ジャン・ゴールドシュタイン『ポスト=フランス革命期の自己概念』を読む
鈴木晃仁
精神医学史研究会 2006/07/03 慶應三田キャンパス
Jan Goldstein, The Post Revolutionary Self: Politics and Psychie in
ジャン・ゴールドシュタインはシカゴ大学の歴史学教授。彼女を一躍有名にしたのは、ピネル以降のフランス精神医学の中心をなしたエスキロールとその弟子たちの精神医学を、19世紀のフランス社会に位置づけたConsole and Classify: the French Psychiatric Profession in the
Nineteenth Century (Cambridge: Cambridge U.P.,
1987) である。同書が新しい精神医学史研究の古典的な研究書の一つであるのは、それが扱っている時代や内容が重要であるだけでなく、80年代の新しい精神医学史研究に、一つの模範を示し、歴史研究としての精神医学史が達成すべき学術的水準を飛躍的に向上させた点にもある。 読みこなしている文献の量、シュアーな史実の把握、洗練された分析の枠組みなど、どの点をとっても極めて水準が高い著作である。
そのゴールドシュタインが18年ぶりに出版したモノグラフは、期待を裏切らなかった。前作と較べながら読むと、この20年間の医学史研究の成熟、特に分析視角が豊かになったことが実感される。二つの著作の間の最も顕著な変化は、「専門職集団の形成」という枠組みに大きく依存した前著に較べて、『ポスト=フランス革命期の自己概念』は、より広い問題に取り組む枠組みが採用されていることである。この、より強力な新しい枠組みの中核をなしている仕掛けはたくさんあるが、その中でも重要なのは、<概念の中身>を主題化したこと、カバーしている時代を拡大したこと、<自己>という広がりをもった概念に注目したこと、それを通じて政治思想とイデオロギーの歴史を位置づけることが可能になったことなどである。
<概念の中身>の問題は、科学史における古典的なインターナリズム/イクスターナリズムの対立と重なっている。前作においては、エスキロールの弟子の精神医学者たちが、専門家としての地位を確立する目的のために行った活動に注目するあまり、彼らが用いた概念の社会的な機能ばかりが強調されて、その中身が取り上げられないという不満を持たせる部分があった。「モノマニー」概念の分析は、前著の白眉であると同時に、「専門家集団の形成」という視点のみに依存した医学史研究の限界を最も強く感じさせる部分でもあった。彼女の分析を読むと、精神医学者の独自性を際立たせ、法律家たちが使うのとは違う概念であれば、その中身は何でもよかったのか、という疑問が湧くと言い換えても良い。モノマニーという概念は、専門家集団や法廷の専門用語を超えて社会に流通し、流行語にすらなったことを思えば、ますますその疑問は強くなる。
この欠落は、今回の著作においては全面的に克服された。ヴィクトール・クーザンという、19世紀前半のフランスで大きな思想的・政治的・制度的な影響力を持ちながら、哲学史の中では必ずしも大きな扱いを受けていない学者の自己概念が本書の主題であるが、その自己概念の内実に立ち入り、それが革命後の社会における保守思想に基盤を与えたありさまが分析されている。革命前の旧制度化においては、<ある団体に属していない個人は、彼の想像力を暴走させて危険である>と考えられ、個人の人格の安定させる原理は、その個人の<所属性>に求められていた。一方で、個人を感覚の束として捉えるコンディヤックらの概念は、統一的な個人という原理を否定し、刺激に走らされる革命の混乱と暴走を招いた。この二つのイデオロギーに合致する自我概念と対置される形で、クーザンらは、意思という内的な能動性を持ち、内省によって明らかにされる統一された自己という概念を採用する。そして、この概念を通じて、個人の内面性は万人に平等に与えられているが、内省の能力には差があるので、自己にアクセスできる少数と、それができない多数という形で社会を階層化することが正当化される。すなわち、団体でなく個人を単位にした社会、民主主義に基づく社会、個人の能力によって階層化された社会という、フランス革命以後の社会を構成する三つの原理が、クーザンらの自己概念に盛り込まれているのである。ゴールドシュタインによるこのような分析は、概念の内実に踏み込むことで初めて可能になった洞察であることを強調したい。また、クロノロジーの設定もこの議論を支えている。前著では革命以後に形成された専門職集団が集中的に検討されていたが、本書ではフランス革命以前の思想にも注目することで、革命をまたいだ変化が検出されている。扱っている時代を広げたことのメリットがここでは大きい。
上で触れた議論は、概念の内実に社会的な関心を読み込む、古典的なイデオロギー分析の手法に基づいているといえる。イデオロギー分析という手法は、しばしば硬直した図式的なものになりがちで、歴史学者には必ずしも人気があるわけではないが、彼女の著作においては、ソリッドな実証の基盤を与えられている。これは、検討した資料の量と多様さにもよるが、それ以上に貢献しているのは、彼女の著作が制度史的な視角にも支えられていることである。本書における、フランスのエリート教育のカリキュラムの中に組み込まれたものとしてクーザンの自己概念を検討している部分は、ゴールドシュタインの議論の説得力を大きく高めている。クーザンがエコル・ノルマルで教えた学生たちは、卒業後もクーザンとの個人的なつながりを保ったと同時に、リセの教育のメカニズムの中で自己概念を教え、生徒たちに実践させた。比較的等質なリセの生徒たちに教えられたという制度的な側面を持つ概念を主題に選ぶことで、ゴールドシュタインの著作は、非常にシュアーなものになっている。概念の歴史を書くときに「言説空間」という装置がしばしば使われるが、これは、研究者の頭の中で議論を成立させるために仮設的に造られた装置なのか、それとも歴史の中で現実に存在して、人々の行動や意識に影響を与えた現象を指しているのか、判断に苦しむことがある。この概念の分析につきまとう曖昧さを克服したのが、ゴールドシュタインの制度的な空間への着目である。
前著もそうであったが、ゴールドシュタインの新作は、ソリッドな歴史研究と、洗練された知識社会学的な分析を融合させた水準が高い著作である。議論の各部においてはおそらく批判もあるだろう。「医療」という、その根本において医者と患者という二人のプレーヤーがいる対面的な行為から、自己概念という一人の主体で話が完結しうる行為に主題を変えたことで、前作が持っていた面白さを失ったという批判ももちろん可能だろう。それにも係らず、ゴールドシュタインの著作は、当該時代の研究者を超えてインスピレーションを与える必読書になるだろう。