イアン・ハッキング『遁走者たち』を読む

佐藤雅浩

2007/01/15

 

Ian Hacking, Mad Travelers: Reflections on the Reality of Transient Mental Illnesses (University of Virginia Press, 1998)

 

 イアン・ハッキングはVancouver生れの哲学者である。言語哲学、科学哲学、確率統計学などの業績で高名であり、邦訳書も多い。初期の著作は統計的推論や科学実在論に関する科学哲学的研究が中心だったが、近年は児童虐待と多重人格をめぐる論争(北米を中心とした「記憶論争」)に関与しつつ、1920世紀心理学・精神医学史の分野にコミットしている。

 今回取り上げたMad Travelersは、19世紀末〜20世紀初頭のヨーロッパ大陸で注目された、fugue(遁走)を論じた精神医学史的研究である。fugue19世紀末フランスのボルドーで報告され、その後フランス全土、ドイツ、イタリア、ロシアなどでも症例報告が相次いだ精神疾患である。fugueの患者は低賃金の男性労働者が中心で、突然記憶を失って各地をさまよい、旅の途中で記憶を取り戻すという症状を繰り返す人々であった。この疾患は、J. M. Charcotをはじめとする当時の精神医学者たちの関心を引き付けたが、20世紀初頭には急速に人々の関心を失った。本書では、こうしたfugueの症例が当時のヨーロッパ大陸で注目された理由について、史的資料と時代背景からの説得的な考察が試みられている。

 本書の意義は、fugueという疾患の歴史を記述した精神医学史的貢献はもちろんのこと、fugueを事例として、特定の時代・地域における精神疾患の「流行」を分析する方法論的視座を提示した点にある。こうしたハッキングの研究視角は、19世紀末〜現代における多重人格概念の盛衰と、「記憶の科学」の創出を論じたRewriting the Soul: Multiple Personality and the Science of Memory, (Princeton University Press, 1995)[邦訳:北沢格訳『記憶を書きかえる』早川書房]から引き継がれたものであるといえよう。

 本書においてハッキングは、fugueや多重人格など、特定の時代・地域においてのみ注目される精神疾患を、「一過的な精神疾患transient mental illness」と呼び、こうした疾患が隆盛する理由を、生物学的メタファーであるecological niche(生態的地位)という概念を用いて考察した。ecological nicheとは、ある生物種が生態内で獲得する生態的地位のことであり、その地位を獲得するためには複合的な条件が必要とされる。ハッキングは、興隆しては消えていく「一過的な精神疾患」を生物種に喩え、その生物種=精神疾患が特定の空間で繁栄(thrive)する諸条件を考察したのである。

 その条件(本書では「ベクトル」と呼ばれている)としてハッキングが提示しているのは、@Medical Taxonomy(医学的分類法)、ACultural Polarity(文化的両極性[1])、BObservability(観察可能性)、CRelease(救済)の存在である。

 fugueの場合、@にあたるのがepilepsyhysteriaであり、どちらの診断がfugueに適切かという論争が医師や精神鑑定医の興味を引き付けた。またAに関しては、fugueは勃興しつつあったロマンティックな観光産業と、変質論を背景とした浮浪罪(criminal vagrancy)という両極的文化に合致する点で注目された。Bとしては、徴兵制に関連する国民登録制度や法医学の発達があり、放浪するfuguerIDを携帯していないことによって逮捕・投獄され、また精神疾患として可視化される環境にあった。最後にCとしては、fugueは低収入で困難な生活を送る当時の男性にとって、現実からの逃避を夢想させ、ある種の救済の感覚をもたらした。

 fugueは、上記のような条件が整った19世紀末のヨーロッパ大陸において観察され、条件が欠けていたイギリス・アメリカでは観察されなかった。ハッキングは、前述のRewriting the Soulにおいて、多重人格が社会に出現する条件として児童虐待問題や心霊主義の興隆を挙げ、これらを「多重人格の宿主(ホスト)」と呼んでいたが、今回のMad Travelersにおいて導入されたecological nicheという概念は、この「宿主」という考え方を重層的に発展させたものと位置づけられる。

 こうしたecological nicheという視角は、fugueのみならず、これまで構成されてきた多くの精神疾患を考察する上で有益な手掛かりとなるだろう。とくに、ある疾患が地域的な偏りをもって「流行」した場合、この概念はその偏りを説明するために効力を発揮するものと思われる。各地域のローカルな精神医学史研究が蓄積されつつある現在、それらを横断的に比較分析するためのツールとして、ecological nicheは新たな視角を提供してくれるだろう。

 しかし一方で、あらゆる精神疾患の隆盛を説明する際にecological nicheの概念が機能するかといえば、いくつかの疑問が残る。例えばfugueとは異なり、観察される地域的偏りが少なく、また長期にわたって精神医学の対象であった精神疾患(例えば神経症など)を対象とする場合は、比較対象が明確ではない分、そこで機能したベクトルをより詳細に検討しなければならないだろう。

 また、Cultural Polarity(文化的両極性)やRelease(救済)の存在は、どのような資料・史実によって証明されるのかについて、本書では明確に議論されていない。とくに複数の資料を参照する場合、いずれかの資料に「文化的両極性」や「救済」を示す記述が見つかればよいのか、それとも何らかの基準を満たすような資料が存在する必要があるのか等について、今後議論が深められる必要があろう。加えて、どのような歴史的コンテクストを上記ベクトルとして見なすことができるのかという点についても、同様の課題が残されている(eg:なぜfugueの流行を、他でもない観光産業の勃興や徴兵制の有無から説明するのか)。

 とはいえ、これまで方法論の検討が十分であったとは言いがたいこの分野の研究に、参照すべき方法論的基準を提出したという意味において、本書は高い評価に値するものである。今後は本書で示された概念を援用・改訂しながら、既存研究の再分析や、新たな事例研究を蓄積していくことが期待される。

 



[1] 当該の精神疾患が、一方でromanticや高潔、他方で不道徳や犯罪傾向という両極的な文化の間に位置づけられること。