Mazumdar「優生主義者と都市貧困層」論文をめぐって

皆吉淳平

 

精神医学史研究会 2006/09/04 慶應三田キャンパス

 

Pauline M.H. Mazumdar, 1980, “The Eugenists and the Residuum: the problem of the urban poor,” Bulletin of the History of Medicine, vol.54, pp.204-215

 

 

Pauline M.H. Mazumdar(マズンダー)は、医学史および優生学史の研究者である。特に優生学史に関しては、優生学協会に関する歴史研究を著している(Mazumdar, 1992, Eugenics, Human Genetics and Human Failings: The Eugenics Society, its sources and its critics in Britain, London: Routledge)。また最近では、優生学の国際的な広がりを示す全6巻に及ぶアンソロジーの編者となっている(Mazumdar ed., 2007,  The eugenics movement : an international perspective, 6 vols., London : Routledge)。今回取り上げる論文は、こうした彼女の業績に先駆けたものである。

マズンダーが対象としているイギリスは、「優生学」の名づけ親であるフランシス・ゴルトンを生み、優生学や優勢主義的な運動が社会的にも広がりを見せた国である。その一方で、強制的断種法などの優生立法が制定されることはなかった。このような意味で、ドイツやアメリカに比べるとイギリスは、優生学史研究の対象としてインパクトに欠ける印象があるのは否めないだろう。それに対してイギリスにおける優生学史研究は、1970年代後半から1980年代前半にかけて最も生産的だったと言われている。この時期の研究によって、「優生学は、悪しき疑似科学である」という固定観念に再検討が迫られたとされる(鈴木善次ほか「展望:優生学史研究の動向(T) イギリス優生学史研究」『科学史研究』No.180)。現在では古典とも言うべきマッケンジー(Donald A MacKenzie)による科学社会学的な研究や、サール(G.R. Searl)による社会思想史的な研究が生み出されたのも、ちょうどこの時期である。

このマズンダーの論文も、「優生学」あるいは「優生運動」を「悪」として決めて掛かるものではない。その目的は、イギリスの優生運動(eugenics movement)をより大きな社会運動(movement)の一環として描き出すことである。そこで、「都市貧困層」(residuum)という問題に直面する社会活動家たちに着目する。このように「階級」に照準する点が、ドイツやアメリカの優生学が人種をめぐるポリティクスであったことと区別される、イギリスの特徴である。貧困の原因として精神薄弱、不節制、大家族、性病、遺伝などに関心を持った様々なソサエティ(協会、団体society)があった。こうしたソサエティは関心とメンバーを共有しており、実際に多くの人は複数のソサエティに参加し活動していた。このような多面的なつながりを描き出すためには、複雑な全体(a complex whole)として捉える必要がある。マズンダーは、これらのソサエティ相互のつながりを描くなかで、優生学協会(the Eugenics Society)との関係を記述してゆく。

具体的に取り上げられているのは、主に1909年に多数意見と少数意見に分裂しつつも報告を出したthe Royal Commission on the Poor Law(救貧法王立委員会)と1908年に設置され翌1909年に報告を出したthe Royal Commission on the Care and Control of the Feeble-Minded(精神薄弱者のケアと統制についての王立委員会)である。救貧法(the Poor Law)と1914年に成立したthe Mental Deficiency Actに関わるものである。これらの法律をめぐって、C.S. LochMary Dendyらの慈善組織協会(the Charity Organization Society)とウェブ夫妻(Sydney and Beatrice Webb)らのフェビアン協会(the Fabian Society)が、優生教育協会(the Eugenics Education Society)と重なり合っていたことが記されてゆく。

マズンダーの結論は、イギリスの優生学運動はupper middle classが都市貧困層を理解し、そして彼らをコントロールしようとする試みだったというものである。教育レベルの高い(educated)社会活動家はグループを形成して、彼らが「都市貧困層(Residuum)」と呼んだもう一つの階級を、一掃することに尽力したものだったのだ。

 

この論文の方法論に見ることのできる特徴は、「集団」に着目しているという点である。

 

「社会」を記述するためには、方法論的に何らかの分析単位が必要となる。この論文では社会全体や政治社会あるいは個人ではなく、集団としてのソサエティに着目する。ソサエティを単位としつつ、複数のソサエティにコミットする活動家個人を媒介にすることで、特定個人に還元できない「優生学運動」を、より広範な都市貧困層をめぐる運動の一環として描き出しているのである。

このような集団への着目は1992年の著作にも通じるものである。そしてこれは、マッケンジー(MacKenzie, 1981, Statistics in Britain 1865-1930: The Social Construction of Scientific Knowledge)やケヴルズ(Kevles, 1985, In the name of eugenics: Genetics and the uses of human heredity)が、ゴルトンやピアソンといった「優生学者」を記述する章から書き始めるのとは対照的である。

