WP001 鈴木晃仁「治療の社会史的考察−滝野川健康調査(1938)を中心に」

 

コメント 山下麻衣(京都産業大学経営学部)

 

 

 コメント1:低所得者が医師に診断をうけ治療を受けるにいたるまでの道程とその背景

 

筆者は,現在,近代日本看護史研究と並行して,戦前日本における整形外科の発展と肢体不自由児療育事業に関する研究を進めています。後者の研究過程で,低所得者層が医師もしくは医療に懐疑的であった様子,そして,懐疑的な低所得者層をどのように説得し診断をうけさせたのか,以上が書かれた興味深い記述をございましたので,紹介させていただきます。(竹澤さだめ 東大整形外科教室(主任高木教授)「東京府下岩の坂の「クリュッペル」の調査」『日本整形外科学会雑誌』第6巻第6号,1932(昭和7)年325日 松本昌介『竹澤さだめ 肢体不自由児 療育事業に情熱を燃やした女医』田所出版,2005年,136141)その上で,鈴木先生の論稿にひきつけて,コメントを付します。

まず,上記論文には,以下のような記述がございます。

「ある膝関節炎のおかみさんが紙捩の内職をした金で売薬を買ってそれを大切に大切にして瘻孔につけ,上を膿でどろどろになった座布団でまいているのもございました。またあるかみさんはひどい小児麻痺で右手は少しもきかなくて「医者に見せた事がありますか」とききましたら「子供の世話やら内職をせねば食べて行かれないから,命にかかわらない病気だからいくら唯でしてくれても治療には通えません。」と言って笑っておりました。(p.139)

上記は,昭和6年(昭和前半期)の記述です。この記述からは,鈴木先生が御論稿で指摘されている「医療の多様性」,さらには,疾病の程度(「命にかかわるかどうか」)が低所得者層の受療行動に大きく影響していることが確認可能です。

さらに,次のような記述もございます。

「本年(注:1931年 昭和6年)8月東京女子医学専門学校主催で板橋町岩の坂に無料診療所を開きました。その際に高木教授から,東京で一番生活程度の低い,その板橋町岩の坂のクリュッペルを調べて見よとの事でございましたので,私はこの貧民長屋を個別訪問してクリュッペルを探し出そうとしました。始めは非常に変な目で持って見られ,いろいろたずねても,てんで相手に致しません。「カリエス」の子供が,目の前にいてもかくしていて,診せようといたしません。そこで誰かこの辺の人手で,よくこの長屋の人々から信頼されている人があって,その人と一緒に個別訪問しなくては,とても駄目だと存じましたので,こういう人をさがしましたら,幸いに丁度板橋の町役場の衛生係の方と,長屋の近くの敬隣園と言う託児所をしておられる方とが非常にこの長屋の人々から人望があってその人々の言う事なれば,何でも隠さず話したり,相談したりして,例えば前にした悪事でも,その罪を全部話すほどでございます。」(p137p138

上記記述を読みますと,やはり,低所得者層にとって,医師もしくは家庭以外の診療の場(病院,診療所)が遠い存在であったことが確認できます。くわえて,その縁遠かった医師もしくは診療の場と低所得者が接近し,実際に調査するに至り,受療をさせた背景には,共同体(地域コミュニティー)に根ざした衛生係・託児所があったことも確認可能でした。

そこで,コメントですが,「低所得者層が,経済的リスクがあるにもかかわらず(親戚縁者にお金を借りる,もしくは質屋を利用する等,無理をしてでも,ということかと思うのですが)治療を望み,実際に治療をうけるという行動をとるに至った」背景とはいかなるものだったのでしょうか。

つまり,無理をしてでも病院に行かなければどうにもならないほど病気が重かったという意味においての「疾病の程度」が大きく影響していたのはもちろんですが,さらに,上記記述に見られるような,医師や治療の場に対する低所得者層の「ある種の不安」を取り除いた何か(公衆衛生や母子衛生に関連した地域ごとの「共同体」?)が東京市滝野川区に存在しており,患者の受療行動に大きく影響していたのではないか,と考えました。

 

コメント2:療術行為と正規の医学との関係について

 昭和戦前期における医療の多元化の進展にともない,正規の医学を習得した医師はトータルで全人的な病人の理解ができないところに欠陥があり,療術行為者にはその能力が備わっていると考えられていたとあります(p7p8)。これは,日本の看護婦が医師と対等の専門職であると主張する場合のロジックとまったく同じで驚きました。特に,GHQの看護改革により,第二次世界大戦後,看護婦の専門職としての自立がクローズアップされ,「看護婦ならではの技能とは何か」がさかんに議論されてきました。その中では,特に日本看護協会を中心に,医学は臓器を別々に診断するのに対し,看護学は患者の状態をトータルに観察することが前提であり,それが「看護婦ならではの」技能の根本であり,(医師とは根本的に異なる)専門職たる根拠であると主張してきました。

このような状況をみてみますと,日本の医療という空間の中では,歴史的に,(無資格の)療術行為者だけではなく,看護婦を含めた医師以外の有資格者との間にも,同じロジックで,議論が繰り返されているのではないかと考えました。

 

 

コメント  渡部幹夫(順天堂大学 医療看護学部

 

1938年の滝野川健康調査の詳細な読み直しから浮かび上がってくる太平洋戦争の直前の、日本・東京・滝野川の健康に関わる解析には大いに興味がもたれる。著者の言う水平的アプローチであるこの調査により得られた果実を当時は味わうことができなかった可能性があるが、今回の鈴木の論文はこれからの日本の医療、いや世界的な医療の展開に対する社会学的なひとつの方向性を示す可能性がある。医療のリスクを生存に対するリスクとして研究してきたが、経済的リスクとしての考え方は、私にとっては斬新なものである。

 

 細部へのディスカッションはこの場では避けることにして、私は太平洋戦争後の日本で大きな問題であった結核に対する、国家規模での垂直的アプローチである「5次にわたる結核実態調査」についての平成18年日本民族衛生学会でのポスター発表を提示したい。

 

 結核実態調査には水平的アプローチ的側面の調査も社会学的調査も含まれている。調査時の成果とは別に30年以上を経ての再検討は大きな歴史学的成果だけではなく、経済学的なリスク研究の上での成果をももたらすと考える。共同での研究者を募りたいと思う。

 

 この発表で特に強調したいことは、結核実態調査の全期間(20年)を通じて、結核予防法の存在下においても、他者に感染を引き起こす可能性のある結核の届出が55.1%を超えなかったことである。水平的アプローチの中に医療の受けてである市民の相貌は良く現れてくるとおもわれるが、医療を提供する医療者とその置かれた社会についても、研究の地平は広く残っているように考える。