C)という、多元的・多関係的な構図となる。この多元性・多関係性のゆえに、たとえば明治維新や第二次世界大戦後の改革などの体制の変化に端を発する鋭角的な変化は、ゆるやかにしか変化しない部分(たとえば疾病構造や、既存の医者の教育内容とエトス、患者の受療行動など)や、医療の中の古い構造(たとえば開業医制度、罪に対する罰としての疾病観など)などと並存しながら、医療という複合体を形成した。

 

 

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【断絶と持続の複合体としての近現代の医療―明治期、大正・昭和戦前期・戦後】

研究の対象である時期区分(1850-1970)に、日本は、歴史学一般で用いられている時代区分になっている<明治維新>と<第二次大戦後の民主化>という二つの大きな政治体制の変化を経験している。これらが医療にもたらした変化のうち、前者は多くの研究の対象になっており、後者についても先駆的な研究が現れている。明治維新という政治体制の変化に直接間接に起因して欧米から輸入された医学理論と医療と公衆衛生の体制は、コレラなどの比較的新しい疾病や、あらたに「発見」された各地に古くからある病気(たとえば新潟のツツガムシ病・山梨などの住血吸虫症など)に対処するために、既存の医師・患者の行動パターン、地域共同体の構造、あるいは日本の地理的・地形的な特徴と融合して、「日本流の近代医療」を生み出した。(Oberlaender, 1995; Suzuki, 2009; 尾崎、1997)。戦後の医療改革は、新しい治療法の導入と一致して疾病構造に鋭角的な変化をおこす一方で、植民地医学の蓄積を活用し、戦前から継続している変化や改革を利用・温存し強化することで、「日本流の現代医療」の基礎を形成した。(杉山、1995; 田中・杉田他, 2009; Aldous, 2008)これらの成果の多くは、医療の変化の特定の側面に光を当てた断片的・素描的なものが多い。さらに細かい事例研究を行って、これらの成果を合わせて、政治体制の変動にまたがった変動や持続や、あるいは中長期のゆるやかな変動と持続との関係を、「病気−医者−患者」の軸で分析することで、近現代の日本の医療の形成を明らかにする。すなわち、明治維新期、大正・昭和戦前期、占領と戦後の三つの時間枠にわけ、病気・医者・患者という各要素について、それぞれの連続と断絶が、いかに「歴史の重層」としての日本の医療を形成したかを具体的に明らかにする。

 

【学際的総合学の焦点としての医学史】

この研究は、「総合」と「焦点」の二つを持つように設計されている。すなわち、環境・政治経済・科学・思想文化の幅広い文脈から形成される、疾病・医者・患者が出会う場としての医療という焦点を研究する視点になっている。これは、医療の中の特定のトピックや、特定の時代研究の制限を超えて、歴史学と医学が対話する、総合的であると同時に具体的な枠組みを作り出すことを構想している。