こうした方法論の利点は、まず「誰が優生学者か」という問いを回避できることである。「優生学」の捉え方によっては、当時(20世紀初頭)のイギリスにおける主だった思想家・政治家・運動家のほとんどに「優生学者」のラベルが貼られる可能性があると言われている。それに対して、優生教育協会.を「優生学」の中心として位置づけ、この協会と他のソサエティとの関わり合いを描き出すという方法は、集団を単位とすることで「誰が優生学者か」という個人に照準した問いを回避することができる。そしてこの方法論だからこそ、「優生学運動」として、より広範な「社会運動」に位置付けることも可能になる。例えば救貧法改正運動の中に優生学運動の要素を見出すという作業は、個人を単位としない方法論だからこそ可能となる記述法である。こうした方法論によって、「優生学運動」を科学の問題に還元しない視野が開かれる。つまり、科学史や科学社会学よりも広い視野である。

このように集団に着目した方法論は、この論文の含意を広げている。

一つはイギリス社会学史研究への含意である。ハリデイは1904年設立のイギリス社会学会(Sociological Society)に着目し、「社会学運動(sociological movement)」を考察している(R.J. Halliday, 1968, “The Sociological Movement, The Sociological Society and the Genesis of Academic Sociology in Britain,” The Sociological Review, 16(3), New Series: 377-98)。イギリス社会学会は1906年まで精力的に活動した後、分裂しているのであるが、20世紀前半を対象としたイギリス社会学史研究において、重要な研究対象となっている。ハリデイはこのイギリス社会学会を三つの主要「学派school」の離合集散として記述している。それが優生学派、都市学派、社会哲学派である。これらはマズンダーが重点を置いた優生教育協会、フェビアン協会、慈善組織協会にほぼ対応するものである。マズンダーの研究は、社会学と優生学との交錯を解きほぐす材料にもなるのだ。

 

しかしながら、マズンダーのこの論文には欠点も少なくない。

まず、フーコー(Michel Foucault)の枠組みに依拠する研究を目にしているわれわれにとっては、マズンダーが優生学を捉える視点に物足りなさを感じることもある。セクシュアリティや生殖(リプロダクション)あるいはバースコントロールと、優生学との関係に触れられていないからである。(英語圏でフーコーに関する「リーディングス」が刊行されるのは1980年代半ば以降である。)

より重大なのは、その方法論に関するものである。集団に着目するという方法論は、一見すると、前回の研究会で取り上げられたゴールドスタインの研究と共通するものである。しかしながらゴールドスタインと大きく違うのは、研究会で指摘されたように、その対象とした集団の性質である。ゴールドスタインの場合は学派(school)という境界の明確な集団に着目していたのに対して、マズンダーが対象とした集団の境界は必ずしも明確ではない。さらに、何人かの鍵になる個人が、どの団体に所属していたのかを見渡すような一覧表もない。その意味では、マズンダーの研究はやや不徹底であるとの批判を免れえないだろう。(1992年の著作の第一章は、この論文を展開するかたちで優生(教育)協会についての歴史研究となっている。)

さらに、集団に着目したとしても「誰が優生学者か」という「優生学」の同定をめぐる問題は解決しないのではないだろうか。マズンダーは「優生学」を単なる疑似科学や偏ったイデオロギーとしてではなく、複雑で多様なものとして描き出している。しかしながら、その一方で「批判」の鋭さが失われているように思われる。「優生学者」個人を批判するのか、あるいは、優生学的信条を掲げた集団を批判するのか。いずれにおいても、「優生学」なるものを同定する必要に迫られる。

加えて、マズンダーは論文の結論的知見を、優生学運動をupper middle classが都市貧困層を理解し、そして彼らをコントロールしようとする試みだったと提示している。しかしながら、彼女が着目した集団という単位と、それを包摂するupper middle classという階級との間には若干の距離がある。マズンダーが記述してきた内容と結論的知見との間に何らかの「ジャンプ」があるとすれば、そのジャンプの仕方は適切なのか。サールによるマッケンジー批判などとともにさらなる検討が必要である(G.R. Searl 1981, “Eugenics and Class,” in C. Webster (ed.), Biology, Medicine and Society 1840-1940, Cambridge University Press)。

 

マズンダーのこの論文では、「優生学」をめぐるシャープな論争が扱われているわけではない。「優生学」的な発想に関しては広範なアグリーメントが存在していたということを示すものだからである。それゆえに、テンションに欠けるという読後感も否めないだろう。

しかしながら、産業革命以降のイギリス都市が抱えた最大の問題である「貧困問題」を、「優生学」との関わりのなかで取り上げた点は評価できるだろう。チャドウィックが活躍した「新救貧法」の成立から公衆衛生改革、その後のブースやロウントリーによる社会調査、そして1909年の救貧法改正をめぐる王立委員会での慈善組織協会とウェブ夫妻らのフェビアン協会。「貧困」という問題系を軸にして考えることで、「優生学」あるいは「優生学運動」と、社会科学との関係性が析出される。マズンダーの「優生学主義者と都市貧困層」という論文は、このような可能性を開くものだと言えるのではないだろうか。

 

2007/06/03